影が嗅ぎつける
下りは、まだ続いていた。
足の裏が、一段ごとに岩の冷えを拾う。降りるほど、その冷えが脛へ這い上がってくる。
空気が、下で重くなった。吸うたびに、湿った石の匂いが胸の底へ溜まる。
クレイは、下りながら掌を開いていた。弱った者の気配が、遠い底で幾つも沈んでいる。
そのうち拾える者だけが、待っていた。届かない底のものは、聞くだけで過ぎる。
拾えるならいい。拾えないものだけが、掌の内に残る。
掌の空きは、埋まらないまま足の下へ落ちていく。
三つは埋まって、四つ目の空きだけが手に残っている。
センの名が、一歩ごと遅れて付いてきた。
セルカが前を歩いた。灯を提げて、濡れた岩を先に踏んでいく。
「足、戻ったの」セルカが言った。
「戻った」クレイが言った。
「嘘だね」セルカが言った。「まだ半分こぼした顔してる」
クレイは答えず、手のひらを下の層へ向けた。
「セン、引きずってるでしょ」セルカが言った。
「引きずってる」クレイが言った。
「あたしも」セルカが言った。「けど、下にまだいるんだろ。拾えるの」
「いる」クレイが言った。「だから、下りてる」
弱りが、いつもの重なりで鳴っている。数はもう増えも減りもしない。
拾える者は、まだ下にいた。細い声が幾つか、層の底で灯っている。
その底に、ひとつだけ違うものが差した。
弱りでもない。張りでもない。ただ冷たい。
クレイは足を止めて、その一点へ手のひらを向けた。
弱りは、いつも同じ場所で鳴る。動かず、そこで痩せていく。
これは、動いていた。
弱りは、こちらが下りて近づくものだ。向こうから来はしない。
これは、来る。段を数えるように、一枚ずつ距離を詰めてくる。
センを取りこぼしたとき、左手の甲は鳴らなかった。
いまは、鳴っている。
「どうかした」ティナが言った。
「来てる」クレイが言った。「外にいた、冷たいのが」
ティナが帳面を閉じた。灯を、指の幅ひとつぶん絞る。
「印だけ書いた、あの気配」ティナが言った。「動かずにいた、あれ」
「動いてる」クレイが言った。「層の内へ、下りてくる」
「近いの」ティナが言った。
「近い」クレイが言った。「さっきまで外だった。いまは、もう内だ」
「戻る」セルカが言った。「一回、浅いほうへ」
「戻っても、来る」クレイが言った。「外にいたのが内まで来た。浅くても、追う」
「じゃあ、どうすんの」セルカが言った。
「待つ」ティナが言った。「何をしに来たか、見えるまで」
「見えなかったら」セルカが言った。
「そのときは、動く」クレイが言った。「まだ、見えてない」
セルカが、剣を下段に構えた。戦うときの、静かな顔になる。
クレイは手のひらを、冷たい一点へ向けたままでいた。
距離が、また一枚縮む。段を下りる足のように、乱れがない。
「なにか、言ってるの」セルカが言った。
「言わない」クレイが言った。「弱りなら、近づくほど声が太る」
「これは」セルカが言った。
「太らない」クレイが言った。「冷たさだけが、濃くなる」
声のない冷たさが、段を一枚ずつ近づいてきた。
セルカが灯を岩の窪みへ置いた。両手が剣へ回る。
「魔物」セルカが言った。
「わからない」クレイが言った。「弱ってない。張ってもいない」
「白いののお仲間じゃ、ないってこと」セルカが言った。
「違う」クレイが言った。「白いのは生きた手ざわりがした。これは、しない」
クレイは、手のひらを闇のほうへかざした。
弱りは、掌へ温さを返す。手を近づけるほど、脈の名残がにじんで届く。
張りは、張りで押し返してくる。詰まった織りが、指を弾く。
これは、どちらもしなかった。
かざした掌の熱が、そこで薄く引かれた。息を吹きかけた岩がすぐ乾くように、温さが吸われて消える。
引かれたぶんは、戻ってこなかった。指の先だけが、少し遠くなる。
弱った者の冷たさは、こちらの手を呼ぶ。温めてくれと鳴く。
これの冷たさは、呼ばない。こちらの温さを、黙って抜いていく。
手を引いても、抜かれた温さは戻らなかった。掌の縁が、こわばりもせず冷えていく。
凍えとも、違う。ただ、そこだけ世界が薄い。
「それを、言葉にできる」ティナが言った。
「熱を、返さない」クレイが言った。「弱った者は最後まで温い。これは、はじめから温くない」
「触ってもいないのに」クレイが言った。「こっちの温さを、持っていく」
「生きてないってこと」セルカが言った。
「死んでる、でもない」クレイが言った。「死んだ者は感知に残らない。膜の向こうへ落ちて、消える」
「これは」ティナが言った。
「消えない」クレイが言った。「残ったまま、こっちへ下りてくる」
ティナがペンを止めた。指の先で、頁の端を押さえている。
「弱りでも、張りでもない」ティナが言った。「生きても、死んでもいない。第三のものね」
「気味わるいこと言うね」セルカが言った。
「気味わるいのは、向こうだ」ティナが言った。
灯の届く先は、数歩だ。その先に、闇が立っている。
闇の一点が、ほかより濃くなった。
人の背丈ほどの、輪郭のないものがそこにいた。
岩でもない。白いものでもない。
輪郭が、灯のふちで滲んでいる。近づこうとすると、目のふちで揺れて掴めない。
目に当たるところだけ、白く冷えていた。
動かない。上体が、揺れもしない。ただ、こちらを見ている。
「見られてる」セルカが言った。「肌が、そこだけ冷える」
「あたしの目じゃない」セルカが言った。「皮膚のほうが、先に知った」
弱りを見るのは、こちらの目だ。あちらは、見返してこない。
これは、見返してくる。見られた側の皮膚が、先に強張る。
「音も、変だ」ティナが言った。「岩は、いつも足音を返す」
「あそこだけ痩せてる」ティナが言った。「返るものが、消えてる」
灯の焔が、影のほうへ少しだけ傾いだ。風もないのに、引かれるように。
「セルカ」ティナが言った。「灯を、上げないで」
「なんで」セルカが言った。
「向こうも、測ってる」ティナが言った。「見えないほうが、こっちが得だ」
セルカは灯へ伸ばした手を止めた。剣の柄を、握り直す。
三人とも、口を閉じた。迷宮が、急に静かになる。
弱りの声だけが、遠く下で鳴っている。近くは、影の冷たさで埋まっていた。
影は、動かなかった。首も、肩の線もない。だが、見ているとわかる。
クレイの左手の甲が、そのとき熱を持った。
「熱い」クレイが言った。「甲の線が、裏から起きてる」
皮膚の下で、細い線が一本ずつ立っていく。指の付け根まで回って、そこで溜まる。
影の白い一点が、動いた。
クレイの、左手へ向いた。
「あれ」セルカが言った。「あんたの手、見てない」
「見てる」クレイが言った。
影が、一歩ぶん近づいた。足音は、鳴らない。濡れた岩も、乾いた岩も、同じに黙る。
「また、引かれた」クレイが言った。「近づくと、掌の熱が薄くなる」
クレイは左手を見た。灯もないのに、甲の線が熱い。
「熱と冷えが、寄ってる」クレイが言った。「宙で、近づいてる」
「クレイ」ティナが言った。「あれ、あなたの左手だけを見てる」
「見てる」クレイが言った。「なんでだ」
「わからない」ティナが言った。
セルカが踏み込んだ。剣が、影の胸を薙ぐ。
刃は、霧を斬るように通り抜けた。手応えは、ない。
影は、斬られた形のまま揺れなかった。切れ目が、すぐ元の濃さに戻る。
「斬れない」セルカが言った。「街道の影と、おんなじだ」
「腕に、なんも返ってこない」セルカが言った。「斬った気が、しない」
「斬るものが、ない」クレイが言った。「そこに、体がない」
「あれとは、違う」ティナが言った。「街道のは荷を担いだ。これは、手ぶらだ」
「なにも運んでない」ティナが言った。「なにも、奪いに来てない」
「じゃあ、なにしに来たわけ」セルカが言った。
「見に来た」ティナが言った。「たぶん、それだけ」
「見て、どうすんの」セルカが言った。
「わからない」ティナが言った。「だが、獣じゃない」
「白いものは、腹で動く」ティナが言った。「空いて襲う。これは、腹で動いてない」
「じゃあ、なんで動くのさ」セルカが言った。
「こっちを、知りたがってる」ティナが言った。「獣は、知りたがらない」
ティナが、影とクレイの左手を交互に見た。ペンの先が、宙で止まっている。
「魔族かもしれない」ティナが言った。「死や時をいじる種がいると聞く。手ざわりが、近い」
「魔王の、あれ」セルカが言った。
「決めつけない」ティナが言った。「わかるのは、獣じゃないことだけだ」
「クレイの手を、見てる理由は」セルカが言った。
「そこは、空けておく」ティナが言った。「見てる、とだけ書く」
クレイは、左手を握った。握っても、熱は引かない。
拳の内で、線がまだ起きている。皮膚を裏から、押し続けている。
この熱がどこから来るのか、クレイの手は知らなかった。
なぜ冷たいものがそこへ寄るのかも、知らなかった。
掌の空きに、冷たさが一つ加わった。埋まらないものが、二つになる。
センは、掴んでいて足りなかった空きだ。名前が、遅れて届いた。
この冷たさには、名前も届かない。ただ後ろに、居座るだけだ。
クレイは、拳を開いた。甲の線は、まだ熱を持っている。
影が、一歩ぶん退いた。
だが、消えなかった。灯の外の闇に、白い一点だけを残す。
「行った」セルカが言った。
「行ってない」クレイが言った。「まだ、そこにいる」
「退いても、引かれてる」クレイが言った。「糸の先が、白い点に繋がったままだ」
握っても、その糸は切れなかった。外のいちばん遠くへ、まだ張っている。
「離れないの」セルカが言った。
「離れない」クレイが言った。「同じ間合いで、いる」
ティナが帳面を開いた。ペンが、しばらく紙の上で止まる。
「印を、一つ濃くする」ティナが言った。「外にいた冷たいもの。今日、内へ入った」
「クレイの左手を、見た」ティナが言った。「そこまでは、事実だ」
「理由は」セルカが言った。
「空けたまま」ティナが言った。「見た、とだけだ」
「気持ちわるいね」セルカが言った。「名前もつかないやつに、見られっぱなし」
「名前は、あとで追いつく」ティナが言った。「先に、書いておく」
セルカが、白い点のほうへ剣先を向けた。八重歯が、灯のふちで覗く。
「近づいてみな」セルカが言った。「斬れなくても、追い返すくらいはする」
白い点は、動かなかった。近づきも、退きもしない。
三人は、下りを続けた。
拾える弱りが、まだ下にある。止まっても、影は離れない。
ならいっそ、こっちが動くと決めた。
白い点は、灯の外を同じ間合いで付いてきた。近づきも、離れもしない。
クレイの左手の熱は、下りるあいだ引かなかった。掌の側で、ずっと溜まっている。
「ねえ」セルカが言った。「あれにさ。あんたの手は、効くの」
クレイは、すぐには答えなかった。
弱りなら、汲める。汲めば、戻せる。
張りなら、読める。ほころびの一本まで、指の腹に届く。
あれは、汲むものも読むものも、返してこなかった。
手を伸ばして、その先に掴むものがない。
センのときは、掴んでいて足りなかった。これは、掴むところがはじめから無い。
「わからない」クレイが言った。「あれは、俺の手の外にいる気がする」
「外って」セルカが言った。
「際の、もっと向こうだ」クレイが言った。「届く届かないの、話じゃない」
「じゃあ、あんたの手が効かないやつが」セルカが言った。「ついてくるってこと」
「そうなる」クレイが言った。
セルカは、それきり訊かなかった。剣を提げたまま、前を歩く。
白い点は、まだ付いてきた。
弱りは、拾えば消える。拾えなければ、奥で鳴りやむ。
この冷たさは、どちらにもならない。拾えず、消えもしない。
掌の空きと、甲の熱と、闇の一点。三つが、下りるあいだ離れなかった。
拾える声は、まだ下にある。クレイは、そちらへ足を出した。
だが手のひらの端では、冷たい一点が、ずっと後ろから見ていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
前回、クレイの手は初めて一つを取りこぼしました。掌には四つ目の空きが残ったまま、三人は下りを続けています。この話は、その下りの途中で『冷たいもの』が形を取る話です。
東の道で覚え、噂の外縁で一度だけ捉えたあの気配。弱ってもいない、張ってもいない、ただ冷たい。今回それは動いて、層の内へ下りてきました。かざした掌に温さを返さず、こちらの熱を吸って黙る——書きながら置きたかったのは、その「返してこない」感触でした。弱った者は最後まで温く、死んだ者は感知から消える。影はそのどちらでもなく、消えないまま近づいてくる。
そして影は、クレイの左手だけをじっと見ます。甲の線が裏から熱を持ち、その熱いところへ冷たさが寄ってくる。なぜ見るのか、クレイにもティナにもわかりません。ティナは獣ではないと見抜き、魔族という言葉までは口にしますが、左手を見る理由の欄は空けたままにします。名前はあとで追いつく、先に書いておく——それが彼女の癖です。
影は退いても消えず、同じ間合いでずっと後ろから付いてきます。掌の空きと、甲の熱と、闇の一点。三つを抱えたまま、クレイはまだ拾える声のほうへ足を出します。
どうか続けて見届けてやってください。




