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広がる噂

 クレイの手のひらで、張りが一つほどけかけていた。


 昨日の詰まった織りだ。奥から浅いほうへ、崩れながら上ってくる。


 「鴉の爪(からすのつめ)だ」クレイが言った。「戻ってくる。一つ、ほどけてる」


 セルカが剣を引き寄せた。ティナが灯を継ぎ足す手を止める。


 一晩、岩室で番を替えて眠った。迷宮に朝はない。ティナの帳面では、今日で二日目だ。


 「ほどけてるって、どれ」セルカが言った。


 「若いの」クレイが言った。「昨日の、脇の」


 「膿んでたやつか」セルカが言った。


 「開いた」クレイが言った。「奥で、無理をしたんだ」


 ティナが帯から手帳を抜いた。


 「昨日は三つとも詰まってた」ティナが言った。「一日で、そこまで崩れるものかな」


 「濃いと言ってたろ」クレイが言った。「下は。濃いところで、開いたんだ」


 張りの底を、指の腹で探り直す。


 二人ぶんの足が、迷わず浅いほうをたどっていた。もう一人ぶんは、地面を擦っている。


 「担がれてる」クレイが言った。「足が、二人ぶんしか鳴ってない」


 セルカが立ち上がった。


 「迎えに行くの」セルカが言った。


 「向こうが来てる」クレイが言った。「待てばいい」




 この広間には、先に二人いた。


 殻を袋へ詰める、素材採りの二人組だ。灯を分け合って、こちらを気にする素振りもない。


 乾いた足音が、奥の暗がりから近づいた。


 昨日と同じ足取りだ。だが今日は、二人ぶんしかない。


 ヴェインが先に灯のふちへ出てきた。肩でリドを支えている。


 リドの足が、地面を擦っていた。顔が白い。息が浅くて速い。


 ネイが後ろで筒を鳴らして続いた。


 「客か」ヴェインが言った。声は昨日と変わらない。


 「その脇」クレイが言った。「開いたな」


 「わかるか」ヴェインが言った。


 「昨日、言った」クレイが言った。「奥へ運べば膿むと」


 ヴェインは答えなかった。リドを岩へもたせかける。


 「うるせえ」リドが言った。声が掠れている。「歩ける」


 「歩けてないよ」セルカが言った。


 「あんたに、関係ねえ」リドが言った。


 「担がれてたろ」セルカが言った。


 リドが顔を背けた。奥歯を噛む音がした。


 「なぜ、上がってきた」ティナが言った。「下に、素材があるだろう」


 「素材より、こいつだ」ヴェインが言った。「置いていく気はない」


 「二人、置いてきたのに」ティナが言った。


 ヴェインの目が、一度だけ細くなった。


 「だからだ」ヴェインが言った。「三人目は、置かない」


 ネイが、細い骨箆でクレイの側を指した。


 「昨日の手だな」ネイが言った。「傷を、触らずに読む」


 「傷なら、わかる」クレイが言った。


 「読めても、繋がりはしない」ネイが言った。「こいつは、もう読む段じゃない」


 ネイの声から、昨日の乾いた張りが薄れていた。


 筒の一つを、握って離さずにいる。革の新しいやつだ。


 深層で二人を置いてきた手が、三人目は置きたくないと鳴っている。クレイの手には、そう伝わった。




 岩の裂け目で、乾いた脚が鳴った。


 いくつも。昨日の白いものだ。


 「上」クレイが言った。「二匹。リドの真上」


 セルカが跳んだ。だがリドは動けない。


 白いものが一匹、リドの肩へ落ちた。脚の鉤が、首の横へ滑っていく。


 リドの熱が、そこで底を抜けた。手のひらの張りが、糸の切れる音を立てる。


 クレイの手が、いつものように持ち上がった。


 だが今日は、そこで一度止まった。


 昨日、この手を握って見送った相手だ。塞ぐ約束は、今も結んでいない。


 伸ばせば、届く。届けば、減る。


 昨日は握った。握るほうが、身は軽かった。


 クレイは、伸ばすと決めた。


 握りをほどく。指の先が、リドの側へまっすぐ伸びていく。


 掌の底から、温いものがひと匙、指を伝って外へ出た。


 出ていったぶんだけ、自分の内側が一段翳る。


 止めるより、伸ばすほうが重かった。決めて出す手は、勝手に動く手とは目方が違う。


 白いものの鉤が、リドの首を裂いた——はずだった。


 リドは、岩にもたれたままだった。首に傷はない。血もない。


 殻を詰めていた二人が、袋を落とした。


 「今の」片方が言った。「首、入ったよな」


 「入った」もう片方が言った。「なのに、切れてねえ」


 ネイが、筒を握ったまま動かなかった。


 「これが」ネイが言った。「死人返し(しびとがえし)か」


 ヴェインが、リドの首へ手を伸ばした。指で、傷のない皮膚をなぞる。


 「乾いてる」ヴェインが言った。「血の跡も、ない」


 「無いのが、証拠になる」ティナが言った。


 ヴェインが、ティナを見た。


 「あんたは、それを書くのか」ヴェインが言った。


 「起きたことを書く」ティナが言った。


 セルカが二匹を割った。脚が縮んで、灯のふちで平たく光る。


 剣を引いて、リドを振り返る。八重歯が、少しだけ覗いた。


 「線の内側」セルカが言った。「あんた、そこに入れられたんだよ」




 クレイがリドの脇へ手をやった。「見せてもらう」クレイが言った。


 「……いらねえ」リドが言った。声に力がない。


 「昨日も、そう言った」クレイが言った。「今日は、聞かない」


 リドの手が、脇を庇って止まった。だが払いのける力は、もう残っていない。


 クレイは鎧の紐を解いた。脇の下の布が、黄いろく湿っている。


 膿の口が、鎧の内で開いていた。昨日より深い。縁が赤黒く盛れている。


 「セルカ、湯」クレイが言った。「ティナ、蒸留酒と蜂蜜の壺」


 傷の口を蒸留酒で洗う。リドの体が跳ねた。


 「痛えな」リドが言った。


 「痛いほうがいい」クレイが言った。「痛くない膿は、もっと奥だ」


 癒し草を煮出した汁に、蜂蜜を蓋ひとさじ落とす。布に含ませ、口へ当てた。


 手つきが、そこだけ丁寧になっていく。傷を相手にすると、指の運びが勝手に細かくなる。


 「これで、膿の広がりは止まる」クレイが言った。「奥は、あんたの体が押し出す」


 ネイが、クレイの手元を覗き込んだ。


 「その汁に、蜂蜜か」ネイが言った。


 「膿みかけには、ひとさじ」クレイが言った。「入れすぎると、治りが渋る」


 「覚えとく」ネイが言った。「頭にな」


 「治せよ、ぜんぶ」リドが言った。


 「膿は、巻き戻せない」クレイが言った。「首は戻せても、腐りは時が要る」


 リドが、天井を見た。


 「さっき」リドが言った。「おれ、切られたよな」


 「切られた」クレイが言った。「切られる前に、戻した」


 「なんで、助けた」リドが言った。「昨日は、いらねえって言った相手だぞ」


 クレイは、布を当て直しただけだ。


 「切れる前に、手が届いた」クレイが言った。「それだけだ」


 「褒めてんだよ、こっちは」リドが言った。


 「や、別に」クレイが言った。「手が動いただけだ」


 リドが、鼻から短く息を吐いた。悪態にも、笑いにもなりきらない音だった。


 「なあ」リドが言った。「昨日、殻。あんたらのだったな」


 「拾ったもん勝ちだろ」セルカが言った。


 リドが、また鼻を鳴らした。


 「……あれは、返す」リドが言った。


 「いらないよ」セルカが言った。「割るのは、いくらでもできる」




 ヴェインが、クレイの手元を見ていた。


 「借りができた」ヴェインが言った。


 「貸した覚えはない」クレイが言った。


 「覚えのないものほど、重い」ヴェインが言った。「同じ獲物を追う相手に、借りは作りたくなかった」


 「返さなくていい」クレイが言った。


 「そうもいかない」ヴェインが言った。「うちは、値で動く。値のついたものは、返す」


 ティナが手帳を開いた。ペンの先が、しばらく紙の上で止まっている。


 「あなた、伸ばしたね」ティナが言った。「昨日は、止めた手を」


 「止めるより、重かった」クレイが言った。


 「線の外の人間だ」ティナが言った。「その死を、初めて巻き戻した」


 「掴めてれば、届く」クレイが言った。「昨日、脇のほころびが指まで来た。今日は、死のほうが来た」


 「約束のない相手でも、か」セルカが言った。


 「約束は、まだない」クレイが言った。「手のほうが、先に届いた」


 ティナがペンを走らせた。いつもより短く、深く紙へ押している。


 「一行、書く」ティナが言った。「線の外で、初めて手が届いた日」




 殻の二人が、落とした袋を拾い直していた。


 だが目は、リドの首に張りついたままだ。


 「死人返しだ」片方が言った。「本物の」


 「浅層に、本物がいる」もう片方が言った。


 声が、岩に反って幾重にも延びていく。二人は袋を担いで、浅いほうへ下がっていった。


 「聞いたろ」ティナが言った。「あの二人が、次の誰かに話す」


 「止まらないやつだな」クレイが言った。


 「昨日は、三組が噂で口にしてた」ティナが言った。「伝聞だ。今日のは、違う」


 「見た、ってこと」セルカが言った。


 「目で見た」ティナが言った。「伝聞は薄まる。目で見た話は、薄まらない」


 「値が、上がるわけだ」セルカが言った。


 「上がる」ティナが言った。「上がった噂は、遠くまで行く。こっちの足より、ずっと速い」


 「それ、まずいの」セルカが言った。


 「わからない」ティナが言った。「まずいかどうかは、聞いた相手による」


 「いい客なら」セルカが言った。


 「いい客とは、限らない」ティナが言った。


 ヴェインが、リドの肩を引き起こした。


 「うちも、噂の口に入る」ヴェインが言った。「見た者が、いちばんよく喋る」


 「喋るのか」クレイが言った。


 「黙る理由がない」ヴェインが言った。「首を戻された話だ。酒場で、いくらでも化ける」


 クレイは、それきり訊かなかった。


 噂は、昨日より一段、外へ出た。止める手立ては、手のなかにない。




 鴉の爪が、浅いほうへ引いていく。


 今日は、リドが自分の足で歩いていた。まだ遅い。だが擦ってはいない。


 クレイは手のひらを、その背へ向けたままでいた。


 三つの織りが、灯の奥へ遠ざかる。一つは、まだ縁がほつれている。だが、糸は切れずに繋がっていた。


 弱りの層は、いつもの拍で下から鳴っている。


 だが、その層のさらに外に、一つ冷たいものがあった。


 弱ってはいない。張ってもいない。ただ、冷たい。


 感知したことのない手ざわりだ。層のいちばん遠く、迷宮の外に近いところで、じっと動かずにいる。


 クレイの左手の甲が、そこへ向いてぴんと鳴った。


 東の道で覚えた、あの筋だ。糸が一本、その冷たいもののほうへ張っていく。


 「どうかした」ティナが言った。


 「わからない」クレイが言った。「奥じゃない。もっと、外だ」


 「魔物」セルカが言った。


 「弱ってない」クレイが言った。「けど、人の張りとも違う」


 ティナがペンを止めた。


 「その噂を」ティナが言った。「聞いてるのが、冒険者だけとは限らない」


 クレイは、冷たいもののほうを見た。


 それが何かは、手が知らない。だが、こちらの声を聞きつけて、じっと耳を澄ませている——そんな気配だった。


 弱った者なら、これまで何度も触れてきた。手練れの張りも、昨日おぼえた。


 この冷たさは、そのどちらでもない。


 左手の筋が、もう一度、細く鳴った。


 クレイは手のひらを、ゆっくり握った。


 握っても、筋の張りは消えなかった。糸の先が、外のいちばん遠くへ、まだ繋がったままでいる。


 ティナが、手帳の隅に何か書いた。名前のない欄の、また隣だ。


 「書いたの」セルカが言った。


 「印だけ」ティナが言った。「外に、冷たいものが一つ。名前は、まだ書かない」


 「先へ行く?」セルカが剣を担いだ。


 「行く」クレイが言った。


 だが足は、すぐには出なかった。


 噂が外へ漏れていく流れと、この冷たいものが動かずにいる静けさが、どこかで一本に繋がっている気がした。


 その繋がりが何を意味するのか、クレイの手は、まだ知らない。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 前回、クレイは掴めていて届く手でありながら、塞ぐ約束のないリドへは手を伸ばしませんでした。「届かないのではない。伸ばさないだけだ」と。今回はその続きです。深層で無理をしたリドの脇が開き、担がれて浅いほうへ戻ってくる。そして目の前で、動けないリドの首へ白いものの鉤が滑ります。


 昨日握って見送った手を、今日は伸ばすと決める。書きながらいちばん置きたかったのは、その「決めて出す手の重さ」でした。勝手に動く手より、決めて伸ばす手のほうがずっと重い。掌の底から温いものがひと匙、指を伝って外へ出て、出ていったぶん自分の内側が一段翳る——伸ばすという選択には、握るのとは違う目方があるのだと思います。


 そして今回、噂は一段外へ出ました。昨日までは伝聞でした。今日は、素材採りの二人が「死人返し」を目で見てしまった。目で見た話は薄まらない、とティナは言います。値のついた噂は、こちらの足より速く遠くまで行く。


 その遠くに、クレイは感知したことのない冷たいものを一つ、見つけます。弱ってもいない、張ってもいない、ただ冷たい。それが何かは、彼の手にはまだわかりません。ですが左手の甲の筋が、その遠いもののほうへ細く鳴る。噂が外へ漏れていく流れと、その冷たいものが動かずにいる静けさが、どこかで一本に繋がっている。その繋がりの意味を、彼はまだ知らないままです。


 どうか続けて見届けてやってください。

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