巻き戻していたのは、俺だ
数えることだけは、昔から得意だった。
誰がいつ、どこを、どれだけ傷を負ったか。手当ての要る傷なら、一度触れれば忘れない。取り柄とも思っていなかった。息をするのと変わらないからだ。
その夜は、その息がうまく続かなかった。
井戸の子のことがあってから、二日がたっていた。膝はまだ笑うが、立てば戸口まで行ける。隣の間で、ニコが寝息を立てている。脚は繋がりかけ、熱も引いた。手の届いた傷だ。そこまでは、いつもの数え方で片づく。
片づかないのは、その先だった。
ここ数日、刃が誰かに入るたびに、誰も倒れなかった。セルカの首。トビの首。ヨナスの喉。セルカの脇腹。井戸の子。全部、覚えている。覚えているのに、どれも手当ての箱に入らない。触っていない。薬も使っていない。それなのに、忘れられない。
手当てもしていない傷を、なぜ手当てした傷と同じ重さで抱えているのか。
クレイは、暗がりで左手を持ち上げてみた。甲の痣は、見えない。見えないのに、そこにあるのは指でわかる。ここ数日、この手だけが、いつもと違う重さで残っている。
土間の暗がりに、小さな灯がひとつ点っていた。ティナが腰掛けで手帳を開いている。頁だけが、白く浮いて見えた。
「ティナさん」クレイは天井へ言った。
「寝てて」ティナは頁から目を上げない。
「その手帳」クレイは言った。「見せてくれないか」
ペンの音が、止まった。
ティナは、すぐには渡さなかった。灯へ頁を少し傾け、それから閉じる。閉じてから、こちらを見た。
「自分で、来たのね」ティナは言った。
「なんの話だ。見せてくれと言っただけだ」
「なんでもない」ティナは腰掛けを立った。「これはあなたのことが書いてある。渡すなら今かもしれない」
ティナは手帳を、クレイの膝へ置いた。表紙が、ひやりと冷たい。
クレイは頁をめくった。日付ごとに、短い行が並んでいる。ティナの字は小さくて、角ばっていた。
初日。傷が無い。二日目。傷が無い。血が無い。三日目。襟が乾いている。地に跡が無い。四日目。塞ぐべき傷が、無い。
四日ぶん、「無い」ばかりが並んでいた。
「これ、ぜんぶ俺の周りで起きたのか」クレイは言った。
「あなたの、手の届く範囲で」ティナは言った。「一度も、外れてない」
最後の頁に、四角い枠がひとつ、線だけで引いてあった。中は空だ。名前を入れる場所だと、すぐにわかった。
「そこは、まだ書けてない」ティナが言った。「四日数えて書けたのはそこまで。名前だけが埋まらない」
「名前」
「あなたのしてることの、名前」ティナは言った。「この大陸に、その言葉が無いの」
クレイは空の枠を見ていた。見ていても、埋まらない。
「ひとつ、聞かせて」ティナが言った。「四日前に老婆から写した教え。あなたにも要る気がする」
ティナは頁を戻し、低く読んだ。
「命は神から借りもの。返すのは一度きり。返した命は、二度と手に戻らぬ」ティナは息を継いだ。「死は巻き戻せぬ一線」
巻き戻せぬ。その一語のところで、左手の甲がひとりでに疼いた。
疼きは、痛みではなかった。四日前、村の男の首に刃が入った刹那に指へ来た、あの感触に似ていた。誰かの首すじの熱が、手のひらへ刷り込まれる。刷り込まれて、あとには何も残らない。あれを、ここ数日で何度も味わった。味わって、そのたびに立ちくらみだと流した。
巻き戻せぬ、の逆。巻き戻す。
——巻き戻す。
その四文字が、手のひらの感触にすとんと嵌まった。
嵌まったとたん、数える癖が逆回しに動きだした。
いつもは、手当ての要る傷を数える。その夜は違った。手当てのいらなかった無事のほうを、数えはじめていた。
霧の谷。一年前。ガイの喉が魔狼に食い破られかけて、次の刹那には塞がっていた。見間違いだと思った。運がいい、で済ませた。——数に、入る。
北の渓谷。三年前。レフが崖から落ちて、抱え上げたとき、指の下で脈が一度切れた。切れて、また打った。あのときも、間に合ったと思った。——数に、入る。
名も覚えていない、どこかの戦場。前衛の背に矢が三本立って、抜いたら傷がひとつも無かった。「運がいい」とだけ言った。皆も笑った。——数に、入る。
数えるほどに、指の先が冷えていった。触れれば忘れない手が、忘れずにいたのは傷ではなかった。塞いだ痕でもない。誰かが冷たくなりかけた、その一歩手前の温度だった。何千回ぶんの、消える寸前のぬくもりが、今ごろまとめて手のひらへ戻ってくる。
「運がいい」「刃が逸れた」「もやで赤く見えた」——七年、そう言い続けてきた。場所を変え相手を変え、同じ言葉を口癖みたいに。ぜんぶ、ひとつのことに掛けた蓋だった。
入れはじめると、止まらなかった。
勇者の隣に、七年いた。剣も持たず、後ろで傷だけを見ていた。前衛がどれだけ無茶をしても、誰ひとり冷たくならなかった。皆はそれを、ガイたちが強いからだと言った。クレイも、そう信じていた。
違った。
あの七年、致命の間合いが生まれるたびに、この手が動いていた。動いた覚えのないまま、動いていた。
数えれば、四千を超えた。四千三百。その数を、ずっと持っていた。持っているのに、一度も足したことがなかった。足す理由がなかったからだ。誰も、死んでいないのだから。
クレイは手帳を閉じた。空の枠が、表紙の下に隠れる。
「ティナさん」クレイは言った。声は、いつもと同じ低さだった。「枠、埋まったよ」
ティナが、灯のこちらで動きを止めた。
「……ずっと、俺が巻き戻してた」クレイは言った。「誰にも、気づかれないまま」
「いつから起きてたか、わかる?」ティナが低く言った。
「七年前からだ」クレイは言った。「勇者の隣に立った、その日から」
ティナは何か言いかけて、やめた。それから、短く言った。
「そう」
言ってしまえば、それだけの一言だった。ここ数日、皆が言い合っていたのは、これだったのか。
自分でも、驚くほど静かだった。驚きは、別のところから来た。四千三百回、この手が死をなかったことにしてきた。その一度も、誰の目にも映らなかった。クレイ自身の目にも。役立たずと言われて隣を離れた男の手が、その隣の全員を、七年ぶん生かしていた。
「四千三百」ティナが言った。「その数を、あなたが持ってた」
「足す理由が、なかっただけだ」クレイは言った。「誰も死なないんだから、数える意味がない」
「今夜、初めて足したのね」ティナが言った。
「ああ」クレイは言った。「四千三百。ひとつも、こぼしてない」
「あの日、俺が倒れたのは」クレイは続けた。
「七回、数えた」ティナが言った。「刃が入るたび、あなたの息が浅くなった。七回で底を打った」
「使えば、減るんだな」クレイは言った。「その分だけ、俺が」
「うん」ティナは言った。
七年、この手はひとりで数えていた。数えているとも知らずに。隣にいた誰も、その帳を覗いたことがない。
左手の甲が、まだ薄く疼いている。老婆が床の外のものと呼んで後ずさった、あの痣だ。禁忌の側のもの、とティナは言った。
なぜ、それが自分の手にあるのか。いつからか。誰が置いたのか。——そこは、数えても出てこなかった。生まれつきそこにあった、としか言えない。手当ての箱にも、無事の数にも入らない、たったひとつの空白だった。
死なせるつもりはない。それだけは昔から決めてる。——そう口にするたび、決意のつもりでいた。違った。決めるより先に、手が済ませていた。誓いのつもりだった言葉は、とうに終わったことを、口が後から追いかけて鳴らしていただけだ。
セルカは、藁の上で目を開けていた。
ずっと起きていた。クレイが夜通し寝返りも打たず、天井を見ているのがわかっていたからだ。見てる、と昨日こいつに言った。だから、見ていた。
ティナとクレイの声は低くて、半分は聞き取れなかった。それでも巻き戻す、という一語だけははっきり届いた。四千三百、という数も。
セルカは起き上がった。剣は壁に立てかけたままにした。
「その、四千三百」セルカは言った。声が、自分でも掠れた。「あたしも、入ってんだよね。何回も」
クレイが、こちらを見た。灯が遠くて、顔は暗い。
「……お前のは、数えてない」クレイは言った。
「嘘。あんた全部覚えてるって言ったろ。あたしのだけ抜かせるわけないだろ」
「セルカのは、数えたくない」クレイは言った。
セルカの喉の奥が、鳴った。
「あたし、無茶ばっかしてきた」セルカは言った。早口だった。「前に出て暴れてそれで生きてると思ってた。腕がいいからだって。ずっとそう思い込んでた」
「セルカ」
「違ったんじゃん。あたしが無茶するたびにあんたが減ってたんじゃん。腕なんか関係なかった」
「それは」
「あの脇腹のときも。首のときも」セルカの声が湿った。「あたしが平気な顔してた裏で、あんたが一回ぶん死にかけてたってことだろ」
「や、別に」クレイは言った。「勝手に、手が動いただけだ。お前のせいじゃない」
「勝手にって、言うなよ」セルカの声が裏返った。「勝手にあんたが減って、あたしが助かってたなら。あたしはどうすりゃいいんだよ。あんたが黙って減るのをあたし知らなかったんだよ」
「あの祠でさ」セルカは言った。「腹の底が抜けて父さんの背中まで見えた。あれ、死んでたんだろ」
クレイは、少し黙った。
「……ああ」クレイは言った。「一回、止まってた。お前の脈」
「それを、あんたが戻したんだ」
「勝手にな」クレイは言った。
セルカは、手のひらの付け根で目を強くこすった。こすっても、追いつかなかった。
「あんた、七年もそれをひとりでやってたのか」セルカは言った。「誰にも気づかれないで。自分でも気づかないで。ずっと、あんた一人で抱えてたんじゃん」
「……まあ、そうなるな。手の届く先しか見てなかった」
「馬鹿じゃないの」セルカは言った。涙が、声を割っていた。「そんなの、寂しいに決まってんだろ」
クレイは、答えなかった。
寂しい、という言葉を、これまで自分の手に当てたことがなかった。当ててみると、妙にしっくりくる。しっくりくるのが、少し嫌だった。喉の奥が、一度すぼまった。
「もう、ひとりでやらせない」セルカは言った。「あんたが減るなら、あたしが前で減るぶんを少なくする。刃の一本もあんたのとこまで行かせない」
「セルカ。それは」
「わかってる。あたしの剣、影に当たんないんだろ。ティナに聞いた」セルカは言った。「それでも、立つ。当たらなくてもあんたの手当てが減るように立つ」
「……ありがとう」クレイは言った。礼を言うのは、めったにないことだった。
「気持ち悪い。あんたが礼とか」セルカが洟をすすった。「でも、もう一回言って」
「ありがとう」
ティナは、灯のそばで手帳を開いていた。だが、書いていない。ペンを持ったまま、二人を見ている。
「書かないの?」セルカが言った。
「あとで書く」ティナは言った。「今は、こっちを見てたい」
ティナが、空の枠へペンを下ろした。短い言葉を書く。セルカの場所からは、逆さで読めなかった。
「なんて、書いたの」セルカは訊いた。
ティナは、枠を灯へ向けた。
「蘇生」ティナは言った。「大陸にない字をいま二つ並べた。死んだものを生きてたことにする。あなたたちが今日まで名前のないままくぐってきたもの」
四日、空だった枠に、二文字が入っていた。ティナの字にしては、めずらしく線が震えている。書き終えても、ティナはすぐにペンを離さなかった。
「なんで、あたしらに黙ってたの」セルカが言った。「四日も、気づいてたのに」
「私が名づければ、私の名前になる」ティナは言った。「これはこの人の力だから。この人が自分で掴むまで待ってた」
「意地悪だね」
「うん」ティナは、少しだけ笑った。「でも、待ってよかった」
「蘇生」クレイは、その二文字を口の中で転がした。「大層な名前だ」
「大層なことを、してる」ティナは言った。
「あたしの命も、その二文字に入ってんだ」セルカは言った。「なんか、悪くない」
クレイは、自分の左手の甲を灯にかざしていた。薄い痣が、そこにある。弱い光の下で、細い線が幾重にも絡んで掌へ回り込んでいるのが、見えるようで見えきらない。さっき疼いたものは、もう静かだった。
「名前が付いても」クレイは言った。「これがどこから来たのかは、わからないままだ」
「うん」ティナは言った。「そこは、まだ空けておく」
「いつか、埋まるのか」
「埋める」ティナは言った。「あなたが、また自分の足で来たら」
セルカが、クレイの左手を下から掌で受けた。かざしていた手が、セルカの掌に載る。相変わらず、軽い。
「軽いな、あんたの手」セルカは言った。「こんなので、七年ぶん誰かの死を止めてきたのかよ」
「止めてた、ってのも違う」クレイは言った。「勝手に、動いてただけだ」
「なら、これからは」セルカは言った。クレイの手を、掌でひとつ押し上げた。「あんたが勝手に減るとこ、あたしがちゃんと見てる。ひとりで減らせない」
クレイは、その手をすぐには引かなかった。や、別に、も言わなかった。
窓の隙間が、白みはじめていた。四日ぶりに、もやの薄い朝が来ようとしている。数えることだけが取り柄だった男が、その朝、初めて数え終えたものの重さを手のひらで量っている。
どう使うかは、まだわからない。だが、選べる側に立った。その手のひらが、今夜だけ、自分のものの重さをしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ずっと「無い」を数えてきたティナ、体で証してきたセルカ、そして自分のこととは思わずに流してきたクレイ。この三人が別々に持っていた欠片が、この話で一点に集まります。集めたのは、ほかならぬクレイ自身でした。名前を渡してもらうのではなく、老婆の教えの「巻き戻せぬ」を裏返して、自分の手のひらの感触に嵌める——その最後の一歩は、彼が自分の足で踏むと決めていました。
いちばん書きたかったのは、到達しても彼が叫ばないことでした。「枠、埋まったよ」と手帳を閉じて、いつもと同じ低い声で言う。奇跡でなく自分の力だった、という反転が、四千三百回ぶんの孤独と、底を打つ代償と、床の外のものと呼ばれた痣と、同じ重さで一度に来る。だから彼の代わりに、セルカが「寂しいに決まってんだろ」と泣いてくれました。直情の彼女にしか言えない一言だと思います。
力の名前は付きました。けれど、その痣がどこから来たのかは、本人にもまだわかりません。次に彼が自分の足でそこへ着くまで、枠はひとつ空けたままにしておきます。どうか、その道行きを見届けてやってください。




