ティナが失ったもの
水が、鉄の味がした。
クレイは革袋の口を離した。この深さまで下りると、水はいつもこの味に変わる。喉を通っても、冷えは胸で止まり、腹の底までは下りてこない。
三人は、また下りをやめていた。岩の裂け目が壁で行き止まり、その手前の窪みに腰を落ち着けている。
壁が近いぶん、声は遠くへ行かない。吐いた息が、すぐ手前で消えた。岩肌は灯の温みをすぐに吸って、足元に一つきりの焔だけが、闇に触れる手前で細く尖っている。
クレイは手のひらを、下の層へ向けた。弱りが、鳴らなかった。拾える者が、上にも下にもいない。手のひらが、暇をしている。
いつもは、暇のない手だ。誰かの脈が、たいてい掌の端で鳴っている。鳴らないと、掌がやけに広く感じた。広いぶん、空きがよく見える。
三つは埋まって、四つ目が空いたままだ。センの名が、その空きの底で静かにしている。呼ぶ相手は、もういない。
クレイは手を下ろし、暇な手で革袋の口を結んだ。
闇のいちばん遠くに、白い一点があった。退いても、間合いは変えない。その一点のあたりだけ物音が一段沈んで、こちらを窺う気配が濃くなっていた。
セルカが、剣の切っ先で岩をこつと突いた。
「ここ、なんもいないね」セルカが言った。
「いない」クレイが言った。「弱りも、張りもだ。ひさしぶりだ」
「あんたの手が、休めるじゃん」セルカが言った。
「休むと、空きが見える」クレイが言った。
セルカが、少し口をとがらせた。
「また、それ」セルカが言った。「暗いなあ」
クレイは、答えなかった。暗いのは、たぶん本当だった。
ティナの手もとで、帳面が新しい頁を開いていた。白いまま、字は一つもない。
この娘には、先に場所だけ空けておく癖がある。埋める言葉は、あとから追いつく。だがその頁は、下りのあいだもずっと白いままだった。
「まだ、空いてるんだ。そこ」セルカが言った。
「空いてる」ティナが言った。
「なにを入れるの、その頁」セルカが言った。
ティナは、答えなかった。ペンの先が、白いところで止まっている。落とす字を、まだ選んでいない。
クレイは、自分の手へ目を落とした。暇な手に、また空きが見えた。
「セン」クレイが言った。「あの子は、四つ目だった」
「うん」セルカが言った。
「三つは、拾えた」クレイが言った。「四つ目は、拾えない。そういう手だ」
セルカが、剣を握り直した。
「万能じゃない、でしょ」セルカが言った。「それ、もう聞いた」
「聞いても、変わらない」クレイが言った。「全員は、救えない」
その言葉を、クレイは自分の掌へ落とすように言った。
ティナのペンが、止まったままだった。止まったまま、白い頁を見ている。目だけが、字のない紙を往復した。
「その言葉、私も知ってる」ティナが言った。
いつもの検証の声だ。だが、その底が少し平らだった。
「知ってるって」セルカが言った。
「全員は、救えない」ティナが言った。「私は、一人も救えなかった」
セルカが、口を閉じた。クレイも、手を止めた。暇な手が、宙で止まる。
「どういうこと」セルカが言った。
「昔の話だ」ティナが言った。「別のパーティーにいた。いまの三人じゃない」
その別のパーティーの名を、クレイは聞いたことがない。この娘は、話してこなかった。
「聞いてない」セルカが言った。「そんなの」
「話してない」ティナが言った。「初めて話す」
ティナが、帳面の頁を一枚だけ戻した。そこにも、何も書いていない。書いていない頁を、指の腹でなぞる。
「六人いた」ティナが言った。「私を入れて、六人だ」
「ティナが、いちばん下」セルカが言った。
「下から、二番目」ティナが言った。
「なにが起きたの」セルカが言った。
ティナのペンが、白い頁の上でまた止まった。
「いまも、書けない」ティナが言った。「理由が、ないからだ」
書く役の手が、書けないと言った。クレイは、その手を見ていた。
「理由もなく、人が死ぬの」セルカが言った。
「死んだ」ティナが言った。「一度に。五人とも」
セルカが、息を呑んだ。
一度に五つ。クレイの手なら、二つ取りこぼす数だ。だがこの娘は、手を伸ばす場所にすらいなかった。
「事故だと、聞いた」ティナが言った。「たぶん。私は、そう聞いただけだ」
「誰から」セルカが言った。
「戻った先にいた人だ」ティナが言った。「顔も、もう思い出せない」
「あんたは、見たの」セルカが言った。
「見てない」ティナが言った。「私だけ、その場にいなかった」
「なんで、いなかったの」セルカが言った。
「別の用があった」ティナが言った。「私だけ先に、戻るはずだった」
「いなくて、よかったのかな」セルカが言った。
「私も、死んでた」ティナが言った。「たぶん。それも、わからない」
たぶん、が続いていた。この娘は断定の前に、必ず観察を置く。だが今日は、置く観察がなかった。見ていないからだ。
「見てないことは、書けない」ティナが言った。「だから、たぶんとしか言えない」
見ていない喪失を、この娘は理屈で囲ってきた。囲っても、中身は減らない。
ティナの指が、帳面の縁に止まった。開こうともせず、伏せようともしない。ただ縁に、指をあずけている。あずけた指の腹が白むほど力がこもっても、声は平らなままだ。
「なぜ、と思った」ティナが言った。「毎日、思った」
「答えは」セルカが言った。
「出ない」ティナが言った。「いくら考えても、出なかった」
セルカが、口をつぐんだ。次の問いを、まだ探している。
「今も」セルカが言った。
「今も、出ない」ティナが言った。「たぶん、一生出ない」
「だから、書くようになった」ティナが言った。「起きたことを、順に。ぜんぶ」
クレイは、いつもの帳面を思った。時刻。起きたこと。傷の有無。あの几帳面な欄は、ここから来ていた。
「わからないを、残さないため」セルカが言った。
「二度と」ティナが言った。「わからないままには、しない。そう決めた」
「書けば、わかるの」セルカが言った。
「わからない」ティナが言った。「でも、忘れはしない。それだけでも、違う」
ティナが、ペンを持ち直した。だが、まだ書かない。
「一度だけ、見た」ティナが言った。「説明の、つかないものを」
「奇跡」セルカが言った。
「呼び方は、知らない」ティナが言った。「死ぬはずの人が、死ななかった。一度きり」
その先を、クレイは訊かなかった。訊いても、答えの持ち合わせはなさそうだった。
「それ、どういう——」セルカが言った。
「わからない」ティナが言った。「見たのに、わからなかった。確かめる前に、機会がなくなった」
言いながら、ティナの指がペンの軸を一度だけ強く握った。声とは別に、手のほうが覚えていた。
「見たものを、書けなかったのは初めてだ」ティナが言った。「だから、余計に忘れられない」
ティナの声は、低くならなかった。事実を読むときの、平らな声のままだ。平らだからこそ、その平らさが際立って、泣くよりそのほうが応えた。
「その人は」セルカが言った。
「もう、いない」ティナが言った。「あのとき死ななかった人が、そのあと消えた」
「消えたって」セルカが言った。
「二度と、会えなくなった」ティナが言った。
死ななかった人が、あとで消える。クレイには、その順が妙に応えた。
「最後に、言いそびれた」ティナが言った。「明日でいい、と思った」
「なにを」セルカが言った。
「なんでもない話だ」ティナが言った。「明日、言えばいいと思った」
「明日は」セルカが言った。
「来なかった」ティナが言った。「その人のいる明日は、来なかった」
クレイは、その言葉を手のひらで受けた気がした。明日でいい、は手当ての言葉ではない。だが、後回しにした重さは知っている。手当てを明日に回して間に合わなかったことは、クレイにもあった。
ティナのペンは、白い頁の上で止まっている。
「名前、書かないの」セルカが言った。
「書けない」ティナが言った。「まだ、手が持ってない言葉がある」
白い頁の意味が、クレイにも少し見えた。あの空きは、この人のためのものだ。
「その人の声は」ティナが言った。「低かった。それだけ、はっきり覚えてる」
「顔は」セルカが言った。
「思い出せる」ティナが言った。「思い出せるのに、もう会えない」
クレイは、暇をしていた手を見た。空きが見えると、さっき言った手だ。いまは、その空きが二つに見えた。自分の四つ目と、この人の五つ。並べても、字の大きさは変わらない。
「間に合わなかったんだな」クレイが言った。
「間に合わなかった」ティナが言った。「そこにいれば違ったかもしれない。それも、わからない」
「俺の手も、四つ目には間に合わない」クレイが言った。
「知ってる」ティナが言った。「それは、私が書いた」
センの名を書いた頁だ。あれも、この人の手が書いた。
「あんたのは、五つだ」クレイが言った。「一度に、五つ全部」
ティナは、何も言わなかった。その沈黙を、クレイは埋めなかった。慰めの言葉は、持っていない。持っていない言葉を無理に探すのはやめて、代わりに手を握った。
暇な手だ。誰の脈も、いまは鳴っていない。
「手の届く場所に、いてほしい」クレイが言った。「それだけは、頼みたい」
言ってから、クレイはそれが誰への言葉か考えた。前の二人にも、まだ名のない先にも。
ティナが、クレイを見た。観察するときの、細めた目だ。
「だから、あなたの手を測ってる」ティナが言った。「どこまで届いて、どこで切れるか」
「俺の手を、か」クレイが言った。
「わからないものを、もう放さない」ティナが言った。「昔、放した。二度はしない」
この娘が際を測る理由を、クレイは初めて底まで見た気がした。力の寸法を知りたいのではなく、取りこぼす場所を先に知っておきたいのだ。
セルカが、膝でにじり寄った。息のかかる間まで、詰めてくる。
「ティナ」セルカが言った。「あたしのこと、あんた書いたよね」
「書いた」ティナが言った。
「あたしが死んだの、ちゃんと帳面にある」セルカが言った。
「ある」ティナが言った。
「あたし、痛かったのは覚えてる」セルカが言った。「でも、あれに名前をつけられなかった。あんたの字で残ってる。それで、足りる」
セルカは一度、祠で死んでいる。その死が、この娘の手で紙に載っている。
「その人のも、書けるよ」セルカが言った。「あたしのとき、あんた最後は書いたじゃん」
「言葉が、なかった」ティナが言った。「あのときも」
「でも、書いた」セルカが言った。「だから、書ける」
セルカが、口の端を持ち上げて笑った。目は泣きそうなのに、口だけが笑っている。うまい慰め方ではない。だがこの娘のは、理屈を通らずまっすぐ届く。
「ひとりで、抱えなくていいよ」セルカが言った。「重いんだから、それ」
ティナが、帳面の縁から指を離した。白くなっていた指の先に、また血の色が戻った。
ティナが、帳面を閉じた。白い頁を、白いまま閉じた。だが、その白さは無くならない。閉じた帳面を、この娘は帯に挿さず、膝の上に置いたままだ。
三人とも、しばらく黙っていた。弱りのない層は静かで、誰の息も隠さず届く。
クレイは、三つの息を数えた。自分の。セルカの。ティナの。どれも、途切れていない。いまは、そのことだけが確かだった。途切れない息を数えるのは、悪くない仕事だ。センのときは、数える息が一つ足りなかった。
闇のいちばん遠くで、白い一点はまだ間合いを変えずにいた。灯の外から、こちらを見ている。見ているのは、たぶん俺の手だ。クレイの左手は、いまは鳴らない。熱も、いまは薄い。
セルカが、剣を膝へ横たえた。切っ先は、白い一点のほうを外していない。ティナの話を聞くあいだも、その背は一度も丸まらなかった。まっすぐな背が、横で灯を受けている。
クレイは、握っていた手をほどいた。手のひらに、まだ暇があった。空きも、まだあった。だがその暇に、いまは三人ぶんの息が触れていた。
空きは、まだ埋まらない。だが、独りで抱える空きではなくなった。
白い一点は、間合いを変えない。三人は、まだ動かなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話は、ティナが初めて自分の過去を語る回です。
これまで彼女は、起きたことを順に手帳へ書きつけ、わからないものには名前を用意する役でした。その癖がどこから来たのか、今回ようやく明かされます。かつて別のパーティーで、彼女は理由もわからないまま一度に五人の仲間を失いました。なぜ、と毎日考えても答えは出ない。だから彼女は、わからないを二度と残さないと決め、以来ずっと書き続けてきたのです。
書きたかったのは、彼女が泣き崩れないことでした。感情を吐き出す代わりに、事実だけを平らな声で並べる。一度だけ見た説明のつかないもの、言いそびれたまま来なかった明日——淡々と数えるからこそ、その重さが零れてくる。そう置きたいと思いました。
クレイは慰めません。ただ、自分の手も四つ目には間に合わないと、自分の万能でなさを彼女の喪失に重ねます。彼のは三つで止まる手、彼女のは一度に失った五つ。届かない数を抱えているのは、同じでした。セルカは、自分の死を書いてもらった側から、その人のことも書けると不器用に背を押します。この娘だけは、ここでも折れません。
ティナの新しい頁は、まだ白いままです。手が言葉を持ったら、いつか埋まる。白い一点は、今日も同じ間合いで後ろにいます。
どうか続けて見届けてやってください。
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