左手の紋
目を開けると、知らない梁が見えた。
煤で黒い。村の家の天井だ。いつ運ばれたのか、クレイは覚えていなかった。
左手の甲が、痒い。奥のほうで、糸を一本引かれるような、遠い痒みだった。
掻こうとして、指が動かなかった。腕が、水を吸った縄みたいに重い。
「起きた」
声がした。ティナだ。土間の腰掛けに座り、膝の上で手帳を開いている。
「……ここ、どこだ」クレイは訊いた。
「北の村。あの子の家」ティナは言った。「あなた、丸一日眠ってた」
「丸一日」
「担いだのはセルカ。軽すぎるって、村までずっと怒ってた」
クレイは天井を見たまま、少し考えた。丸一日の記憶が、どこにもない。荷を返す道を歩いていて、そこから先が抜けている。
「ニコは」クレイは訊いた。
「熱、下がった。脚も繋がりかけてる。あなたが寝てるあいだに、粥を食べた」
「そうか」
「あの子、あなたのこと訊いてた」ティナは言った。「起きたら礼を言うって」
「いい。脚が繋がりゃ、それでいい」
傷の話になると、舌が回った。それ以外は、口の中が乾いている。
部屋の隅で、ニコが薄い布にくるまって眠っている。胸が、ゆっくり上下していた。息のあいだが、間延びしていない。這い上がったあとの寝息だ。それを確かめて、クレイの肩から力が抜けた。
「クレイ」ティナが言った。「左手、痒くない?」
「……左手」
クレイは自分の甲を見た。薄い痣が一つ、昔からそこにある。
「まあ、たまに。昔からだ」クレイは言った。「生まれつきの痣だよ。掻くと痒い。それだけだ」
「昔から」ティナが繰り返した。
「ああ」
ティナは手帳に何か書いた。書いて、また閉じた。その閉じ方が、いつもより遅い。
戸口の布が跳ね上がって、セルカが桶を提げて入ってきた。水がふちで揺れている。
「起きたの!」セルカが桶を置いた。「まる一日だよ。心臓に悪い」
「……や、別に。平気だ」
「平気なわけあるか。抱いたとき、紙みたいだったんだから」セルカが早口で言った。「軽すぎて、腹が立った」
「悪かった」
「謝るとこ、そこじゃないし」
セルカは水を汲みながら、まだ膨れっ面だった。
「村の人ら、あんたのこと遠巻きにしてさ」セルカは言った。「傷もないのに倒れた男だって」
「そう言われても」
「あたしは、平気だって言い返しといた」
「……悪いな」
「だから、謝んなって」
ティナが、そのやり取りを横目で見ていた。ペンは、動いていない。
「ティナも、なんか言えば」セルカが言った。
「今は、聞いてる」ティナは言った。「あなたたちのを」
「なにそれ」
クレイは肘をついて、体を起こした。目の奥で、砂を噛むような音がした。
「寝てて」ティナが言った。
「水を、飲みたい」クレイは言った。「外の風も。少し」
「もう」セルカが桶から椀に水を汲んだ。「これ飲んで、寝てなよ」
クレイは椀を受け取り、半分だけ飲んだ。それから壁に手をついて、立った。膝が笑ったが、倒れはしなかった。
「戸口まで。それだけだ」
三歩で、戸口についた。框を掴んで、外を見る。
秋の低い昼の光が、村の狭い土間庭に落ちている。石は、まだ朝の冷えを残していた。戸口から十歩ばかりの井戸端に、小さい子がいた。三つか四つだろう。母親が桶を引き上げている。子は縁に両手をかけて、暗い底をのぞき込んでいた。
首の後ろが、ちり、と鳴った。
「危ない」クレイは言った。声が届く距離ではない。
子の手が、濡れた石の上で滑った。体が前へ傾ぐ。井戸の口が、その頭を飲もうと開いている。母親の桶が、綱を鳴らして落ちた。
クレイは手を伸ばした。届かない。届くはずのない距離だった。
左手の甲で、糸がぴんと張った。奥の痒みが束になって、熱い針の芯になる。その芯が、すっと引き抜かれた。抜けたあと、掌がからっぽになった。
井戸端で、母親が悲鳴を上げた。
だが子は、縁に尻をついていた。乾いた石の上に。落ちてなどいない、という顔で、母親をきょとんと見上げている。頭にも、手にも、濡れた跡ひとつない。
母親が子を抱きすくめた。何が起きたのか、その顔にもわかっていないようだった。子の背を撫でながら、母親は井戸の底と我が子を、何度も見比べている。
首の後ろの、ちりつきが消えていた。弱っていた気配が、糸を切ったようになくなっている。クレイはそれを、いつものように受け取った。深くは、考えなかった。
クレイは框を掴んだまま、動けなくなった。視界の縁が、白く溶けていく。
立ちくらみだ、と思った。丸一日寝て、いきなり立った。それだけのことだ。左手の甲の痒みも、昔からの痣が引きつっただけだろう。掻けば済む。
掻こうとした指が、また動かなかった。
「クレイ」
ティナの声が、すぐ後ろにあった。低い。
「今の、見えた」ティナは言った。
「なにが」クレイは言った。「子が、縁に引っかかったんだろ。落ちずに済んだ。運がいい」
「運」ティナは繰り返した。それきり、答えなかった。クレイの左手を見ていた。じっと。
クレイは、自分の手を見下ろした。甲に、なんの変哲もない。薄い痣が一つ、昔からそこにあるだけだ。
「痣だよ」クレイは言った。「や、別に。珍しくもない」
膝から力が抜けた。クレイは壁を背に、ずるずると座り込んだ。左手の痒みは、もう引きかけていた。
ティナは、たった今の一部始終を頭の中でなぞり直した。
子が井戸へ落ちた。次の息で、子は縁に座っていた。乾いた石の上に。四日前のヨナスと同じだ。セルカの脇腹と同じ。傷ごと、出来事ごと、無かった側へ回されている。
だが今日は、初めて別のものを見た。
クレイが手を伸ばした刹那、あの男の左手の甲に、筋が浮いた。昨日は白いもやの下で、浮いて沈んだだけの薄い筋だった。今日は違う。昼の光の差す戸口で、それははっきりと形を持った。
一本の筋ではなかった。細い線が幾重にも絡んで、掌へ回り込む一つの形をなしている。判じ物の印のような。あるいは、古い術式の。
斥候の修業で、一度だけ似たものを見た。苔むした石積みに彫られた、古い術者の印。ティナはその名を探して、止めた。まだ持っていない。ただの痣ではない。掻いて済むものでもない。今日わかったのは、そこまでだ。
子が落ちかけた、その時に筋は浮いた。子が縁に座った時には、もう沈みかけていた。起きたことと、筋の浮き沈みが、同じ拍で動いていた。
偶然ではない。だが口には出さない。まだ一度きりの観察だ。
昨日、この手に触れたとき、そこだけ熱かった。今日は光の下で、その熱が線になって現れた。触れた熱と、浮いた線。同じものの、表と裏だ。ティナはそう継いだ。
奥で、息を呑む音がした。
ニコの枕元にいた村の老婆が、クレイの手を見ていた。皺の中の目が、見開かれている。
「その手……」老婆の声が掠れた。「しまいなさい。見せるでない」
「知ってるの」ティナは膝を向けた。「この印を」
「知らん」老婆は首を振った。速く、何度も。「知らんよ。だが、そういうものは床の外のものだ」
「床の外」ティナは繰り返した。
「誰に、聞いたの」ティナは膝を進めた。
「婆さまだよ。わしの、そのまた婆さま」老婆の声が細った。「見たら目を伏せろ。そう言い残して、逝った」
「触れちゃならん。口にしちゃならん」老婆は胸の前で手を組んだ。「アルマ様。アルマ様」
老婆は唱えながら、じりじりと壁際へ下がった。ニコの枕元から離れたくないはずの体を、それでも遠ざける。
「なにこれ。なんで婆さん、あんな怖がるの」
戸口から、セルカが戻ってきていた。桶を提げたまま、老婆とクレイを見比べている。
「セルカ」ティナは帯から手帳を抜いた。「二日前に、写したでしょ。あの教え」
「死んだら戻らないってやつ?」
「そう」ティナは頁を指でたどった。「命は神から借りもの。返すのは一度きり。返した命は、二度と手に戻らぬ。死は巻き戻せぬ一線」
「知ってるよ。それが、なんなの」
「井戸の子は、落ちた」ティナは言った。「落ちて、無かったことになった。教えがいちばん固く禁じてることだよ」
セルカが、口を半分開けたまま止まった。
「じゃあ、クレイが……禁を破ったってこと?」
「わからない」ティナは言った。「わかったのは一つだけ。あの印が、その一線と同じ側に立ってる」
ティナは、井戸端をもう一度見た。母親に抱かれた子は、掠り傷ひとつない。落ちた事実ごと、無かったことになっている。
「これは治癒じゃない」ティナは、低く言った。前に自分で書いた一行の、続きだった。「治癒じゃない、の先。あの印は、禁じられた側のものだ」
誰が刻んだのか。いつからそこにあるのか。わからない。わからないものに名を貸せば、次の一つがその名でしか見えなくなる。書いたのは、一行だけだ。
——あの印、禁忌の側に符合。
手帳に打った、名前を入れる空の四角。その隣に、今の一行を置いた。四角の中は、まだ空のままだ。符合は、名前ではない。符合が指す先に、名前がある。今日は、指す向きが一つ増えた。それだけだった。
「禁じられた側って、なんだよ」
セルカの声が尖った。桶を床に置く音が、荒い。
「こいつが、何したっての」セルカは言った。「井戸の子、助けたんだろ。それの、どこが禁忌なんだ」
「まだ、わからない」ティナは言った。
「わかんないなら、禁忌とか言うなよ」
セルカは、クレイと老婆のあいだに体を割り込ませた。座り込んだクレイを、背中で庇うように。
「あたしは、こいつに何回拾われたか知ってる」セルカは老婆へ言った。「禁忌だろうがなんだろうが。こいつがいるから、あたしは今ここにいる」
「婆さんも、ニコが戻って手ぇ合わせたろ」セルカは言った。「戻ったのは、喜ぶくせにさ」
「あれは、アルマ様の恵みだ」老婆は目を伏せた。「これは、違う」
「なにが違うんだよ」
「恵みと禁忌の、どこが違うんだよ」セルカが老婆へ詰め寄った。「戻ったのは、おんなじじゃんか」
老婆は、もう答えなかった。組んだ手の中で、まだアルマの名を唱えている。
セルカが、くるりと向きを変えた。老婆へ向けていた尖りが、そのままクレイの前で膝を折る。
「あんた、さっき井戸の子を助けたとき」セルカは言った。「また、白くなった」
「立ちくらみだ」クレイは言った。
「昨日も、そう言った」セルカの声が固い。「そう言って、倒れたんだよ」
「今日は、倒れてない」
「倒れてから言うなっての、そういうのは」
「見てるからな。ずっと」セルカは言った。「あんたの顔、昨日から白いままだ」
「見なくていい」
「見るよ。あんたが自分を見ないんだから」
「……見て、どうする」
「知らない。けど、見てる」
クレイは答えなかった。壁にもたれた背が、少しだけ滑る。
「ねえ」セルカは言った。「痣でも印でも、なんでもいい。それがあんたを減らすなら、あたしは嫌だ」
「減る?」クレイは眉を寄せた。「なにが」
「ティナ、言ってやってよ」セルカが振り向いた。「あたしより、あんたのほうがわかってんだろ」
ティナは、首を横に振った。まだ渡すな、と伝える横の振り方だった。
「今は、まだ」ティナは言った。「渡すには、早い」
セルカは唇を噛んで、それ以上は言わなかった。
クレイが、二人を見上げていた。何を言い合っているのか、わからない顔だった。
「……なあ」クレイは言った。「痣ひとつで、そんなに騒ぐことか」
「痣ひとつ、ね」セルカが低く言った。
「痣じゃないの」ティナは言った。
「痣だよ。子供のころからある。掻くと、たまに痒い」クレイは言った。「そんな大層なもんじゃない」
ティナは、それ以上は言わなかった。今日わかったのは、あの印が禁忌の側に符合する、そこまでだ。
クレイは、井戸端の子をしばらく見ていた。母親に抱かれて、もう泣きやんでいる。
それから自分の左手を、ゆっくり開いて、閉じた。甲の痣を、親指の腹でひとなでする。指の腹に、痛みも熱もない。ただの乾いた皮膚だった。
「死なせやしない」クレイは、その痣へ小さく言った。「昔から、それだけは決めてる」
昔から、と男は言った。ティナは、その二文字を手帳の隅に書いた。痣も、昔から。痒みも、昔から。この男が数えきれない誰かを拾ってきたのも、たぶん、昔から。
そこで、ペンを止めた。名前は、この男が自分の足で来るまで、書かずに待つ。
クレイの左手の甲で、筋はもう肌の下へ沈んでいた。見ようとしても、ただの薄い痣だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
前回、倒れたクレイの左手に浮いて消えた「薄い筋」。今回はそれが、昼の光の下ではっきりと形を持ちます。ティナはそれに名を与えられぬまま観察し、村の老婆が「床の外のもの」と後ずさる。千年唱えられてきた「死は巻き戻せぬ一線」が禁じた、たった一つのこと——それと、あの男の手の紋が、同じ拍で動いた。符合、というところまでを書きました。
紋がどこから来たのか、誰が刻んだのかは、まだ誰にもわかりません。ティナも書きません。彼女は「飛ばすな」を流儀にしている人です。わかったふりで一行足すより、空けておくほうを選ぶ。その慎重さが、この物語の背骨だと思っています。
そしてクレイは、相変わらずです。井戸の子を「運がいい」で片づけ、自分の手を「昔からの痣だ」で流す。掻けば痒い、それだけのもの。名前は、もう一歩先にあります。その一歩を、次回、彼は自分の足で踏みます。どうか見届けてやってください。




