万能ではない
セルカが、干し魚を裂いた。
塩の匂いが、狭い岩の間にひらく。深い底では、めったに嗅がない匂いだ。
半分を、クレイの膝へ置く。
「食いな」セルカが言った。「爺さんの包み、これで最後」
「セルカが食え」クレイが言った。
「もう食った」セルカが言った。「あんた、さっきから水しか入れてない」
クレイは、干し魚をつまんだ。塩が、舌の裏に辛く残る。
噛んでも、腹は減っていなかった。ただ、口を動かす仕事があるだけ楽だった。
「まだ、上に戻ってないね」セルカが言った。
「戻ってない」クレイが言った。「足が、まだあのときの重さだ」
「無理に立つな」セルカが言った。「休むのも、下りるうちだ」
灯を一つ、足元で細くしている。焔は、伸びも縮みもしない。
「この底は、風がないね」セルカが言った。
「ない」クレイが言った。「音も、じき死ぬ」
「壁が近い」ティナが言った。「声が、遠くまで行かない。行き止まりに近い層だ」
焔の熱は、膝のまわりでほどけて消える。冷えた岩の匂いだけが、あとに残る。
闇のいちばん近いところに、白い一点があった。
退いても消えず、同じ間合いで後ろにいるやつだ。
その一点のまわりだけ、闇が薄く冷える。灯の温みが、そこで途切れる。
「まだ、いる」セルカが言った。
「いる」クレイが言った。「間合いは、さっきのまま」
「飯の横で見られてんのか」セルカが言った。「趣味わるいね」
「見てるのは、俺の手だ」クレイが言った。
セルカが、クレイの左手をちらと見た。
甲の線は、灯を映さない色で薄く浮いている。
「痛むの」セルカが言った。
「痛まない」クレイが言った。「熱いだけだ。もう引きかけてる」
クレイは、左手を膝の下へ入れた。隠したところで、白い一点は追ってくる。
ティナが、帳面を膝で開いていた。ペンは止まっている。
紙の上に、字はない。開いたまま、字を落としていない。
「書くこと、ないの」セルカが言った。
「ある」ティナが言った。「書き方が、決まらない」
「なにが」セルカが言った。
「手の届く数だ」ティナが言った。「三つで止まる。あれの書き方が決まらない」
クレイが、干し魚を置いた。
「三つは、書いたろ」クレイが言った。「四つ目も、書くのか」
「書く」ティナが言った。「四つ目に、名前があった」
「セン」クレイが言った。
「セン」ティナが言った。
その名を、クレイはまだ手に馴染ませていない。呼ぶ相手は、もういない。
名だけが、行き先をなくして残っている。掴んでいた指の内で、鳴りやんだ声だ。
あの子は、下も怖くないと笑った。クレイは、笑い返さなかった。
怖がったほうがいい、と言った。手は無限じゃない、とも言った。
その手が、三つで尽きた。言ったことは、そのとおりになった。
当たったところで、嬉しくはない。当たらないほうが、ずっとよかった。
クレイは、下の層へ気を向けた。
弱った者が、幾人か沈んでいる。遠いが、消えてはいない。
底のほうで、細い息が幾つか灯っている。数はもう、増えも減りもしない。
そのうち、手の届く数を勘定した。三つまでなら、引き上げられる。
四つ目からは、勘定に入れられない。入れれば、また空きが増える。
三という数が、いまは重石のように手に乗っている。前は、数えたこともなかった。
「クレイ」セルカが言った。「また、下を見てる」
「見てる」クレイが言った。「下に、弱ってるのがいる」
「拾えるの」セルカが言った。
「三つまでなら」クレイが言った。
「四つ目は」セルカが言った。
クレイは、答えなかった。
「四つ目って、どんな顔」セルカが言った。
「顔は、まだない」クレイが言った。「名がつく前だ。声もない」
「名がついたら」セルカが言った。
「そのときは、もう遅い」クレイが言った。
セルカが、膝を詰めた。
膝と膝がふれるほどの近さだ。この娘は、遠慮というものを知らない。
「あんた、あの子を抱えてる顔してる」セルカが言った。
「抱えてる」クレイが言った。
「重い」セルカが言った。
「重くはない」クレイが言った。「軽くもない。埋まらないだけだ」
「埋まらないって」セルカが言った。
「三つは、埋まった」クレイが言った。「四つ目が、空いたままだ」
セルカは、それを訊き返さなかった。
空いたものを、言葉で塞ごうとはしない。この娘は、そういう慰め方をしない。
クレイは、灯の焔を見ていた。焔の芯だけが、動かずに立っている。
「前はな」クレイが言った。「俺は、居ても居なくても同じだと思ってた」
「知ってる」セルカが言った。「そういう顔で、歩いてた」
「今は、違う」クレイが言った。
「どう」セルカが言った。
「居ても、全員は救えない」クレイが言った。「そっちに、変わった」
セルカが、口をつぐんだ。
言葉を探す顔だ。だが、いい言葉は出てこない。出したところで、届く話でもない。
「それ、前よりきついんじゃないの」セルカが言った。
クレイは、少し考えた。
どちらが寒いか、初めて秤にかけてみた。答えは、思ったより早く出た。
「きつい」クレイが言った。「けど、前のほうが寒かった」
「そっちが、寒かったんだ」セルカが言った。
「居ても居なくても同じってのは」クレイが言った。「誰も、俺の手を待ってないってことだ」
「今は」セルカが言った。
「待ってる者が、いる」クレイが言った。「待たれて、届かないこともある。それでも、待ってる」
セルカは、小さくうなずいた。
「待たれてないのと、届かないのと」クレイが言った。「寒いのは——前のほうだ」
空いた手のほうが、まだ温い。誰も待っていなかった手より、届かなかった手のほうが。
その理屈は、卑下でも慰めでもなかった。ただ、そう秤が傾いだだけだ。
ティナは、まだペンを止めていた。
字を落とさないぶん、目だけが動いている。クレイの手と、灯の外の一点を往復する。
「ティナ」セルカが言った。「さっきから、書いてない」
「聞いてた」ティナが言った。
「なにか、言いなよ」セルカが言った。
ティナが、帳面の端を指で押さえた。頁を、めくるでも閉じるでもなく押さえる。
「一度に、幾つも失うことがある」ティナが言った。「三つでも、四つでもなく。もっと」
「あるの、そんなこと」セルカが言った。
「ある」ティナが言った。
それきり、ティナは口を閉じた。
いつもは、途切れない声だ。仮説の前に観察を置き、観察の前にまた観察を置く。
その声が、根のところで止まっていた。
セルカが、その横顔を見た。いつもの検証の顔ではない。
「ティナ」セルカが言った。「その話、あんたの話なの」
「いまは、クレイの話だ」ティナが言った。「私のは、あとでいい」
ティナのペンが、頁の端で止まったままだった。
あとで、と言うとき、この娘はたいてい書く場所だけ先に空ける。空けた場所は、いつか埋まる。
セルカが、両膝を叩いた。
叩いた音が、狭い岩に短く跳ねる。翳りを、一度で振り払う音だ。
「じゃあ、あたしの話をする」セルカが言った。
「聞く」クレイが言った。
「あんたら二人、暗い顔しすぎ」セルカが言った。「あの子は、救えなかった。けど三人は、生きて上がってった」
「数えてる」クレイが言った。
「顔が、数えてない」セルカが言った。「取りこぼした一つばっかり見てる」
「見えるんだ」クレイが言った。「空いたほうが、よく見える」
「わかるよ」セルカが言った。「あたしも、こぼした顔は忘れない。けど、な」
セルカが、八重歯を見せた。翳りの上に、無理やり明かりを乗せる笑い方だ。
「あんたの手が、三つ拾った」セルカが言った。「拾わなきゃ、三人とも死んでた。それは、でかい」
クレイは、灯を見ていた。
この娘は、折れない。取りこぼしを見せられても、拾えたほうを先に数える。
なぜ折れないのか、クレイにはわからなかった。だが、いま横にあるのは有難かった。
「万能じゃない」クレイが言った。「三つで止まる手だ」
「万能じゃないよ」セルカが言った。「でも、三つは本物」
「本物か」クレイが言った。
「本物」セルカが言った。「あたしが数えた。嘘はつかない」
数えると言った約束を、この娘はまだ律儀に握っている。
減った数も、拾えた数も。どちらも、こぼさずに数える気でいる。
「セルカ」クレイが言った。
「なに」セルカが言った。
「下で、また四つ来たら」クレイが言った。「俺は、三つしか拾えない」
「わかってる」セルカが言った。
「それでも、手は出す」クレイが言った。「三つは、拾えるからだ」
言ってから、クレイは自分の声を確かめた。使わない、という選び方はしなかった。
「出しな」セルカが言った。「四つ目は、あたしが前で減らす」
「減らせるのか」クレイが言った。
「知らない」セルカが言った。「けど、やる。四つ目を、三つ目にする」
それが叶うかは、わからない。だが、そういう立ち方をする娘だ。
クレイの手には上限がある。その上限のすぐ外に、この娘が立つと言っている。
ティナが、ペンを動かした。
紙に字が落ちる音は、しない。だが指の先が、初めてまっすぐ走った。
「書いた」ティナが言った。
「なにを」セルカが言った。
「三つ、届いた」ティナが言った。「四つ目に、届かなかった。両方、同じ頁だ」
「両方、書くんだ」セルカが言った。
「片方だと、嘘になる」ティナが言った。「手には、届く数と届かない数がある。どっちも、この人の手だ」
クレイが、その頁を見た。
届いた三つと、届かなかった一つが、同じ字で並んでいる。
救えた者と、救えなかった者に、字の大きさの差はなかった。
「万能じゃない手を」クレイが言った。「そのまま、書くのか」
「そのまま書く」ティナが言った。「名前を消したりは、しない」
クレイは、頁から目を上げた。
「万能だと思ってたころは、数えなかった」クレイが言った。「数えないから、こぼしても気づかない」
「今は、こぼした数が見える」クレイが言った。「見えるぶん、寒い。だが、正しい」
「それで、いい」クレイが言った。
「いいのか」セルカが言った。
「いい」クレイが言った。「万能だと思ってたときより、こっちのほうが正しい」
クレイが、灯を持って立った。
白い一点が、間合いを保って退いた。近づきも、離れもしない。
「あれ、下までついてくるかな」セルカが言った。
「くる」クレイが言った。「間合いは、変えない」
「離れないんだ」セルカが言った。「執念ぶかいやつ」
「下りるよ」セルカが言った。「あんたの三つが要る者が、まだ下にいるんだろ」
「いる」クレイが言った。「拾えるだけ、拾う」
「三つまで、な」セルカが言った。
「三つまでだ」クレイが言った。
「灯の油、保つの」セルカが言った。
「下りるぶんは、保つ」クレイが言った。「戻りは、わからない」
「戻れる分は、残しときな」セルカが言った。「あたしは、三人で上がる気でいる」
「覚えておく」クレイが言った。
三つで止まる手だと、もう知っている。知ったうえで、それでも下りる。
止まる手だから使わない、という話にはならなかった。三つは、拾えるのだ。
三人は、また下り始めた。
白い一点は、同じ間合いで後ろに付いた。灯の温みを、そこだけ吸って返さない。
クレイの左手が、また熱を持った。その熱の出どころに、クレイの手は届かない。
届かないものが、また一つ増えた。取りこぼした死と、この冷たい一点と。
万能でないとは、手の外に置くものが幾つもあるということだ。いまは、それでいい。
弱った者が、下でまだ沈んでいる。そのうち三つまでを、クレイは勘定に入れた。
四つ目からは、入れなかった。入れないと決めて、灯を下へ向けた。
ティナが、最後に立った。
帳面の新しい頁を、一度だけ見る。まだ、空いている。
「ティナ」セルカが呼んだ。
「行く」ティナが言った。
だがペンの先は、その空いた頁の上でひと呼吸だけ止まっていた。
誰の名も、まだ入っていない。空けた場所は、いつか埋まる。
ティナの目が、その空白から離れなかった。クレイの手の空きとは、別の空きだ。
書く役の帳面に、書く者自身の空きが一つ。それにはまだ、名がない。
その場所が誰のためのものか、クレイにはまだ見えなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
前回、クレイの手は初めて一つを取りこぼしました。三つは戻り、四つ目のセンだけが戻らなかった。この話は、その一つを抱えたまま、彼が「自分は万能ではない」と静かに引き受けていく回です。
書きたかったのは、クレイの虚無の質が変わる一点でした。かつての彼は「自分が居ても居なくても、何も変わらない」と思っていました。今は違います。「居ても、全員は救えない」。一見、後のほうがきつい。けれどクレイにとっては、待たれてもいなかった昔より、待たれて届かないことのある今のほうが、いくらか温かいのです。絶望ではなく、静かな翳り——そこを淡々と置きたいと思いました。
ティナは「一度に、幾つも失うことがある」と漏らして、口を閉じます。三つでも四つでもなく、もっと。なぜそんなことを知っているのか、この話では明かしません。セルカに「あんたの話なの」と問われても、「いまはクレイの話だ、私のはあとでいい」と頁の端で手を止めるだけです。彼女の空いた頁に、いつか誰の名が入るのか。それは、次のお話で。
折れないのはセルカです。救えなかった一つを数えるクレイに、救った三つは本物だと言い張ります。ティナは、届いた三つと届かなかった一つを、同じ頁へ同じ字で並べて書きました。名前を消したりはしない——万能でない手を、そのまま書き残すのが彼女の仕事です。
白い一点は、まだ同じ間合いで後ろにいます。どうか続けて見届けてやってください。




