役立たずじゃなかった
「役立たず、か」
クレイは、その四文字を口の中で転がした。転がしても、昨日までとは味が違った。
夜のあいだ、ほとんど眠らなかった。眠れなかったのではない。眠る要りようを、体が忘れていた。
長く知らずにいた重さが、一晩かけて手のひらへ戻ってくる。そういう夜を越えて朝になった。
もやが四日ぶりに薄い。戸口から差す光が、土間の隅まで白く伸びている。框に腰かけると、その光が左手の甲まで届いた。
昨夜まで熱を持っていた線は、いまは肌の下へ薄く沈んでいる。ティナが手帳に二文字を書いたことが、この光の下では遠い出来事のようだった。
村が起きはじめる音がした。桶を井戸へ落とす音。鶏を追う声。戸の軋み。ふつうの朝の音だ。
四日前まで、この村はその音をひそめていた。祠に暮らしを吸い取られて、人が表へ出なかった。
いまは音が戻っている。荷が村へ返り、ニコが穴から上がった。だからだ。
隣の間で、ニコが目を覚ましていた。
「治療師さん」ニコが枕から首を回した。「脚、見てくれる」
「ああ」
クレイは框を立ち、ニコの脇へ膝をついた。添え木の布をほどく。四日、穴の底で膿んで熱を持った脚だ。
骨の際を指の腹で押すと、ニコが小さく息を詰めた。まだ痛む。だが膿の口は締まっている。
腫れは昨日より引いていた。皮膚の下で、折れた端と端が、少しずつ寄り合おうとしている。
時が要る傷だ。時が要って、手が要って、痕が残る。それを手伝うのが手当てというものだった。
昨夜まで、自分にできるのはそこまでだと思っていた。
癒し草を煮て、添え木を巻いて、あとは体に任せる。それだけの男だと思っていた。
「繋がる」クレイは言った。「あとはお前の脚が勝手に治す」
「あんたが治したんだと思ってた」
「や、俺は添え木を巻いただけだ」
布を巻き直し、結び目を締める。指が、包帯の端を勝手に折り込んでいた。手のほうが、頭より先に覚えている。
ニコは天井を見たまま、少し黙っていた。
「治ったら、何する」クレイは訊いた。
「歩く」ニコは即答した。それから、天井へ息を吐いた。「いや、わかんない。歩けるようになったらあんたにちゃんと礼を言う」
「もう聞いた」
「あんなの、寝ぼけて言ったやつだろ」
「その脚さ」ニコが言った。「四日、穴の底で腐りかけてた。誰も来なかった。あんたが降りてきた」
「降りただけだ」
「降りるやつが、いなかったんだよ」
クレイは、結び目から手を離した。離した手が、行き場をなくして膝の上で止まる。
傷の話ならいくらでも返せる。深さも、要る薬も、繋がるまでの日数も。それ以外のことは、昔から苦手だった。
礼を言われると、手のやり場に困る。
土間の奥から、老人が椀を運んできた。ニコの祖父だ。湯気の立つ椀を、クレイの前に置く。
「粥だ。あんたの分もある」老人は言った。「食える口が、二つに増えた」
「……どうも」
クレイは椀を受け取った。手のひらに、椀の熱が伝わってくる。四日ぶりに、村の竈へ火が入ったのだろう。
「あんた、まだ北へ行くのか」老人が訊いた。
「いや」クレイは言った。「荷は、もう返した」
「なら、どこへ」
「……まだ、決めてない」
「決まったら、寄っていけ」老人は言った。「粥くらいは、いつでも出す」
「この村は、あんたに借りができた」老人は続けた。「返せるうちに、返させてくれ」
老人は、クレイの左手を一度だけ見た。昨日まで、村の者はその手を遠巻きにしていた。傷もないのに倒れた男の手。床の外のものと呼ばれた痣だ。
だが老人は、目を伏せなかった。見て、それから小さくうなずいた。ただ椀をもうひとつ、ニコの枕元へ運んでいった。
七年、自分の取り柄は回復くらいだと思っていた。だから勇者に「いてもいなくても同じだ」と言われたとき、抗わなかった。
あのとき、ガイは怒ってすらいなかった。荷を運ぶ順番でも決めるような、平らな声だった。役立たずと言われれば、そうかと思った。
荷をまとめて、隣を離れた。それだけのことだった。
いまは、根拠がある。
だが根拠があっても、胸の中はあまり動かなかった。ガイを恨む気も、湧いてこない。あの男は、七年隣にいて一度も見えなかっただけだ。
見えないものを責めても、始まらない。ただ勘定の桁がひとつ、静かに繰り上がった。
それだけのことだった。粥は、まだ熱かった。
ティナは、戸口の腰掛けにいた。膝に手帳を開いて、朝の光を頁に当てている。
ペンの尻を、こつこつと膝で鳴らしていた。考えごとをするときの癖だ。
「よく寝てた」ティナが言った。頁から目を上げない。
「あんたは寝たのか」
「少し。書くことが多くて」
クレイは椀を持って、ティナの向かいへ移った。ティナがペンを止め、頁をこちらへ向ける。
昨夜の二文字の下に、細い字が幾つも並んでいた。ティナの字はいつも小さくて、角ばっている。
だが今朝の字は、行の端が少し丸い。確かめながら書いた字だった。
「わかることを、並べてみた」ティナは言った。「起きる範囲。あなたの手が届く先。それと、底」
「底」
「七回で、あなたは倒れた」ティナは言った。「使うたびに、あなたが減る。減った先に底がある」
クレイは頁を見た。短い行がいくつも並んでいる。刃の来た数。倒れるまでの回数。顔の色。声の低さ。
四日ぶんの、自分では覚えていない自分が、そこに記されていた。この人は自分が数えられずにいたあいだ、代わりに数えていた。
「知ってる」クレイは言った。「昨夜、腑に落ちた」
「落ちたなら、次は測る番」ティナは言った。「名前がついても寸法はわからない。どこまで使えてどこで倒れるか。それを知らないと、あなたはまた勝手に底まで注ぐ」
「測る、と言われてもな」クレイは椀を置いた。「刃が来なきゃ動かない。手が、勝手にやることだ」
名前がついたところで、手の動きは何ひとつ変わらない。
誰かの死にかけが視界に入れば、指がひとりでに済ませる。変わったのは、それを見ている自分が起きていることだけだった。
「これは」クレイは左手の甲に触れた。「どこから来た」
「わからない」ティナは言った。「昨夜も言った。あなたが自分の足でそこへ着いたら、埋める」
クレイは、それ以上訊かなかった。訊いても、いまは出てこない。埋まらない空白が、そこにひとつあるだけだった。
「なあ」クレイは、匙で粥を一度すくった。すくって、口へ運ぶ前に止める。「七年、俺は後ろで傷を見て手当てするだけの男だと思ってた」
「見てただけじゃない」ティナは言った。「あなたの手が届く場所で七年、誰も死ななかった。あなたがやったことだ」
クレイは、匙を椀に戻した。
しばらく、何も言わなかった。
「役立たずじゃなかった」
声は、いつもの低さだった。誇るでもなく、確かめるでもない。言ったあと、クレイは一度だけ長く息を吐いた。
ただ長く握っていた札を、もう一枚裏返しただけだ。表には「役立たず」と書いてあった。七年、その一枚だけを握って生きてきた。
裏に別の字が書いてあることを、昨夜まで知らなかった。読んでも、クレイの背は伸びも縮みもしない。伸ばす理由も縮める理由も、もう無かった。
「や、別に」クレイは言った。「威張ることじゃない。ただ、勘定が合っただけだ」
「合わせたのは、あなた」ティナは言った。「七年、こぼさずに」
「こぼしたら、どうなってた」クレイは言った。
「わからない」ティナは言った。「でも、こぼさなかった。それは書ける」
ティナは、そこで初めて頁から目を上げた。鳶色の目が、クレイの左手をひたと見ている。
責める目でも、恐れる目でもない。まだ寸法のわからないものを、これから測ろうとする目だった。
「私は、それを書く役」ティナは言った。「あなたが忘れても、ここに残る」
忘れる、とクレイは思った。この七年、忘れていたのではない。数えていなかっただけだ。足す理由がなかった。誰も死なないのだから。
だがこの人が書いてくれるなら、次からは足せる。手の届いた命を、一つずつ。
外で、水の跳ねる音がした。井戸端で桶を満たす音だ。
戸口の布が鳴って、セルカが入ってきた。桶は外へ置いてきたらしく、手は空だった。顔が朝の冷えで赤い。前髪の先に、井戸水の滴が光っていた。
「起きてたんだ」セルカがクレイを見た。「ちゃんと粥食ってる。えらいじゃん」
「子供扱いするな」
「するよ。昨日まで紙みたいだったんだから」セルカは框に腰を下ろした。「顔の色、戻ってきたね」
ティナが、頁から目を上げずに言った。
「セルカ。井戸の水、冷たかった?」
「冷たいなんてもんじゃない。指が取れるかと思った」セルカは手をこすった。「あんたも汲みに行けば?」
「私は書く係」ティナは言った。「水は汲む係が汲む」
セルカは、クレイの向かいに胡座をかいた。膝が、クレイの膝にぶつかるほど近い。この女は距離の詰め方に遠慮がない。
昨夜も、差し出したクレイの手を下から受けて笑った女だ。
「あたしさ、昨日からずっと考えてた」セルカが言った。「あんたを追い出した連中、いまごろ何してんのかなって」
「さあ」クレイは言った。「考えたことも、ない」
「あたしは考えるよ。あんたが抜けて、あいつら誰が傷を止めんのって」
「止める必要があるほど、無茶はしない連中だ」
言いながら、少しだけ違和感がよぎった。無茶をしないのではない。無茶をしても、誰も死ななかっただけだ。
七年、そのからくりの上にあの連中は立っていた。からくりが抜けたいま、あの立ち方がどうなるか——クレイは、その先を考えるのをやめた。いまは遠い話だ。
「どうかな」セルカは鼻を鳴らした。「まあいい。あいつらのことより、あんたのことだ」
セルカは、指を一本立てた。
「ティナに聞いた。あんた、底まで勝手に注ぐ癖があるって」
「癖じゃない。手が動くだけだ」
「同じだよ。だから、あたしが数える」セルカは立てた指を振った。「あんたが減るたびに、あたしが数える。気づかないなら代わりに気づいてやる」
クレイは、その指を見た。数える、という言葉はいつも自分の側にあった。それを勘定するのが、この手の役目だった。
その役を、この女はいま横から取り上げようとしている。自分ではなく、自分の減りを数えると言う。数えられる側に回るのは、生まれて初めてだった。
「こそばゆいな」クレイは言った。
「我慢しな。あんたが七年ぶん黙ってたツケだよ」
セルカは八重歯を見せた。それから、急に真顔になった。膝に置いた手が、拳になっている。
「もう、ひとりで数えさせない」セルカは言った。「昨日、決めた」
「勝手に決めるな」
「決めた。あんたが減るの、あたしはもう見たくない」
クレイは、答えなかった。答えの代わりに、匙を椀へ置く音が小さく鳴った。
クレイは椀を空にして、土間へ置いた。左手の甲が、朝の冷えのなかでほのかに温い。
先日、井戸の子を掬った刹那には熱い針になったものが、いまは肌の下でただ眠っている。
「死なせるつもりはない」——七年、その一言を繰り返してきた。誓いのつもりが、昨夜あべこべだと知った。
だが、それでいい。今日からは口を先にする。決めてから、手を動かす。
クレイは、左手をゆっくり握った。
「今度は、決めてから動く」
しばらく、誰も何も言わなかった。竈の火が、ぱちりと爆ぜた。
「決めるには、寸法が要る」ティナが頁から目を上げた。「どこまでできて、どこで倒れるか。それを測れる場所へ行く」
「どこだよ、それ」セルカが言った。
「死がいちばん濃いところ」ティナは言った。ペンの先で、手帳の隅を叩く。「東に底の見えない迷宮がある。大迷宮アビスだ」
クレイは、東の窓のほうを見た。もやの向こうは、まだ何も見えない。だが、行き先ができた。
名前のついた手を、どこまで使えるのか。それを知らなければ、どう使うかも決められない。決めるには、まず測る。そういう順番だった。
「怖くないの」クレイは言った。
「怖いよ」セルカは言った。「けど、あんたひとりで行かせるほうが怖い」
クレイは、握っていた指をゆっくりほどいた。掌はいつもどおり軽い。昨日と同じ、軽さだ。
だが今日は、空ではなかった。甲の下に、湯のような温もりがひとつ沈んでいる。名がつき、行き先ができた。まだ底の知れないそれを、今日から確かめに行ける。
膝は、もう笑わなかった。戸口の外では、街道から流れてきたもやが四日ぶりに薄い。朝の光が、それをゆっくりほどいていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
前回、クレイは自分の力の正体にたどり着きました。今回は、その翌朝の話です。神回の直後は、本人を大きく変えてしまいたくなるものですが、クレイはそういう男ではありません。彼は叫ばないし、拳を握って誓い直したりもしない。ニコの脚を手当てして、粥を食べて、ただ勘定の桁がひとつ繰り上がったことを、静かに飲み込みます。
「役立たずじゃなかった」——このひとことを、誇るでも恨むでもなく、事実として言わせたかった。七年『役立たずだから追い出された』と信じてきた男が、その札を裏返す。裏には別の字が書いてある。それを読んでも、彼の背は伸びも縮みもしない。そのくらいの温度で書けたら、と思っていました。
ガイたちへの恨みは、まだ湧きません。見えなかっただけだ、と彼は言う。恨むより先に、彼はもう自分の手のひらの重さを測り直しはじめています。数える側だった彼が、セルカに「あたしが数える」と数えられる側へ回されるのも、今回のひそかな楽しみでした。
次回、その手のひらの寸法を測りに、三人は東の大迷宮アビスを見はじめます。どうか続けて見届けてやってください。




