代償
朝のもやは、昨日より白く重かった。
クレイは荷袋に手をかけ、宙で止めた。首の後ろが鳴っている。ひとつではない。いくつも、いっぺんに。
「来る」クレイは言った。「今日は数が違う」
「数って」セルカが荷袋を肩へ担ぎ上げた。「何匹よ」
「わからない。ただ多い」
祠の荷を村へ返す。今朝そう決めたばかりだった。荷を運ぶために、村の男が三人ついてきている。
「荷を担ぐと、あれは動く」ティナが低く言った。「トビがそう言ってた。今日は担ぐ手が多い」
「多けりゃ早く運べる」セルカが言った。
「早く運べる分、向こうも一度に来る」
言い終わらないうちに、もやが裂けた。
影が、列ではなく面で出てきた。数える暇はない。クレイの首の後ろが、いっぺんに焼けた。
「組み方が違う」ティナが叫んだ。「こんな出方、初めて見た」
「こんなに来たことねえ」村の男が声を上げた。「ひっ……こんなに」
「固まってて!」セルカが二人を背へ回した。「あたしの後ろ、離れないで」
「セルカ」クレイは言った。「右。村の人の後ろ」
「見えてる」セルカが叫び返した。
セルカが地を蹴った。剣は空を斬るが、影は剣先を嫌って退いた。
村の男のひとりが、荷を取り落とした。曲がった刃が、その首の後ろへ吸い込まれていく。
クレイは手を伸ばした。届く距離ではない。
息を吸った。吸ったのに、吸った気がしない。胸の底が、ひとまわり浅くなる。
刃が、男の首へ入った。入って——消えた。男は荷の上へ尻餅をついたが、首には裂け目も血の筋もない。
「立てるか」クレイは言った。声が、少しかすれた。
「い、今……刃が」男が震える声で言った。「首に確かに入った」
「入ってない。掠っただけだ」クレイは言った。「荷の陰にいろ」
男は自分の首を何度も撫でながら、荷の陰へ這って逃げた。
別の男が、腕の外側を刃の先で裂かれていた。こっちは血が出ている。浅いが、本物の傷だ。
クレイは膝をついた。ポーチから布を出す。癒し草を噛みくだき、傷口へじかに当てた。
「押さえてろ。じきに止まる」
「あんた、治療師か」男が呻いた。
「まあ、そんなとこだ」
「大した腕だな。もう血が引いた」
「や、癒し草が効いただけだ」
「あんた、顔が真っ白だぞ」男が言った。
「平気だ。押さえてろ」
布を巻く指が、ひと拍だけ遅れた。四日、眠っていない。鈍って当たり前だと、手のほうへ言い聞かせる。
立ち上がると、視界がゆっくり傾いだ。船の上にいるみたいだった。
「クレイ、顔!」セルカが振り向かずに言った。「白いよ、すごく」
「や、平気だ」
平気ではなかったが、ほかに言いようがない。
「クレイ、下がって!」セルカの声が飛んだ。
顔を上げると、セルカの脇腹へ刃が入るところだった。刃はそのまま通り抜ける。裂けたはずの脇腹に、傷はない。
クレイは荷の陰へ手をついた。もやが、白すぎる。
なんだか、熱っぽい。数えきれないほど手を当てた。息を整えれば戻る。そう思って、また立った。
影は、まだ引かない。荷を担いだ影が、もやの奥で列を作りはじめていた。残りが、村の男たちへ刃を向ける。
「まだ来る!」セルカが叫んだ。「クレイ、村の人まとめて! 一か所に!」
「わかってる」
言ったつもりだが、声になったかは自信がなかった。
クレイはそちらへ体を向けた。向けただけで、目の奥で砂を噛むような音がした。もやの白さが、視界の縁から溶けてくる。
刃が入るたび、誰も倒れない。そのたびに、クレイの中から何かがひとすくいずつ減っていく。汲めば減る井戸みたいに。だがクレイは、井戸のことなど考えない。ただ、ひどく疲れた、とだけ思った。手当てのしすぎだ、と。
「クレイ!」セルカが呼んだ。声が、遠かった。
立っているつもりだった。膝の裏が、糸を切られたように落ちる。
地面が、思ったより早く上がってきた。頬に、朝の土の冷たさが当たる。
「……死なせる、つもりは、ない」
声が、最後まで続かない。言い切れなかったのは、初めてだった。
左手の甲が、なぜだか熱かった。誰かの首すじの感触が、指の先にまだ残っている気がした。
そこで、途切れた。
セルカは、影の面の前に立っていた。
剣は、今日も当たらない。霧を殴る手応えだけが腕に返る。それでも足は退かなかった。後ろにクレイと村の男たちがいる。あたしが空ければ、そこが開く。
戦っているあいだ、セルカの口は勝手に閉じる。言葉が痩せて、短い息だけになる。
その口が、ひとりでに開いた。
「クレイ?」
返事がない。おかしい。あいつはいつも、傷の話だけは返事が早いのに。
振り向いた。
クレイが、膝から崩れるところだった。
「ちょっと——」
セルカは剣を放り出した。刃が土に跳ねて、乾いた音を立てる。影のことなど、頭から飛んだ。二歩で戻って、落ちていく体を抱き止める。
腕の中が、ぞっとするほど軽い。昨日ニコを背負っていた背中とは、同じ体と思えなかった。抱えたとたん、背すじを冷たいものが走った。
「クレイ。おい。目、開けて」
返事はない。
「起きろよ。傷の話なら返事が早いだろ。ほら、あたし今どこか斬られた? 答えてみせろって」
顔が白い。唇に、色がない。息はある。浅いが、ある。なのに、どこにも傷がなかった。
「なんでよ」セルカの声が裏返った。「前に出てたのはあたしだよ。刃はぜんぶあたしが受けてた」
受けて、なんともなかった。いつものように。なのに、後ろで丸腰のこいつが落ちている。順番が、まるで逆だった。
もやの奥で、影が荷を担いで列になっていた。もう、こっちへ刃を向けてこない。奪う物を得て、北へ引いていく。
「待てよ」セルカは影の背へ吼えた。「なんであんたら、こいつだけ置いてくの」
答えるものはいない。荷を担いだ影が四体、塩と干し魚の袋を背に、足音も立てず北へ列を作る。残りはその後ろへ吸い込まれ、白いもやへ溶けていった。
村の男が三人、荷の陰から這い出てきた。誰も、どこも斬られていない。傷ひとつない体で、倒れた男を遠巻きに見ている。
「おれたちは、かすり傷ひとつねえ」男の声が震えた。「なのに落ちたのは、あの人だけだ」
「あの人が、身代わりになったのか」別の男が呟いた。
「治療師だと言ってた。おれの首に刃が入ったのに、なんともなかった」最初の男が言った。「あれは、この人がやったのか」
「北へ、荷だけ持って行きやがる」三人目が遠ざかる列を見た。「おれたちには目もくれねえ」
「違う。あんたら下がってて」セルカは短く言った。「この人を、村まで運ぶ」
「ティナ!」セルカは叫んだ。「ティナ来て。クレイが、クレイが倒れた」
ティナは、走って戻った。
セルカの腕の中で、クレイが目を閉じていた。ティナは膝をつき、その体を目で走査する。首。肩。脇腹。どこも斬られていない。倒れる理由が、体のどこにもなかった。
「斬られてない」セルカが言った。「一回も。あたしが見てた」
「わかってる」ティナは言った。
「じゃあ、病気? 毒?」
「毒なら、村の人も倒れてる」ティナは言った。「倒れたのは、この男だけ」
「この男だけ」セルカが繰り返した。「傷を負うのはあたしで、痛い思いをするのもあたし。なのに削れていくのはこいつなんだ」
ティナは、その言葉を書き留めたくなった。だが今は、両手が塞がっていた。
声の低さ。顔の白さ。落とした匙。四日分の目盛りは、どれも深くなっていた。昨日は九つぶんの白さ。少しずつ下りてきたものが、今日、底を打った。
斬られて倒れたのではない。斬られていないのに、倒れた。
ティナの目が、たった今の戦いを巻き戻した。刃が入るたび、誰も倒れなかった。そのたびに、クレイの息がひとつずつ浅くなっていた。順に。狂いなく。
「これは、ただの消耗じゃない」ティナは言った。
断定ではない。まだ、しない。だが観察は、もう一方向しか指していない。傷を無かったことにするたび、この男は自分の中から何かを差し出している。差し出しすぎて、今、空になった。
「起きるよね。こいつ」セルカが言った。「寝てるだけだよね」
ティナはクレイの手首へ指を当て、それから首すじへ移した。
「息はある。脈もある」ティナは言った。「落ちてはいない」
「脈は、ちゃんと打ってる?」
「打ってる。浅いけど」ティナは言った。
「じゃあ、なんで起きないの」
「わからない。でも斬られて倒れる男なら、ここまで来なかった」
「ねえ、ティナ」セルカが言った。「あんたさっきから変な顔してる。なんかわかってるんでしょ」
「わかってない。数えてるだけ」
「数えるって、何を」
「今日、刃が入った回数」ティナは言った。「私が見えたぶんで、七回」
「うん。で、七回ともなんともなかった。いつものやつ」
「その七回に合わせて」ティナは言った。「クレイの息が、七回ぶん浅くなった」
セルカが、口をつぐんだ。
「七回ぶん、こいつが払ったってこと」セルカが低く言った。
「そう見える」ティナは言った。
「傷が無くなるたびに、この男が一回ぶん減る」ティナは言った。「順に。狂いもなく」
「減るって、何が」
「わからない。でも、減ってる」ティナは言った。「今日は七回で、底を打った」
「じゃあ、止めなよ」セルカの声が尖った。「こいつが減るなら、止めればいいじゃん」
「本人に、してる自覚がない」ティナは言った。「やめろと言っても、この男は何をやめればいいか知らない」
「自覚がないって、どういうことよ」セルカが言った。「自分の体だろ」
「自分の体でも、見えないものはある」ティナは言った。「この男には、差し出している手が見えていない」
セルカが、抱えた体を少し揺すった。返事はない。
「あたしが刃を受けなきゃ、こいつは減らなかったの」
「それも違う」ティナは言った。「あなたが受けなくても村の人が受けた。今日はみんなが的だった」
「じゃあ、あたしはどうすりゃよかったのさ」
ティナは、セルカの顔を一瞬だけ見た。それから目を伏せた。答えなかった。問いのほうが、まだ正しい形をしていなかった。
クレイの左手が、地面へ投げ出されていた。
ティナの目が、そこで止まる。手の甲が——ひとつだけ、色が違った。もやの白い光の下で、薄い筋のようなものが浮いて見える。傷ではない。汗の跡でもない。
ティナは、指を止めた。顔を寄せる。筋は、もう肌の下へ引いていくところだった。指の先で、そっと触れる。触れた場所だけ、湯を透かしたような熱がこもっていた。ほかの肌は氷みたいに冷えているのに、そこだけが脈打つように温い。
もやの白い光のせいで、そう見えただけかもしれない。ティナは、そう自分に釘を刺した。見間違いを本物として書けば、次に見るものがその筋に引きずられる。
だから、書かなかった。書く言葉を、まだ持っていない。だが、覚えておくことにした。声の低さも、匙も、そうやって覚えてきた。名前は、あとから追いつく。
「運ぶ」ティナは立った。「村へ。あの子の家が近い」
「あたしが背負う」セルカが、もうクレイの腕を肩へ回していた。「こいつ、昨日ニコを背負ってた。今度はあたしの番」
「重い?」ティナが訊いた。
「ぜんぜん」セルカは言った。「軽すぎて、腹が立つ」
「腹を立てる相手が違う」
「わかってるよ。けど、こいつ以外に立てようがないんだよ」
「急ごう」ティナが言った。「日が高くなる前に、屋根の下へ」
「先に行ってて。あたし、こいつと歩く速さ合わせる」
「軽いんだから、せめて掴まってろよ」セルカが背へ小さく言った。
セルカがクレイを背負って歩き出す。首が、その肩でかくんと揺れた。
ティナは、うしろについた。目は、垂れたクレイの左手にあった。もう、熱は引いただろうか。
傷が無かったことになるたびに、この男の何かが減る。四日かけて、ティナはそれをようやく数え終えた。だが、減っているものが何なのか。手の甲に浮いて沈んだあれが、それと繋がっているのか。
そこから先は、まだ床の下だった。飛ばすな、と自分に言い聞かせる。今日わかったのは、この力に底がある、というところまでだ。
底のある力を、この男は底が見えるまで注ぎ続ける。誰かの首に刃が入るかぎり、迷いもせずに。次に注げば、と考えかけて、ティナはその先を書かなかった。
クレイの左手が、セルカの背で力なく揺れていた。もやは、村のほうへ薄れていく。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
クレイの力に初めて「底」を描いた回でした。守っていたはずの前衛が無傷で、後ろの丸腰が落ちる——この理不尽が、彼の力の正体にいちばん近い場所です。無尽蔵に見えた手は、身を削っていました。左手の甲に浮いて消えたものの名前は、もう少し先で。




