表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
20/46

大迷宮アビス

 大迷宮アビスの口は、外の風を吸い込んでいた。


 入ってすぐ、道は下りになった。岩肌が汗をかいたように濡れている。秋の匂いが、じきに消えた。


 クレイは足を止めた。首の後ろの感じが、いつもと違う。


 街道のもやの中では、死にかけの気配はいつも肌の表で鳴った。ここでは皮の内側で鳴る。岩が音を返すからだ。誰かの弱りが壁に当たって重なり、奥から届く。


 「深いね」セルカが両手剣を担ぎ直した。「息が冷たい」


 「口を閉じて呼吸して」ティナが言った。「埃で喉をやられる」


 セルカは口を閉じた。それからすぐ開いた。


 「無理。しゃべれないと調子が出ない」


 「戦うときは黙るくせに」


 「あれは別だよ」


 外の街道では、弱りは一人ずつ、間を置いて届いた。ここは違う。下から立ちのぼる弱りが、幾つも折り重なっている。


 誰かが弱り、その奥でまた誰かが弱る。層になっていた。死が濃いというのは、こういうことかとクレイは思った。


 クレイは奥へ目をやった。灯は届かない。だが弱りの重なりは、たしかに下から来る。


 「地図は」クレイは訊いた。


 「無い」ティナは言った。「ここから先は、私が描く」


 「描けるの、これ」セルカが暗がりを見回した。


 「歩いた分だけ描く」ティナは言った。「戻る道になる」


 「戻る道」セルカが言った。「行きと同じ順にたどれる?」


 「印が合えばね」ティナは言った。「頁は嘘をつかない」


 「あたしは道を覚えないよ」セルカが言った。「前しか見てないから」


 「だから私が描く」ティナは言った。「あなたは前を見てて」


 「それは得意」


 「一頁目、書いたよね」セルカが言った。「生きて帰る前提でって」


 「太い字で書いた」ティナは言った。「二頁目は、この道になる」


 クレイは、その太い字を思い出した。帰る前提の道を、いま下っている。順番が逆にならないように。


 ティナが手にした灯は、油を惜しんで小さくしてある。炎の届く先はせいぜい数歩で、その外はただ黒い。三人の足音だけが、濡れた岩に吸われては返ってくる。話し声がやむと、迷宮はすぐ元の静けさへ戻った。その静けさの底で、弱りだけが鳴っていた。




 道は幾度も折れた。ティナはいちばん後ろで、歩数を頁に落としていく。


 「クレイ」ティナが顔を上げずに言った。「気配は」


 「ある」クレイは言った。「まだ遠い。下のほうだ」


 左手の甲の筋が、下りのたび奥へ引かれる気がした。気のせいだと、もう言わない。


 「一つ?」


 「一つじゃない」クレイは言った。「弱ってるのが、いくつか。生きてはいる」


 壁に古い引っ掻き傷があった。剣の先か、爪か。戻らなかった者の残りかもしれない。ティナはそれも書いた。書いておけば、あとで意味になる。この人はいつもそうだ。


 「なんか、埋まってるよ」セルカが足元を顎で示した。錆びた籠手が半分、岩に噛まれている。「先客だ」


 「戻ってない先客」ティナは言った。


 「縁起わるいこと言うね」


 「事実を言った」ティナは言った。「縁起は測れない」


 「その、弱ってる人たち」セルカが奥を見た。「助けに行くんだよね」


 「届くとこにいるやつは」クレイは言った。「行けば間に合う」


 「届かないとこは」


 「わからない」クレイは言った。「まだ、そういう話をしたことがない」


 自分でも、いま初めて口にした区切りだった。届く者と、届かない者。街道ではその線を引く要りようがなかった。隣にいる者しか、はじめから居なかったからだ。


 背負った塩が、下りのたび鈍く鳴った。ニコの祖父の前払いだ。この暗がりの中で、それだけが外の重さをしていた。


 道はなお下った。壁の濡れが増していく。岩の継ぎ目に、白く粉を吹いたものが張りついている。指でこすると苦かった。汗ではない。迷宮そのものが、少しずつ何かを滲ませていた。


 「それ、なめたの?」セルカが言った。「よくやるね」


 「苦いだけだ」クレイは言った。「毒なら舌が痺れる」


 「痺れたら?」


 「そのとき考える」


 セルカは先に立って歩きたがる。角を曲がるたび、剣先が肩の触れる距離より先へ出る。


 「セルカ」ティナが言った。「離れすぎ」


 「前は広いほうがいいでしょ」


 「クレイから離れないで」


 「クレイ、足が遅いんだもん」




 角の先が、急に開けた。天井の高い岩室だ。


 その天井から、白いものが落ちてきた。


 目がなかった。岩の色をした平たい体に、脚がいくつも生えている。落ちるなり、いちばん前にいたセルカへ向いた。


 セルカの顔が、戦うときの顔になる。口を閉じ、息だけになった。


 「下がって」短く言って、剣を薙いだ。


 白いものは一匹ではなかった。二匹目が岩の裂け目から這い出て、セルカの脇へ回った。セルカは前へ出すぎている。三人のいる場所から、声の届く間合いより外だ。


 脚の鉤が、セルカの二の腕を裂いた。


 クレイの手が動いた。いつもの、勝手に動くやつだ。だが今度は、途中で何かに触れた。冷たい板のようなものだ。手のひらがそこで薄くなる。


 セルカの弱りが、その板の向こうで滲んで届く。遠い。膜を一枚隔てた、湯の温さのようだった。岩が気配を返すこの底では、街道のようにはまっすぐ通らない。


 「セルカ、退がれ」クレイは言った。声が急に固くなった。「腕、深い。こっちへ」


 セルカは剣で一匹目を裂きながら退がった。二の腕から血が糸を引いている。三人のいる場所へ、少しずつ寄ってくる。


 二匹目が跳んだ。今度は喉だ。


 クレイの手のひらから、板が消えた。手首から先が、いちど冷たい水に沈む。指の股を、水が一度だけ抜けていった。


 次の息で、セルカの喉に傷はない。血もない。二匹目は崩れた岩の下で潰れ、セルカの剣がその上で止まっていた。


 クレイは自分の手のひらを見た。


 さっきは、板があった。手が途中で薄くなった。今度は、まっすぐ通った。一匹目のときより、セルカがこちら側にいた。それだけが、違っていた。


 その隔たりに、何かがある。


 同じ手だ。いつも勝手に動く、同じ手だ。それが一匹目のときは途中で止まり、二匹目のときは止まらなかった。


 力の強い弱いではない。止められたのだ。何かに、行く手を。手のひらに残る平らな冷たさが、その何かの手ざわりだった。


 「今の」セルカが自分の喉を撫でた。まだ戦いの顔が半分残っている。「入ったよね。横から」


 「掠っただけだ」クレイは言った。


 「腕は掠ってないよ」セルカが二の腕を見た。血が肘まで垂れている。「こっちは残ってる。喉は消えた。なんで片方だけ」




 クレイはセルカの二の腕を押さえた。指で血の糸を止め、上から布をきつく巻く。癒し草の葉を裂き目に添えて締めた。時の要る傷だ。手が要って、痕が残る。こっちは、いつもの手当てだった。


 「しみる」


 「しみるくらいで済んでる」クレイは言った。「喉だったら、しみもしない」


 「クレイ」ティナが横に膝をついた。手帳を開いている。「今の、二回とも見てた」


 「そうか」


 「一匹目のとき、あなたの手は動いた。でも途中で止まった。セルカの腕は裂けたまま残った」ティナは言った。「二匹目のとき、あなたの手は最後まで動いた。喉の傷は無くなった」


 「……ああ」


 「違いは、セルカの位置。それだけ」


 クレイは布の端を折り込んだ。指が勝手に動く。


 「今のは、力が弱ったんじゃない」ティナは言った。「腕の傷は、あなたが〝届かなかった〟ことになってる。喉の傷は、〝届いた〟ことになってる。同じ力が、途中で切れてる」


 「切れてる」クレイは繰り返した。


 「あなたの手に、際がある」ティナはペンの尻で床を叩いた。「どこまでが内側で、どこからが外か。私はそれを測りたい」


 クレイは、自分の手のひらをもう一度見た。板に触れた感じが、まだ皮に残っている。冷たくて、平らで、押しても動かないもの。あれの向こうにセルカがいた。


 際、という言葉が、手にしっくり乗った。


 「際がわかれば」ティナは言った。「あなたは選べる。誰を内側に入れて、どこで止まるか。わからないままだと、また底まで注ぐ」


 「決めてから動く」クレイは言った。


 「そのための、際」


 クレイは黙って頷いた。決めるには目盛りが要る。それは村を出る前から、この人に言われていた。目盛りの一本目が、いま床に転がっている。


 「どう測るんだ」クレイは訊いた。


 「次から、私が印を置く」ティナは言った。「あなたの手が届いた場所と、届かなかった場所。二つに分けて頁に落とす。数が集まれば、線の形が出る」


 「線に、形があるのか」


 「あるものと思って測る」ティナは言った。「無ければ無いとわかる。それも収穫」


 「収穫って」セルカが腕を押さえて言った。「怪我して収穫かよ」


 「怪我も目盛りになる」ティナは言った。「痛いほどよく残る」


 「なぐさめが下手だね」


 「測るのが仕事だ」ティナは言った。「なぐさめは別がやる」


 「別ってクレイ?」セルカが言った。「あいつ口下手だよ」


 「あなたがやれば」


 クレイは、板に触れた手のひらをまた思った。平らだった。あれが線なら、まっすぐなのか、丸いのか。それすら、まだ知らない。




 「際って」セルカが腕を押さえたまま言った。「線があるってこと? ここから先はクレイの手が来ない、みたいな」


 「まだわからない」ティナは言った。「でも、あったほうに賭ける」


 セルカは自分の足元を見た。それから、さっき前へ出た場所を見た。声の届く間合いより外の、あの岩を。


 「あたし、そこにいたんだ」セルカは言った。「線の、外に」


 誰も答えなかった。


 「腕でよかった」セルカは低く言った。「喉だったら」


 その先を、セルカは言わなかった。戦いの顔はもう抜けている。だが声だけ、まだ少し痩せていた。


 クレイは巻き終えた結び目を締めた。指にセルカの血の熱がまだ残っている。背の塩とは違う。塩は外の重さだ。この熱は、内側の重さだった。


 「死なせるつもりはない」クレイは言った。「だから、俺の手の届くとこにいてくれ。今日、それがわかった」


 口にしてから、手のひらの平らな冷たさを思い出した。あの板の内と外を言葉で分けたのは初めてだ。誰を内に置くか、そこから言い出していた。


 「線の内側だろ」セルカが言った。「覚えとく」


 「そういう約束か」


 「そういう約束」セルカは八重歯を見せた。それから腕がしみたのか、顔をしかめた。「けど、前には出るよ。線の内側で、いちばん前に立つ。それがあたしの場所」


 「危ないな」


 「危なくないと、前衛じゃない」


 ティナが手帳に何か書いた。今のは記録の顔だった。セルカの言い分を、そのまま一行にしたのかもしれない。


 セルカは腕の布を見た。血はもう止まりかけている。


 「あたし、決めたことがあるんだ」セルカは言った。「刃を、あんたのとこまで行かせないって。前に、そう言った」


 「聞いた」クレイは言った。


 「あれ、少し直す」セルカは言った。「あんたの手が届くとこで、いちばん前に立つ。届かないとこには、行かない。そのほうが、あんたを減らさない」


 クレイは、少し黙った。


 「減らすか減らさないかは、俺が決める」クレイは言った。


 「じゃあ半分こだ」セルカは八重歯を見せた。「あんたが決めて、あたしが立つ」




 少し休んだ。岩室の隅は乾いていて、座れた。セルカは腕を庇うように壁へもたれた。ティナは灯を膝の横へ置き、頁を繰っている。歩き通しの膝が、ようやく自分の重さを思い出した。


 クレイは奥のほうへ気を向けた。


 さっき数えた弱りのうち、いちばん下のひとつが、細くなっていた。さっきの板より、もっと向こうにある。手を伸ばしても、板にすら触れない。ただ、細くなるのが伝わってくる。


 やがて、それは消えた。


 消えた。というより、無くなった。ほどけたのでも、途切れたのでもない。そこにあった弱りが一つぶん、勘定から落ちただけだ。


 クレイは奥の暗がりを見た。


 その一つは、名前も顔も知らない。声も聞いていない。ただ、弱っていたのは確かだった。そして、消えたのも確かだ。


 数えることさえできないまま、勘定から落ちた。街道で聞いた西の綻びと、同じ質の遠さだった。手を伸ばしても、その先に何もない遠さ。


 「どうかした」ティナが訊いた。


 「下に、いた」クレイは言った。「弱ってるのが。さっきまで」


 「今は」


 「いない」クレイは言った。「消えた。俺の届かないとこで」


 ティナがペンを止めた。セルカが顔を上げた。


 「あんたの手、そこまで行かなかったの」セルカが言った。


 「行かなかった」クレイは言った。「板の、もっと外だ」


 外がある。手のひらに際があるなら、その先はぜんぶ外だ。外では誰かが弱って、消える。今日それを、初めて肌で聞いた。


 七年、隣にいる者しか数えてこなかった。届く先だけを見ていれば、外は無いのと同じだった。いまは違う。外があると、知ってしまった。


 だが、生きている者はまだ下にいる。そっちは届く。届くうちは、手が動く。外のことは、外へ出てから考えればいい。いまはそう決めた。


 「先へ行く」クレイは立った。「まだ、いくつか生きてる。そっちは間に合う」


 「間に合ううちに、際を測る」ティナが手帳を閉じて立った。


 「あたしは線の内側」セルカが剣を拾った。腕の布に血が滲んでいる。「そこでいちばん前。それだけ守る」


 三人は、下りの闇へ足を向けた。奥のどこかで、いま一つ勘定が落ちたばかりだった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 いよいよ、三人が迷宮に入ります。追放されてからずっと、クレイは自分の力の底や名前を確かめてきました。今回からは、その力の〝かたち〟を測る話になります。


 今回いちばん書きたかったのは、クレイが初めて自分の手に〝際〟があると気づく瞬間でした。彼の手は、これまで無限に伸びるもののように描いてきました。でも本当は、届く先と届かない先の境目がある。セルカの喉は救えて、二の腕には傷が残った——同じ力が途中で切れたことに、彼はようやく肌で触れます。近くだからまっすぐ通り、遠いから板に阻まれた。その差の名前を、ティナが「際」と呼びます。


 外があると知ってしまうのは、たぶん怖いことです。七年、彼は隣にいる者だけを数えていれば済みました。届かない先は、無いのと同じでよかった。けれど際があるなら、その外では誰かが彼の知らないまま消えていく。休むあいだに落ちた一つの勘定が、これからの旅で彼をどこへ連れていくのか。どうか続けて見届けてやってください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ