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迷宮を目指す理由

 東の空は、朝もやの底で灰色に沈んでいた。その奥に迷宮があると言われても、クレイの目には何も映らなかった。


 見えないほうへ、これから歩く。


 北の村の木戸の前に、三人ぶんの荷がまとまっていた。クレイのポーチ。セルカの両手剣。ティナの手帳。それだけだ。


 ニコが松葉杖で戸口まで出てきた。脚はまだ繋がりきっていない。だが、立てる。


 「治療師さん」ニコが言った。「また来るのか」


 「気が向いたらな」クレイは言った。


 「気が向けよ」


 「善処する」


 ニコが笑ったような顔をした。それから松葉杖の先で、土をひとつ突いた。


 老人が布の包みをクレイの手に押しつけた。干し魚と、塩がひと袋。


 「街道の先は店がない」老人は言った。「持っていけ」


 「……どうも」


 「借りは、まだ返しきってない」老人は言った。「今度来たときの前払いだ」


 クレイは包みを受け取った。手のひらに塩の重みが伝わる。断る言葉を、うまく見つけられなかった。


 老人の手は荷運びで節くれていた。四日前、この村の者は皆その手を遠巻きにしていた。傷もないのに倒れる男の、床の外のものと呼ばれた甲の筋を。いまは、その手に塩を渡してくる。四日で村がひとつ変わった。手当てのできない変わり方だった。


 村を出ると、道は東へ折れた。


 もやは、村を離れるほど薄くなった。四日のあいだ首の後ろを焼いていた気配は、もうどこにもない。村の者は誰も弱っていない。手の届く先に、塞ぐべきものが一つもなかった。


 その静けさに、クレイはまだ慣れない。七年、勇者の隣では道の先にいつも誰かの死にかけがあった。だから足はいつも急いでいた。急ぐ自覚もないまま急いでいた。いまは急ぐ先がない。急がない歩き方を、体がまだ覚えていない。


 「ねえ」セルカが剣を担ぎ直した。「東ってどのくらい歩くの」


 「わからない」ティナが言った。「地図の端がそこで切れてる」


 「切れてるって、なんだよ」


 「誰も奥まで行って戻ってないの」ティナは言った。「だから地図が描けない」


 「戻らないやつは地図に載らないもんな」セルカが言った。「景気のいい話だね」


 「戻る前提で行く」ティナは言った。「そのために寸法を測る」


 セルカは剣を担いで先を歩きたがる。前に出るのが癖だ。その剣がまだ一度も影に当たっていないことを、本人はもう知っている。知っていて、それでも前に出る。当たらない剣でも、前に立てば時間が拾える。ティナがそう教えた。


 ティナはいちばん後ろを歩く。荷はいちばん軽いのに、足取りはいちばん重い。歩きながら、何かを頁に刻んでいる。三人ぶんの歩数を、たぶん数えている。


 クレイは少し前を歩いた。塩の包みが肩でこきりと鳴った。


 「あたし、まだ腑に落ちてないんだけど」セルカが言った。「なんでいちばん危ないとこにわざわざ行くわけ」


 「クレイの力の底を知るため」ティナは言った。「どこまで使えてどこで倒れるか。それがわからないと、この人はまた勝手に底まで注ぐ」


 「昨日も聞いたよ、それ」


 「昨日と同じ答えしかない」ティナは言った。「私はそれを測って書く」


 「俺は」クレイは言った。「底を知りたい」


 「あんたも同じこと言うんだ」


 「同じじゃない」クレイは言った。「あんたは測って書く。俺は使う側だ」


 七回で倒れた。あの日、自分が何回ぶん減ったのか数えていなかった。数えていれば、八回目の前で手を止められたかもしれない。


 「どこまで使えば誰も死なせずにいられるか」クレイは言った。「それを知らないと選べない」


 選ぶという言葉が、まだ手に馴染まない。七年、手が勝手にやっていた。決めるより先に済んでいた。


 誰を先に手当てするか、迷ったことがない。迷う前に、いちばん死に近い者へ体が向いた。それは選ぶことではない。近いほうから順に拾っていただけだ。選ぶには、拾わずに済ませる目がいる。八回目の刃を前に、手を止める目が。その目を、まだ持っていない。


 今度は、決めてから動くと言った。決めるには目盛りが要る。


 「あたしのは簡単だよ」セルカが言った。


 「なんだ」


 「あんたを、もう一人で減らせない」セルカは言った。「昨日決めた」


 「それは理由になってない」クレイは言った。


 「なるよ」セルカは言った。「あんたが減るとこにあたしが立つ。減る回数はあたしが数える。そのために行く。じゅうぶんだろ」


 クレイは答えなかった。答えの代わりに、包みの塩を担ぎ直した。




 昼を過ぎて、道が二本に分かれる辻に出た。


 辻には古い道標と、冒険者ギルドの立て札があった。道標の腕木は四方を指している。東は上りの丘。西と南は平野。北は、来た道だ。空はここで急に広く、風がまっすぐ通った。


 立て札には触れ書きが幾枚も、重ねて打ちつけてあった。新しい紙の下に古い紙が透ける。誰かが受けて、戻ってこなかった依頼だ。ティナはそういう紙こそ丁寧にめくる。


 ティナが立て札の前で足を止めた。指で紙の端をめくっていく。


 東の迷宮の触れ書きがあった。浅層の素材採取、報酬は悪くない、とティナが読み上げた。


 「稼ぎながら寸法も測れるじゃん」セルカが覗き込んだ。


 その下にもう一枚あった。ティナの指が古い紙で止まる。このひと月で戻らない者が増えた、単独で入るな——記されていたのはそれだけで、理由は書いていなかった。


 「増えた、って」セルカが言った。


 「書いてあるのはそれだけ」ティナは言った。


 行商の荷馬車が一台、南から来て辻で馬に水を飲ませていた。御者の老爺が三人を見て口を開いた。


 「東か」老爺は言った。「やめとけとは言わんが、供養だけはしてから行け」


 「脅かすね」セルカが言った。


 本当のことだ、と老爺は返した。王都のほうも、いま景気が悪いという。


 「王都が、どうかしたの」ティナが立て札から目を上げた。


 「暁の剣(あかつきのつるぎ)が、な」老爺は言った。


 クレイの足が止まった。


 「勇者サマの?」セルカが言った。声が少し尖った。


 大陸いちばんと言われた連中だ。老爺は口の端で笑った。


 「それが、このところ無様でな」老爺は言った。「西の巣で手ひどくやられたそうだ。誰か一人担がれて戻ったと聞いた」


 「誰が」ティナが言った。


 「そこまでは知らん」老爺は言った。「名前までは噂に乗らん。あの旗がしばらく立たん。それだけの話だ」


 クレイは道標の東を指す矢を見ていた。


 「そうか」クレイは言った。


 それだけだった。


 誰か一人、担がれて戻った。その一人の顔まで浮かぶ。ガイではないだろう。前に出るのはいつもレフか、あのあたりだ。喉の裂けやすい間合いへ、真っ先に踏み込む男がいた。


 だが、遠い。


 クレイの手が届くのは、目の届く先だけだ。声のとどく距離、肩の触れる距離。西の巣は地図の端よりまだ向こうにある。手を伸ばしても、その先には何もない。届かない傷は、数えることもできない。


 七年、この手が届いたのはいつも隣にいる者だけだった。それより先は、はじめから守備の外だ。ガイたちは、いまその外にいる。外にいる者のことは、案じても指が動かない。動かない指を案じても仕方がない。


 恨みは湧かなかった。ざまあみろとも思わなかった。ただ、帳の外側に一行が増えただけだ。手の届かない、読めない字で。遠くに。


 「ねえ」セルカが言った。「あんた、なんとも思わないの」


 「思わないな」クレイは言った。


 「あいつら、あんたを役立たずって追い出したんだよ」


 「知ってる」


 「で、あんたが抜けた途端これだ」セルカが言った。「あたしならざまあみろって笑うけど」


 「笑いたきゃ笑えばいい」クレイは言った。「俺は遠すぎて手が届かない。届かないものはどうにもできない」


 「……なにそれ」セルカは言った。少し拍子抜けした声だった。


 ティナは手帳を開いていた。だが、書く手は止まっていた。


 「西の巣で無理をした」ティナは独り言のように言った。「クレイが抜けて、初めて死人の出る戦い方になった。それをあの連中はまだ知らない」


 「クレイが抜けてひと月足らず」ティナは続けた。「西の綻びはその勘定に合う」


 追放から、かぞえればそのくらいだ。クレイは指の中で日を数えた。王都を出て南へ三日。ロウに半月ばかり。北の街道に四日。村でこの数日。合わせて、ひと月に少し足りない。ティナの勘定と、同じところへ着いた。


 「知ったところで、遅いけどね」セルカが言った。


 「遅いかどうかはまだわからない」ティナは言った。ペンの尻で東を指した。


 「東の底と西の綻び」ティナは言った。「今は別々の話だ。でも覚えておく」


 「なんで覚えとくの」


 「わからないから」ティナは言った。「わからないものは消さずに取っておく。それが私の癖だ」


 老爺が馬に水をやり終えて手綱を取った。


 「東へ行くなら」老爺は言った。「戻ってきたら東の話を聞かせてくれ。それもしばらく誰も乗せてない噂だ」


 荷馬車が南へ軋んで去った。


 轍が南へ細くなっていく。あの老爺も、東の話をひとつ抱えて帰りたいだけだ。誰も戻らない場所の話は、それだけで荷になる。ティナと同じ質の人だと思った。




 三人は東の道を取った。


 辻を離れると道はゆるい上りになった。登りきると視界が開けた。


 遠く、地平の際に山とも影ともつかない黒い帯が横たわっていた。もやではない。もっと重いものだった。帯は横に長く、そして下へ厚い。地の底へ何層も沈んでいるように見えた。秋の終わりの風が丘を吹き上げ、枯れかけた草を一方へ倒していく。帯のうえだけ、空の色が薄い。


 距離は読めなかった。半日か、三日か。もやの向こうの帯は、近づいても近づかない気がした。あれの下に底があるなら、底まではこの目で測るしかない。


 「あれが」セルカが言った。


 「たぶん」ティナが言った。「あの下に底がある」


 クレイは左手の甲を見た。薄い筋が、朝より少しはっきりして見える気がした。気のせいかもしれない。


 村を出てから、甲の下の筋が妙だ。東へ足を向けるたび、その一本が糸を張るように甲の奥でぴんと鳴る。痛みではない。道の先へ、細い糸が一本だけ先に伸びていく感じだ。気のせいだと思う。思うが、この手のことを気のせいで片づけて七年きた。もう、そうはしない。


 この手のすることに名前がついた。蘇生、とティナが書いた。大陸にない字だ。死んだものを、死んでいた時間ごと生きていたことにする。そういう意味だと、ティナは言った。


 名前がついても、手の動きは変わらない。誰かの死にかけが視界に入れば、指がひとりでに済ませる。変わったのは、動いたことを自分で知っていられる点だけだ。


 使えば、減る。七回で底を打つ。それもわかった。減るぶんを、これからはセルカが数える。数えられるのは、こそばゆい。だが、悪くない。


 わからないのは、この筋がどこから来たのか。そこだけが、まだ知れない。


 「なあ、ティナさん」クレイは言った。「あそこへ行けば、これがわかると思うか」


 「なにが」


 「この筋が、どこから来たのか」


 「わからない」ティナは言った。「でも確かめにいく。あなたが自分の足で来たから」


 クレイは東の帯を見たまま、少し黙った。


 「死なせるつもりはない」——七年、この一言はいつも手のあとから来た。息を吐くように、済んだことを口がなぞるだけだった。今日はその順を裏返す。まだ誰も倒れていない道の先へ、言葉から先に置く。


 「死なせるつもりはない」クレイは言った。東の帯へ、初めてそう言った。「それだけは、これから決めておく」


 「昔から、じゃないんだ」セルカが言った。


 「昔からのは、もう済んだ」クレイは言った。「これからのぶんはまだ決めてない。だから決める」


 「じゃあ、あたしが数える」セルカは言った。「あんたが何回ぶん決めたか」


 「数えなくていい」


 「数える」セルカは八重歯を見せた。「そういう約束だろ」


 風が東から吹き下りてきた。塩と、それから知らない匂いがした。迷宮の匂いかもしれない。


 ティナが手帳の新しい頁を開いた。


 「一頁目」ティナは言った。「東へ向かう。三人。生きて帰る前提で」


 「その前提、書いといてよ」セルカが言った。「太い字で」


 「太い字で書いた」


 塩の包みが、また肩で鳴った。ニコの祖父の前払いだ。生きて戻って返しにいく口実が、荷の中にひとつある。


 クレイは東の帯へ足を向けた。底はまだ見えない。何が待っているかもわからない。


 だが、行き先はできた。手の届く先に誰かがいるかぎり、この手は動く。今度は動く前に、自分で決める。


 三人は、見えないほうへ歩き出した。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第二アークの、最後の話です。ここまでクレイは、自分の力の正体にたどり着き、その名前を受け取り、隣に立ってくれる二人を得ました。今回はその全部を抱えて、彼が初めて自分の足で行き先を決める話でした。


 書きながらいちばん気を配ったのは、旧パーティーの危機報を聞いたときのクレイの温度でした。恨むでも、助けに走るでもない。彼はただ「遠すぎて手が届かない」と言う。この一言は、彼の力がずっと「手の届く先」でしか動かないことの裏返しでもあります。届かないものは数えられない——七年、目の前の傷だけを見てきた男らしい受け方になったなら、うれしいです。


 三人がなぜいちばん危ない場所へ向かうのか。理由は三つとも違って、でも同じ方角を指しています。クレイは底を知るため、ティナは確かめて書くため、セルカは「もう一人で減らせない」から。ばらばらの理由で同じ道を歩けるのが、パーティーというものなのだと思います。


 東の地平の黒い帯の下に、何が待っているのか。次の話から、いよいよ迷宮に入ります。どうか、その道行きを見届けてやってください。

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