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同時の死

 下りるほど、層が濃くなった。


 弱りが皮膚の内側で鳴る。上へは戻らず、足の下へ折り重なっていく。


 岩が、下からの声を何重にも返してくる。一つの弱りが、幾つにも割れて届く。


 灯の届く先は、いつも数歩だ。その先は、手のひらだけが見ている。


 深いほど、手のひらが忙しい。数える弱りが、増えていく。


 増えても、いつもは怖くなかった。手が、みんな拾えたからだ。


 左手の甲の筋に、あの冷たさはまだ来ない。外の遠くで一度張った糸は、動かずにいる。


 「深いね」セルカが言った。


 「濃い」クレイが言った。「鴉の爪(からすのつめ)の言った、あの濃さだ」


 ティナが帳面に歩数を落とした。灯を一段だけ絞る。


 「もう浅層じゃない」ティナが言った。「地図の描ける端を、こえた」


 「戻る」セルカが言った。


 「底を見にきた」ティナが言った。「まだ、底じゃない」


 「あんたが減らない範囲で、な」セルカがクレイを見た。


 「今日は、まだ余ってる」クレイが言った。


 余りは、汲んだぶんの話だ。七回で底を打った、あの底のことだ。


 「ひと息で、いくつ届くか」クレイが言った。「その底は、まだ量ってない」


 「量らなくて、いい」セルカが言った。「無理はするなって、話だ」


 クレイは手のひらを、足の下へ向けた。層の底で、張りのある足取りがいくつか鳴っている。


 弱った声の底に、乱れのない足取りが四つ混じっていた。


 「人がいる」クレイが言った。「四人。弱ってない」


 「鴉の爪」セルカが言った。


 「違う」クレイが言った。「あの三人じゃない。もっと若い」


 「古い繕いの痕が、ない」クレイが言った。「詰まりも、浅い」


 「四人、動いてる」クレイが言った。「採ってるな。手が、休まない」


 「下りるのが早い」ティナが言った。「装備が、追いついてない」


 「若いと、無理をする」クレイが言った。


 セルカが、鼻で笑った。


 「あたしのことかよ」セルカが言った。


 「昔の、な」クレイが言った。


 「噂を聞いてだろ」セルカが言った。「死人返し(しびとがえし)がいるって、さ」


 「聞いて、下りたか」クレイが言った。




 四つの張りが、岩の折れ目の向こうで固まっていた。


 採り場だった。白い殻の群れる岩棚に、四人が取りついている。


 岩棚は濡れて、殻がびっしり張りついていた。四人の手が、剥がしては袋へ落とす。


 灯が四つ。背の袋が、どれも膨らんでいる。


 ティナが、四人を目でなぞった。


 「若い」ティナが言った。「袋の詰め方が、雑だ。急いでる」


 「稼ぎを、焦ってる」クレイが言った。


 クレイは、四人の張りを手のひらで数えた。どれも詰まっている。だが、浅い。


 鴉の爪の織りには、古い繕いが幾重にも透けていた。この四人には、それが無い。


 「繕いのない織りだ」クレイが言った。「いちど破れると、戻りが利かない」


 四人のうち、一人が手を止めた。年かさの男だ。


 「客か」男が言った。声に張りがある。


 「通るだけだ」クレイが言った。


 「治療師の連れがいるって、聞いた」若い女が言った。「あんたらだろ」


 「よせよ、セン」男が言った。「見も知らずだ」


 「知らずでも、いりゃ安心だろ」センが言った。「その手を頼りに、下りてきたんだ」


 「浅層は、鴉の爪に荒らされてな」センが言った。「下りるしか、なかった」


 セルカが眉を寄せた。


 「あたしらを盾にする気」セルカが言った。


 「使やしねえよ」センが言った。「近くにいるだけで、気が楽になる。それだけだ」


 「そこが危ういんだ」ティナが言った。「手には、届く先がある」


 「見合うまで待ってたら、干上がる」センが言った。


 兄貴が、袋の口を縛りながら舌打ちした。


 「あと一袋で、上がるからな」兄貴が言った。


 「わかってる」センが言った。


 センは、聞いていなかった。殻を袋へ押し込んで、また岩棚へ手を伸ばす。


 「死人返しがいりゃ、下も怖かねえ」センが言った。軽く笑った。


 「セン、いいかげんにしとけ」男が言った。


 「うるさいな、兄貴」センが言った。


 クレイは、笑い返さなかった。


 「怖がったほうがいい」クレイが言った。「手は、無限じゃない」


 センは、もう背を向けていた。




 クレイの手のひらが、天井へ向いた。何かが、岩の裏で溜まっている。


 「上がる」クレイが言った。「セン。岩から、離れろ」


 センは、殻を剥がす手を止めなかった。


 岩棚の裏から、白いものが束になって落ちた。


 一匹や二匹ではない。数えきれないほど、いっぺんに降ってきた。


 「上だ」クレイが言った。「四人、いっぺんに」


 セルカが跳んだ。だが四人は、岩棚に張りついたままだ。


 白いものの鉤が、四つの体へ同時に滑り込んだ。


 四人が、同じ息で死に触れた。


 いつもは一つだ。多くても、間を置いて幾つか来る。


 同じ息で四つは、束になって掌を打った。


 クレイの手が、四人へまっすぐ伸びた。勝手に動く手だ。


 掌の底から、三度続けて汲まれた。


 一つ目が通った。二つ目が続いた。三つ目で、底が浅くなった。


 四度目の汲みに、汲むものが無かった。


 底を掻いても、指に掛かるものが上がってこない。


 水位ではなかった。底そのものが、そこで尽きていた。


 三つで、蓋が閉まった。閉まった向こうに、四つ目の首があった。


 三人は岩棚に立っていた。どこにも、切られた跡がない。


 四人目が、崩れた。


 さっき、下も怖かねえと笑った女だ。


 首の横が裂けている。血が、岩棚を伝って落ちた。


 三人の首には、傷の跡もない。センの首だけが、開いている。


 三度汲んだ手のひらが、そのぶんだけ薄くなった。


 いつもは、薄くなったぶんが次の息で厚みを取り戻す。汲んだ跡も残さず、また満ちる。


 今度は、薄いままだった。戻る厚みが、来なかった。


 セルカが白いものを薙いだ。数匹が岩棚から転げ落ちる。


 だが、間に合った命は三つだけだった。


 三つは、傷も知らずに立っている。一つは、傷のまま倒れている。




 「セン」兄貴が言った。「セン。おい」


 声が裏返った。


 兄貴が岩棚を滑り降りた。センの体を、抱え起こす。


 「なんで」兄貴が言った。「おれたちは無事なのに。なんで、センだけ」


 助かった三人が、自分の首や胸を触っていた。


 誰も、自分が死にかけたことを知らない。


 三人は、助かったことすら知らないでいる。知っているのは、一人ぶんの欠けだけだ。


 残る二人は、灯を持ったまま動けずにいた。


 センだけが、血を流して動かない。


 兄貴が、クレイを見上げた。


 「あんた、死人返しなんだろ」兄貴が言った。「戻せよ。センを、戻してくれ」


 「戻せない」クレイが言った。


 「なんでだよ」兄貴が言った。「三人は、無傷じゃねえか。センも戻せよ」


 「もう、外にある」クレイが言った。「血が。戻すのは、外へ出る前だ」


 「そんな」兄貴が言った。「三つは、間に合ったのに」


 「間に合わなかった」クレイが言った。「四つ目は」


 「四つ目って、なんだよ」兄貴が言った。「妹が、四つ目かよ」


 数えたのは、クレイではない。手が、三つで尽きただけだ。


 だが、それを言っても兄貴には届かない。


 兄貴は、センの首を手で押さえていた。押さえても、血は指の間から出ていく。


 クレイの手は、まだ半ば上がったままだった。


 四つ目へ伸びた指が、宙で行き場をなくしている。


 手を下ろした。掌に、空の底の手ざわりだけが残った。




 三つは、いつものように出た。四つ目で、手が空を掻いた。


 いつも、伸ばせば足りた。今日は、三つで底が見えた。


 こぼさない手だと、思っていた。四千三百、一度も。


 四千三百と、一。今日の一つは、埋まらなかった。


 器の内で、何かが低いほうへ傾いだ。だが、顔には出なかった。


 口の中が、砂のようだった。


 ティナが、動かないセンのそばに膝をついた。


 いつもなら、真っ先に抜く手だ。その手が、今日は膝の上で止まっていた。


 「四人に刃が入った」ティナが言った。「三人は無い。この子ひとりが、残った」


 「なんで、一人だけ」セルカが言った。声が硬い。


 「数だ」ティナが言った。「三つまでなんだ。四つ目は戻らない」


 「三つで、線が引かれてたのか」セルカが言った。


 「引いたのは、あんたじゃない」ティナが言った。「手が、そうなってる」


 「昨日までは、いつも間があった」ティナが言った。「帳面に、重なった日はない」


 「今日は、四つがいちどきに来た」クレイが言った。


 「今日、それが知れた」ティナが言った。「三つ。そこまでだ」


 「一度に、いくつも」ティナが言った。それきり、口を閉じた。


 いつもは、途切れない声だ。


 ティナの目が、センの首から動かなかった。


 「あなたの手は、無限じゃない」ティナが言った。「全員は、無理かもしれない」


 「全員は」クレイが言った。「そう思ってた。今日まで」


 「今日で、終わりじゃないだろ」セルカが言った。


 「終わらせない」クレイが言った。


 答えは、掌の底にあった。空いたまま、埋まらない一つ。


 セルカが、剣を握り直した。


 「あたしが、もっと早く跳んでたら」セルカが言った。


 「跳んでも、同じだ」クレイが言った。「刃は四つ、いっぺんに来た」


 「一人では、四つを割れない」ティナが言った。


 「三つ通って、四つ目で止まった」ティナが言った。「見たとおりだ」


 「じゃあ、あんたが」セルカが言い、止まった。


 クレイは、止まった言葉の先を引き取らなかった。


 「……ごめん」セルカが言った。「あんたのせいじゃ、ない」


 「三つ戻した」セルカが言った。「三人生きてる。それは、あんたがやったことだ」


 セルカは、泣かなかった。


 泣くかわりに、剣の柄をひとつ握り直した。


 「あんたが減るたび、数えるって言った」セルカが言った。


 「これは、減ったんじゃない」クレイが言った。


 「じゃあ、なんて数えりゃいい」セルカが言った。


 「わからない」クレイが言った。「その数え方は、まだ持ってない」


 「救った三つは、あたしが数える」セルカが言った。


 「取りこぼした一つは」クレイが言った。


 セルカは、答えなかった。


 灯が四つ、岩棚に残っていた。持ち主は、三人に減っていた。


 セルカも、それきり訊かなかった。




 クレイは、三人の生者を見なかった。センの首の、裂けた跡を見ていた。


 「塞げる傷じゃない」クレイが言った。「血は、もう外だ」


 「死なせるつもりはない」クレイが言った。


 誰にも向けず、空になった掌へ落とすように言った。


 「今も、そう思ってる。——足りなかった。手が」


 「聞いてる」セルカが言った。「あたしも、忘れない」




 男たちが、センを担いだ。


 殻の袋は、岩棚に置き去りだった。三人はセンを抱えて、浅いほうへ上っていった。


 「稼ぎに下りて」セルカが言った。「その稼ぎを、置いてった」


 「殻は、もう誰も見ない」クレイが言った。


 クレイは、その灯を見送った。三つに減った灯だ。


 三つの張りが、灯の上へ遠ざかる。四つ目は、もう鳴らない。


 奥で消える弱りには、慣れていた。膜の向こうで、遠く落ちる。


 だがこれは、掌の内で消えた。


 掴めているところで、鳴りやんだ。


 際なら、板が立つ。手が、途中で止まる。今日は、板がなかった。


 手は、四つ目まで届いていた。届いて、渡すものが無かった。


 届かないのとは、違う。届いて、足りないのだ。


 左手の甲の筋は、鳴らなかった。


 センの名は、さっき初めて聞いた。


 ティナが帳面を抜いた。今度は、抜いた。


 「名前を、書くの」セルカが言った。


 「セン」ティナが言った。「一人。書いておく」


 「三つまで、と」ティナが言った。「それも、書く」


 「助けた三人の名は」セルカが言った。


 「まだ、知らない」クレイが言った。


 セルカが、灯を担ぎ直した。


 「行けるの、あんた」セルカが言った。


 「行く」クレイが言った。


 「無理、してない」セルカが言った。


 「してない」クレイが言った。「まだ、余ってる」


 その余りが、いま初めて重かった。足の出が、わずかに遅れた。


 「足取りが重いなら」セルカが言った。「あたしが、前を歩く」


 「頼む」クレイが言った。


 「先へ、行く」ティナが言った。「まだ、下に弱りがある」


 「下にも、いるんだね」セルカが言った。


 「いる」クレイが言った。「拾える者が、まだいる」


 クレイは足を出した。だが掌の底は、空のままだった。


 一歩ごとに、空が付いてくる。埋まらないまま、足の下へ落ちていく。


 三つは、埋まった。四つ目の空きが、掌に残っている。


 その空きに、まだ名前がない。


 センという名だけが、そこへ遅れて届いていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この話は、クレイの手が初めて「足りなかった」話です。


 これまでクレイは、伸ばせば届き、届けば戻せる手でした。四千三百回、一度もこぼさなかった。前回は、塞ぐ約束のない相手へも「決めて」手を伸ばし、届かせました。だから今回は、その逆を書きたかった。伸ばさなかったのでも、届かなかったのでもなく——伸ばして、掴んでいて、それでも足りなかった。四つ同時の死に、手は三つまでしか汲めなかったのです。


 四度目の汲みに、汲むものが無い。底を掻いても、指に掛かるものが上がってこない。掴めているところで、命が鳴りやむ。奥の届かない外で誰かが消えるのには慣れていたクレイが、初めて自分の掌の内側で一つを取りこぼしました。三つは埋まって、四つ目の空きだけが手に残る。その空きに、彼はまだ名前を持っていません。


 センという名を、クレイはその子を失ってから初めて聞きました。助けた三人の名は、まだ知りません。全員は救えないかもしれない——万能に見えた手に、初めて影が差します。ティナがなぜ言葉を途切れさせたのか、セルカがなぜ泣かずに柄を握り直したのか。その理由は、もう少し先でお話しします。


 どうか続けて見届けてやってください。

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