範囲と距離
クレイは目を閉じ、手のひらを暗がりへ向けていた。
掴む手つきではない。届く先を、指の腹で探る手つきだ。
岩室は静かだった。灯は油を惜しんで小さい。壁の濡れが、光のふちで鈍く光る。
セルカが壁際で剣を膝に置いている。ティナは手帳を開いて待っていた。背の塩の包みだけ、下ろして足元に置いてある。
昨日の下りから道を幾度か折れて、ここで休んでいる。ティナが歩数を頁に落とし終えるまでの、束の間だ。
奥の底では、まだ幾つかの弱りが層になって鳴っていた。手の届かない、ずっと下のほうだ。今日はそっちを聞かないと決めた。
聞いても届かない。届かない気配を数えると、指の行き場がなくなる。それは昨日、肌で知った。
だから今日は、届くほうだけを探る。塞げる先の、いちばん外の縁がどこか。それが知りたい。
「なにしてんの」セルカが言った。
「際を探してる」クレイは言った。
「昨日の、板?」
「そう」クレイは言った。「冷たくて平らなやつ」
「昨日は刃が来る間際に、板へ手が当たった」クレイは言った。「今日は逆だ」
「順を、裏返すってこと」セルカが言った。
「刃の前に、板がどこにあるかを先に探す」クレイは言った。
「指が、ある所まで伸びてしびれる」クレイは言った。「そこから奥へは進まない」
「しびれた先は」セルカが言った。
「外だ」クレイは言った。「しびれる手前までが、たぶん内側だ」
「わかるの、そんなの」セルカが身を乗り出した。
「ぼんやりとだ」クレイは言った。「暗がりで壁を手探りするのに似てる」
「壁、あるんだ」
「触ってみないとわからない」クレイは言った。「止まるとこがあれば、そこが端だ」
ティナがペンを構えた。
「探れるなら、印を置ける」ティナは言った。「今から測る」
「どうやんの、それ」セルカが言った。
「セルカ、立って」ティナは言った。「あなたが目印になる」
「あたし?」
「歩いて。私が止めた所で止まる」ティナは言った。「そのたびクレイに訊く。板が来るか、来ないか」
「使いっ走りじゃん」
「いちばん大事な役だ」ティナは言った。
セルカが立った。剣を担がず、手ぶらで岩室の真ん中へ出る。
「ここでいい?」セルカが言った。
「そこ」ティナが言った。
クレイは手のひらをセルカへ向けた。指の先がまっすぐ伸びていく。途中で止まらない。手首から先が、セルカの側へことりと着いた。
「通る」クレイは言った。「板はない」
「なんともないよ、あたし」セルカが自分の腕を振ってみせた。
「見えないものを測ってる」ティナが書きながら言った。
「次」ティナが言った。「もっと奥。灯の切れ目まで」
「はいはい」セルカが暗がりへ下がった。輪郭が半分溶ける。
「ここらへん?」
「そこで止まって」ティナが言った。
クレイは手を向けた。指が伸びて、途中でしびれる。爪の先が冷たい面に触れた。押しても、そこから進まない。
「板だ」クレイは言った。「ここから外」
「そんなちょっとで?」セルカが暗がりから声だけ返した。
「戻して」ティナは言った。「さっきの所へ」
「注文が多いなあ」セルカが戻る。灯が顔を拾った。
「通る」クレイは言った。
「今度は、岩の裏」ティナは言った。「そこの出っ張りの陰」
セルカが岩の陰へ回った。頭半分だけ、こちらへ出している。
クレイは手を向けた。指が伸びかけて、岩の手前でしびれた。近いのに、届かない。
「板だ」クレイは言った。「岩が間に入ってる」
「顔は出てるのに?」セルカが岩から覗いた。
「体が陰だ」クレイは言った。「陰は外になる」
「顔だけじゃ足りないんだ」セルカが岩の陰でしゃがんだ。
ティナのペンが止まらない。
「もう一回、奥」ティナは言った。「けど今度は、こっちを見ないで」
セルカが背を向けて下がった。さっき通った所と、同じ辺りだ。
クレイは手を向けた。指がしびれる。さっきより手前で止まった。同じ場所なのに、板が近い。
「板だ」クレイは眉を寄せた。「さっきは通った所だ」
「振り向いて」ティナは言った。
セルカが振り返った。目が合う。
「今は」ティナが言った。
クレイは手を向け直した。指が奥まで伸びる。板が薄い。紙一枚ぶんに薄れて、その向こうへ届いた。
「通る」クレイは言った。「……見てると、通る」
ティナのペンが速くなった。
「距離じゃない」ティナは言った。「同じ場所で、切れたり通ったりした」
「気味わるいな」セルカが自分の背をさすった。
「向きだ」ティナは言った。「あなたがこっちを向いてるか。振り向けるか。それで板が薄くなる」
「見てりゃ助かるってこと?」セルカが言った。
「まだ言い切らない」ティナは言った。「でも、そっちに寄ってる」
「じゃあ、あたしずっとあんた見てる」セルカが言った。「そしたら板、消えるんだろ」
「消えるかは知らない」クレイは言った。「薄くはなる」
クレイは手のひらを閉じた。探った痺れが手首の裏まで残っている。
「街道では、こんなに揺れなかった」クレイは言った。「隣に手が伸びれば済んだ」
「ここは勝手が違うわけね」セルカが言った。
「岩が気配を跳ね返す」クレイは言った。「同じ所のお前が、近く思えたり遠く思えたりする」
板もそれに合わせて寄っては引いた。迷宮の底ほど、際は読みにくくなる。クレイはそう思った。
「数は書かない」ティナが手を止めずに言った。「何歩とか、そういうのは書けない」
「なんで」セルカが覗こうとした。
「揺れるものに目盛りはつかない」ティナは言った。「代わりに、起きたことを書く」
「たとえば」
「呼べば振り向く近さ。そこは通った」ティナは言った。「岩が間に立つと切れた。背を向けると、近くても切れた」
「それ、目盛りじゃないの」セルカが言った。
「線じゃない」ティナは言った。「癖だ。この人の手の癖を書いてる」
「あんたの癖ねえ」セルカがクレイを横目で見た。「勝手に動くやつ」
クレイは、書かれた自分の手を思った。
選ぶという言葉を、村で覚えた。決めてから動くとも言った。だが決めるより先に、手はいつも済ませていた。選ぶ手前で、勝手に動く手だ。
その手の届く端が、いま少しずつ見えてくる。端がわかれば、手前で止める目もいつか持てる。そんな気がした。
内側と外側。昨日おぼえたばかりの、二つの言葉だ。手の端の内なら塞げる。端の外は、聞くだけで終わる。
外を数えるより、まず内側の形を知りたい。内側さえ確かなら、そこに立つ者は減らさずに済む。
その形は、まっすぐな線ではないらしい。丸くもない。相手の向きひとつで、寄ったり退いたりする、生きた縁だ。
灯の外で、乾いた音がした。
脚の音だ。いくつも。岩を掻く、あの白いものの脚だった。
セルカの背が、すっと沈んだ。もう軽口はない。
「剣」セルカが低く言った。戦うときの声だ。
「一匹」クレイは言った。「裂け目から。セルカの右」
セルカが壁の剣へ跳んだ。白いものが岩の裂け目から滑り出る。目のない体が、灯のふちで平たく光った。
セルカが剣を薙いだ。白いものが割れて、脚が縮む。手応えは、今日はあった。
「もう一匹」クレイは言った。奥の暗がりで、乾いた脚が退いていく。「逃げる。奥へ」
セルカの足が、それを追って前へ出た。
「セルカ」ティナが言った。「線」
セルカが止まりかけ、また一歩出た。白いものが、ちょうど灯の切れ目で誘うように止まる。
クレイの手が勝手に持ち上がった。いつものやつだ。セルカの背へ伸びていく。
だが指の先で、板がもう立っていた。さっき測った、あの薄れない厚さだ。背を向けたセルカは、外へ出かけている。
注げば、届かない。届かないのに注げば、底だけが減る。
クレイは、伸びかけた手を止めた。
手を止めるのは、初めてだった。
手のひらの下で、底が減らずに止まっていた。伸ばせば減る手だ。伸ばさなければ、減らない。あたりまえのことが、今日はじめて自分の側にあった。
代わりに、声を出した。
「セルカ。戻れ」クレイは言った。「そっちは、俺の外だ」
セルカの足が止まった。
振り返る。目が合った。
その瞬間、クレイの指の先で、板が紙一枚に薄れた。セルカがこちら側へ帰ってくる。
白いものは灯の切れ目で待っている。だがセルカは、もう追わなかった。
「なんで止めたの」セルカが振り向いたまま言った。剣先が下がっている。
「追えば、お前が外へ出る」クレイは言った。「外じゃ手が届かない」
「一匹くらい、討ち逃してもいいってこと?」
「討ち逃す」クレイは言った。「そのほうがいい」
セルカが、白いものの消えた暗がりをひとにらみして、剣を壁へ立てかけた。
「あんたが、あたしを外に出さなかった」セルカは言った。「はじめてだ。前は、勝手に手が追ってきてたんだろ」
「追ってた」クレイは言った。「気づかずに。底が減るのも気づかずに」
伸ばす手は、七年ずっと勝手だった。止める手は、たった今できたばかりだ。
伸ばすより、止めるほうが重い。指を握り込むだけのことが、腕ぜんぶを使うより力が要った。手の癖に逆らうというのは、こういう手ざわりらしい。
「クレイ」ティナがペンを止めた。「顔」
「白いか」クレイは言った。
「昨日ほどじゃない」ティナは言った。「でも、測るたびに少し引いてる」
「探るだけでも、減るのか」クレイは手のひらを見た。「刃が来なくても、際へ伸ばすだけで目減りする」
「じゃあ、測るのやめよ」セルカが言った。「減るんじゃ意味ないじゃん」
「やめない」ティナは言った。「けど、今日はここまで」
「あんたが止めるの?」セルカが言った。
「クレイが止めた」ティナは言った。「自分の手を。今日はそれを書く」
クレイは手のひらを、ゆっくり握った。握ると、底の目減りが指の内で止まる気がした。届かない先へ伸びるはずだった手が、いま握りのなかで止まっている。残しておくぶんが、その拳の内にある気がした。
セルカが、その握った手を見た。
「それ、あんたにしては変な感じだ」セルカは言った。「手、いつも勝手に動くくせに」
「動く」クレイは言った。「けど、今日は止めた」
ティナが手帳の隅に短く書いた。ペン先が一度だけ、いつもより長く紙に留まる。手の癖の下へ、止まった一度を書き足したのかもしれない。
「一本、線が引けた」ティナは言った。「端の形はまだ知らない。でも、内側で手を止められると分かった」
「収穫は言わないんだね」セルカが言った。
「もう目盛りの話はやめた」ティナは言った。「今日から、癖の話だ」
ティナが手帳を閉じ、灯を持ち直した。
「先へ行く?」セルカが剣を取った。
クレイは立ちかけて、止まった。
首の後ろではない。今度は手のひらだ。奥から、別のものが伝ってくる。
弱りではなかった。弱っている気配なら、これまで何度も触れてきた。これは違う。
張りのある気配だ。傷んでいない。息が乱れず、足が慣れている。
人だ。何人か。奥から、こちらの浅いほうへ上ってくる。
「どうかした」ティナが訊いた。
「人がいる」クレイは言った。「奥に。弱ってない」
「他の連中?」セルカが言った。「あたしらみたいな」
「たぶん」クレイは言った。「けど慣れてる。俺たちよりずっと」
「息の張りが、手のひらに硬く伝わる」クレイは言った。「弱った者は、ほどけて崩れる手ざわりだ」
「こいつは逆ってこと」セルカが言った。
「ほどけない」クレイは言った。「ぴんと張って、目当てのほうへ向かってる」
迷宮に先客がいる。岩に噛まれた錆びた籠手ではない。生きて歩いて、こちらへ近づいてくる先客だ。
「近いの」ティナが手帳を帯へ挿した。
「まだ奥だ」クレイは言った。「けど上ってくる。止まらない」
「素材採りかな」セルカが剣を担いだ。「浅層、報酬いいって書いてあったろ」
「なら、鉢合わせる」ティナは言った。「早いか遅いかだ」
セルカが暗がりへ顎をしゃくった。剣の柄を、握っては緩めている。
その足が、迷わず浅層をたどっている。まるで、なにを探しに来たか決まっているように。
クレイは手のひらを閉じたまま、その気配のほうを見た。
弱った者を聞くのには慣れている。弱っていない者が近づく音は、はじめてだ。どう構えればいいのか、まだ手が知らない。
乾いた足音が、岩を踏んで規則正しく近づいてくる。弱った者の乱れた歩みとは、拍が違う。ティナが灯を一段絞り、帯からペンを抜いて構え直した。セルカが剣の柄に手をかけ、暗がりの一点を見据える。
三人は動かず、上ってくる拍を数えた。際の内も外も、まだ半分しか知らない。その半分の外から、慣れた足が近づいてくる。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
前回、クレイは自分の手に『際』があると初めて肌で知りました。今回はその一歩先、際を意図的に測ろうとする話です。
書きながらいちばん気を配ったのは、際を「半径いくつ」と数字で決めないことでした。測ってみると、際は単純な遠い近いではないんです。同じ場所に立っていても、こちらを向いているか、岩の陰にいるか、それだけで手が届いたり切れたりする。だからティナは目盛りをつけるのをやめて、「手の癖」を書くことにしました。数字ではなく、起きたことを積む。彼女らしい測り方になった気がします。
そして今回の芯は、クレイが生まれて初めて自分の手を止めた瞬間でした。七年、彼の手は決めるより先に勝手に動いてきました。その手を、届かない先へ注がずに握り込む。伸ばすことより、止めることのほうがずっと難しい。制御の芽は、たぶんこういう小さな一度から出るのだと思います。
帰り際、奥から弱っていない足音が近づいてきます。迷宮には、彼らより慣れた先客がいる。次の話から、外の気配が動き出します。どうか続けて見届けてやってください。




