大迷宮アビス
大迷宮アビスの口は、外の風を吸い込んでいた。
入ってすぐ、道は下りになった。岩肌が汗をかいたように濡れている。秋の匂いが、じきに消えた。
クレイは足を止めた。首の後ろの感じが、いつもと違う。
街道のもやの中では、死にかけの気配はいつも肌の表で鳴った。ここでは皮の内側で鳴る。岩が音を返すからだ。誰かの弱りが壁に当たって重なり、奥から届く。
「深いね」セルカが両手剣を担ぎ直した。「息が冷たい」
「口を閉じて呼吸して」ティナが言った。「埃で喉をやられる」
セルカは口を閉じた。それからすぐ開いた。
「無理。しゃべれないと調子が出ない」
「戦うときは黙るくせに」
「あれは別だよ」
外の街道では、弱りは一人ずつ、間を置いて届いた。ここは違う。下から立ちのぼる弱りが、幾つも折り重なっている。
誰かが弱り、その奥でまた誰かが弱る。層になっていた。死が濃いというのは、こういうことかとクレイは思った。
クレイは奥へ目をやった。灯は届かない。だが弱りの重なりは、たしかに下から来る。
「地図は」クレイは訊いた。
「無い」ティナは言った。「ここから先は、私が描く」
「描けるの、これ」セルカが暗がりを見回した。
「歩いた分だけ描く」ティナは言った。「戻る道になる」
「戻る道」セルカが言った。「行きと同じ順にたどれる?」
「印が合えばね」ティナは言った。「頁は嘘をつかない」
「あたしは道を覚えないよ」セルカが言った。「前しか見てないから」
「だから私が描く」ティナは言った。「あなたは前を見てて」
「それは得意」
「一頁目、書いたよね」セルカが言った。「生きて帰る前提でって」
「太い字で書いた」ティナは言った。「二頁目は、この道になる」
クレイは、その太い字を思い出した。帰る前提の道を、いま下っている。順番が逆にならないように。
ティナが手にした灯は、油を惜しんで小さくしてある。炎の届く先はせいぜい数歩で、その外はただ黒い。三人の足音だけが、濡れた岩に吸われては返ってくる。話し声がやむと、迷宮はすぐ元の静けさへ戻った。その静けさの底で、弱りだけが鳴っていた。
道は幾度も折れた。ティナはいちばん後ろで、歩数を頁に落としていく。
「クレイ」ティナが顔を上げずに言った。「気配は」
「ある」クレイは言った。「まだ遠い。下のほうだ」
左手の甲の筋が、下りのたび奥へ引かれる気がした。気のせいだと、もう言わない。
「一つ?」
「一つじゃない」クレイは言った。「弱ってるのが、いくつか。生きてはいる」
壁に古い引っ掻き傷があった。剣の先か、爪か。戻らなかった者の残りかもしれない。ティナはそれも書いた。書いておけば、あとで意味になる。この人はいつもそうだ。
「なんか、埋まってるよ」セルカが足元を顎で示した。錆びた籠手が半分、岩に噛まれている。「先客だ」
「戻ってない先客」ティナは言った。
「縁起わるいこと言うね」
「事実を言った」ティナは言った。「縁起は測れない」
「その、弱ってる人たち」セルカが奥を見た。「助けに行くんだよね」
「届くとこにいるやつは」クレイは言った。「行けば間に合う」
「届かないとこは」
「わからない」クレイは言った。「まだ、そういう話をしたことがない」
自分でも、いま初めて口にした区切りだった。届く者と、届かない者。街道ではその線を引く要りようがなかった。隣にいる者しか、はじめから居なかったからだ。
背負った塩が、下りのたび鈍く鳴った。ニコの祖父の前払いだ。この暗がりの中で、それだけが外の重さをしていた。
道はなお下った。壁の濡れが増していく。岩の継ぎ目に、白く粉を吹いたものが張りついている。指でこすると苦かった。汗ではない。迷宮そのものが、少しずつ何かを滲ませていた。
「それ、なめたの?」セルカが言った。「よくやるね」
「苦いだけだ」クレイは言った。「毒なら舌が痺れる」
「痺れたら?」
「そのとき考える」
セルカは先に立って歩きたがる。角を曲がるたび、剣先が肩の触れる距離より先へ出る。
「セルカ」ティナが言った。「離れすぎ」
「前は広いほうがいいでしょ」
「クレイから離れないで」
「クレイ、足が遅いんだもん」
角の先が、急に開けた。天井の高い岩室だ。
その天井から、白いものが落ちてきた。
目がなかった。岩の色をした平たい体に、脚がいくつも生えている。落ちるなり、いちばん前にいたセルカへ向いた。
セルカの顔が、戦うときの顔になる。口を閉じ、息だけになった。
「下がって」短く言って、剣を薙いだ。
白いものは一匹ではなかった。二匹目が岩の裂け目から這い出て、セルカの脇へ回った。セルカは前へ出すぎている。三人のいる場所から、声の届く間合いより外だ。
脚の鉤が、セルカの二の腕を裂いた。
クレイの手が動いた。いつもの、勝手に動くやつだ。だが今度は、途中で何かに触れた。冷たい板のようなものだ。手のひらがそこで薄くなる。
セルカの弱りが、その板の向こうで滲んで届く。遠い。膜を一枚隔てた、湯の温さのようだった。岩が気配を返すこの底では、街道のようにはまっすぐ通らない。
「セルカ、退がれ」クレイは言った。声が急に固くなった。「腕、深い。こっちへ」
セルカは剣で一匹目を裂きながら退がった。二の腕から血が糸を引いている。三人のいる場所へ、少しずつ寄ってくる。
二匹目が跳んだ。今度は喉だ。
クレイの手のひらから、板が消えた。手首から先が、いちど冷たい水に沈む。指の股を、水が一度だけ抜けていった。
次の息で、セルカの喉に傷はない。血もない。二匹目は崩れた岩の下で潰れ、セルカの剣がその上で止まっていた。
クレイは自分の手のひらを見た。
さっきは、板があった。手が途中で薄くなった。今度は、まっすぐ通った。一匹目のときより、セルカがこちら側にいた。それだけが、違っていた。
その隔たりに、何かがある。
同じ手だ。いつも勝手に動く、同じ手だ。それが一匹目のときは途中で止まり、二匹目のときは止まらなかった。
力の強い弱いではない。止められたのだ。何かに、行く手を。手のひらに残る平らな冷たさが、その何かの手ざわりだった。
「今の」セルカが自分の喉を撫でた。まだ戦いの顔が半分残っている。「入ったよね。横から」
「掠っただけだ」クレイは言った。
「腕は掠ってないよ」セルカが二の腕を見た。血が肘まで垂れている。「こっちは残ってる。喉は消えた。なんで片方だけ」
クレイはセルカの二の腕を押さえた。指で血の糸を止め、上から布をきつく巻く。癒し草の葉を裂き目に添えて締めた。時の要る傷だ。手が要って、痕が残る。こっちは、いつもの手当てだった。
「しみる」
「しみるくらいで済んでる」クレイは言った。「喉だったら、しみもしない」
「クレイ」ティナが横に膝をついた。手帳を開いている。「今の、二回とも見てた」
「そうか」
「一匹目のとき、あなたの手は動いた。でも途中で止まった。セルカの腕は裂けたまま残った」ティナは言った。「二匹目のとき、あなたの手は最後まで動いた。喉の傷は無くなった」
「……ああ」
「違いは、セルカの位置。それだけ」
クレイは布の端を折り込んだ。指が勝手に動く。
「今のは、力が弱ったんじゃない」ティナは言った。「腕の傷は、あなたが〝届かなかった〟ことになってる。喉の傷は、〝届いた〟ことになってる。同じ力が、途中で切れてる」
「切れてる」クレイは繰り返した。
「あなたの手に、際がある」ティナはペンの尻で床を叩いた。「どこまでが内側で、どこからが外か。私はそれを測りたい」
クレイは、自分の手のひらをもう一度見た。板に触れた感じが、まだ皮に残っている。冷たくて、平らで、押しても動かないもの。あれの向こうにセルカがいた。
際、という言葉が、手にしっくり乗った。
「際がわかれば」ティナは言った。「あなたは選べる。誰を内側に入れて、どこで止まるか。わからないままだと、また底まで注ぐ」
「決めてから動く」クレイは言った。
「そのための、際」
クレイは黙って頷いた。決めるには目盛りが要る。それは村を出る前から、この人に言われていた。目盛りの一本目が、いま床に転がっている。
「どう測るんだ」クレイは訊いた。
「次から、私が印を置く」ティナは言った。「あなたの手が届いた場所と、届かなかった場所。二つに分けて頁に落とす。数が集まれば、線の形が出る」
「線に、形があるのか」
「あるものと思って測る」ティナは言った。「無ければ無いとわかる。それも収穫」
「収穫って」セルカが腕を押さえて言った。「怪我して収穫かよ」
「怪我も目盛りになる」ティナは言った。「痛いほどよく残る」
「なぐさめが下手だね」
「測るのが仕事だ」ティナは言った。「なぐさめは別がやる」
「別ってクレイ?」セルカが言った。「あいつ口下手だよ」
「あなたがやれば」
クレイは、板に触れた手のひらをまた思った。平らだった。あれが線なら、まっすぐなのか、丸いのか。それすら、まだ知らない。
「際って」セルカが腕を押さえたまま言った。「線があるってこと? ここから先はクレイの手が来ない、みたいな」
「まだわからない」ティナは言った。「でも、あったほうに賭ける」
セルカは自分の足元を見た。それから、さっき前へ出た場所を見た。声の届く間合いより外の、あの岩を。
「あたし、そこにいたんだ」セルカは言った。「線の、外に」
誰も答えなかった。
「腕でよかった」セルカは低く言った。「喉だったら」
その先を、セルカは言わなかった。戦いの顔はもう抜けている。だが声だけ、まだ少し痩せていた。
クレイは巻き終えた結び目を締めた。指にセルカの血の熱がまだ残っている。背の塩とは違う。塩は外の重さだ。この熱は、内側の重さだった。
「死なせるつもりはない」クレイは言った。「だから、俺の手の届くとこにいてくれ。今日、それがわかった」
口にしてから、手のひらの平らな冷たさを思い出した。あの板の内と外を言葉で分けたのは初めてだ。誰を内に置くか、そこから言い出していた。
「線の内側だろ」セルカが言った。「覚えとく」
「そういう約束か」
「そういう約束」セルカは八重歯を見せた。それから腕がしみたのか、顔をしかめた。「けど、前には出るよ。線の内側で、いちばん前に立つ。それがあたしの場所」
「危ないな」
「危なくないと、前衛じゃない」
ティナが手帳に何か書いた。今のは記録の顔だった。セルカの言い分を、そのまま一行にしたのかもしれない。
セルカは腕の布を見た。血はもう止まりかけている。
「あたし、決めたことがあるんだ」セルカは言った。「刃を、あんたのとこまで行かせないって。前に、そう言った」
「聞いた」クレイは言った。
「あれ、少し直す」セルカは言った。「あんたの手が届くとこで、いちばん前に立つ。届かないとこには、行かない。そのほうが、あんたを減らさない」
クレイは、少し黙った。
「減らすか減らさないかは、俺が決める」クレイは言った。
「じゃあ半分こだ」セルカは八重歯を見せた。「あんたが決めて、あたしが立つ」
少し休んだ。岩室の隅は乾いていて、座れた。セルカは腕を庇うように壁へもたれた。ティナは灯を膝の横へ置き、頁を繰っている。歩き通しの膝が、ようやく自分の重さを思い出した。
クレイは奥のほうへ気を向けた。
さっき数えた弱りのうち、いちばん下のひとつが、細くなっていた。さっきの板より、もっと向こうにある。手を伸ばしても、板にすら触れない。ただ、細くなるのが伝わってくる。
やがて、それは消えた。
消えた。というより、無くなった。ほどけたのでも、途切れたのでもない。そこにあった弱りが一つぶん、勘定から落ちただけだ。
クレイは奥の暗がりを見た。
その一つは、名前も顔も知らない。声も聞いていない。ただ、弱っていたのは確かだった。そして、消えたのも確かだ。
数えることさえできないまま、勘定から落ちた。街道で聞いた西の綻びと、同じ質の遠さだった。手を伸ばしても、その先に何もない遠さ。
「どうかした」ティナが訊いた。
「下に、いた」クレイは言った。「弱ってるのが。さっきまで」
「今は」
「いない」クレイは言った。「消えた。俺の届かないとこで」
ティナがペンを止めた。セルカが顔を上げた。
「あんたの手、そこまで行かなかったの」セルカが言った。
「行かなかった」クレイは言った。「板の、もっと外だ」
外がある。手のひらに際があるなら、その先はぜんぶ外だ。外では誰かが弱って、消える。今日それを、初めて肌で聞いた。
七年、隣にいる者しか数えてこなかった。届く先だけを見ていれば、外は無いのと同じだった。いまは違う。外があると、知ってしまった。
だが、生きている者はまだ下にいる。そっちは届く。届くうちは、手が動く。外のことは、外へ出てから考えればいい。いまはそう決めた。
「先へ行く」クレイは立った。「まだ、いくつか生きてる。そっちは間に合う」
「間に合ううちに、際を測る」ティナが手帳を閉じて立った。
「あたしは線の内側」セルカが剣を拾った。腕の布に血が滲んでいる。「そこでいちばん前。それだけ守る」
三人は、下りの闇へ足を向けた。奥のどこかで、いま一つ勘定が落ちたばかりだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
いよいよ、三人が迷宮に入ります。追放されてからずっと、クレイは自分の力の底や名前を確かめてきました。今回からは、その力の〝かたち〟を測る話になります。
今回いちばん書きたかったのは、クレイが初めて自分の手に〝際〟があると気づく瞬間でした。彼の手は、これまで無限に伸びるもののように描いてきました。でも本当は、届く先と届かない先の境目がある。セルカの喉は救えて、二の腕には傷が残った——同じ力が途中で切れたことに、彼はようやく肌で触れます。近くだからまっすぐ通り、遠いから板に阻まれた。その差の名前を、ティナが「際」と呼びます。
外があると知ってしまうのは、たぶん怖いことです。七年、彼は隣にいる者だけを数えていれば済みました。届かない先は、無いのと同じでよかった。けれど際があるなら、その外では誰かが彼の知らないまま消えていく。休むあいだに落ちた一つの勘定が、これからの旅で彼をどこへ連れていくのか。どうか続けて見届けてやってください。




