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死んだのを、覚えてる

 四日目の朝、三人は北の村の木戸をくぐった。


 もやは、村の中まで這い込んでいた。家々の戸は固く閉じている。畑を囲う柵は、あちこちで倒れたままだった。人の気配はあるのに、誰も表へ出てこない。


 ヨナスが御者台から降りて、木戸の内へ声を張った。


「塩を持ってきた。ロウのヨナスだ。開けてくれ」


 しばらくして、いちばん手前の戸が細く開いた。白髪の老人が、顔だけ出す。


「……荷は、無事か」


「半分は残った。今年は、それでも上等だ」


 老人は戸を大きく開けた。だが目は、三人の見慣れぬ顔をなぞって、警戒を解かなかった。


「あんたら護衛かい。物好きだね。この村はもう終いだよ」


「終いって」セルカが訊いた。


「秋からずっとだ。荷が根こそぎ消える。だが誰も死なねえ。おかしいだろう。死なねえのに、暮らしだけ痩せていく」


 クレイは、老人の言葉を半分だけ聞いていた。手のひらの奥を、確かめている。糸の端は、村の家並みを越えた先にあった。もっと北。細く、まだ切れていない。


「ここじゃない」クレイは言った。


「なにが」ティナが振り向く。


「弱ってる人。村の中じゃない。奥だ。ずっと奥」


 老人の顔が、こわばった。


「奥って、あんた……あの祠のほうかい」


「祠」


「村の北のはずれに古い祠がある。秋から、あすこには近づくなと言ってる。行った者が戻らねえ」


 ティナが手帳を開いた。ペンが走る。


「戻らない、というのは。死んだの」


「わからねえ。荷を運ぶ影がみんなあっちへ消えてく。だから村の若いのが一人、様子を見に行った。それきりだ」


「いつ」


「四日前」


「その若いの、身内かい」セルカが訊いた。


「孫だ」老人は、短く言った。「十六になったばかりだ。荷を取り返すって、聞かなかった」


「じゃあ、まだ祠にいるかもしれないんだね」


「わからねえ。だから誰も確かめに行けねえ。行けば次は、そいつが戻らねえ」


 セルカが、剣の柄をひとつ握り直した。


 クレイの手のひらで、糸の端がまた細くなった。四日前。細く、まだ切れていない。まだ、間に合う。


「行く」クレイは言った。


「本気かい」老人が言った。「荷は届いた。あんたらの仕事は、もう済んでる」


「済んでない」


 クレイは、北を向いた。ヨナスが手綱を握ったまま、少し黙ってから言った。


「治療師さんよ。あんたは荷でも人でもねえ誰かのために、あの祠へ行くのかい」


「弱ってる。それだけは、はっきりしてる」


 ヨナスは、荷台のトビを振り返った。トビは添え木の脚を抱えて、村の戸口を見ていた。


「おれはここに残る。この子の脚も、まだ動かせねえ」


「それでいい」クレイは言った。「あんたは、荷を届けた。もう十分だ」


 セルカが、両手剣を担ぎ直した。


「奥に行くんでしょ。なら、あたしが前」


「危ないぞ」クレイが言った。


「知ってる。危ないとこに立つのがあたしの場所だって、ティナが言った」


 ティナは、手帳を閉じた。


「言った。撤回はしない」


 三人は、村の北のはずれへ歩き出した。もやは、奥へ行くほど濃くなった。




 もやの奥に、祠の影が見えてきた。


 セルカは、先頭を歩いていた。剣は、まだ肩に担いだままだ。背中で、クレイの足音と、ティナがペンを繰る乾いた音がする。二人が後ろにいる。それだけで、足がよく前へ出た。


 祠は、苔で黒くなった石積みだった。屋根は落ちている。その周りの地面に、荷袋が山と積まれていた。秋から運ばれた村の暮らしが、ひとつ残らずそこにあった。誰も、封を切っていない。運んで、積んで、そのまま。


「なにこれ。食べもせず、ただ積んでる」


「納めてる」ティナが言った。「誰かに。ここに」


 積まれた荷の奥で、もやが揺れた。


 影が、立ち上がった。ひとつ、ふたつ——数えるのをやめた。今日は、荷を担いでいない。曲がった刃だけを提げて、まっすぐこちらを向いている。


 セルカの口が、閉じた。


 考える前に、身体が前へ出ていた。剣を下ろす。二人を、背中の後ろへ回す。


「下がって」


 声は、短くなった。戦いの時だけ、言葉が痩せる。自分でも、わけはわからない。ただ、そうなる。


 影が、来た。


 先頭へ、剣を振り下ろした。手応えは、霧を殴るのに似ていた。刃は影を抜けて、地の荷袋を裂いた。塩が、白く噴きこぼれる。


 二つ目が、横をすり抜けた。クレイのほうへ。セルカは考えなかった。剣を捨てるように身を投げて、その間に立つ。


 背中で、風を聞いた。


 三つ目の刃が、脇腹から入った。


 熱かった。焼き鏝を、肋の下へ押し込まれたようだった。それが、すぐに冷たくなる。腹の底から、何かがひと息に抜けていく。膝が、返事をしなくなった。剣の重さが、急にわからなくなる。


 もやが、傾いた。


 音が、遠くへ引いていく。クレイの声も、ティナの声も、綿の向こうだった。セルカは、地面が近づいてくるのを見た。近い。頬に、土の匂い。


 ああ、と思った。


 置いてかれる。


 父の背中が、よぎった。強いやつだけ連れていかれて、弱いやつは道端に残される。あたしはいつも、追いかける側だった。走って、前に出て、暴れて、それでやっと、置いてかれない場所に立った。


 なのに今、いちばん前で、あたしだけが止まる。二人が、行ってしまう。今度は、ずっと。


 目の奥が、暗くなった。


 ——嫌だ。


 次の息を、吸っていた。


 セルカは、立っていた。両足で。剣は、両手のなかにある。もやは、傾いていない。音は、近い。クレイの足音も、ティナのペンの音も、すぐ後ろにある。


 脇腹に、手をやった。


 鎧は、切れていなかった。革の合わせ目に、裂けた跡がない。指を、下着の内まで差し入れた。肌は、汗ばんでいるだけだった。血の、ひとしずくもない。焼き鏝の熱も、抜けていく冷たさも、どこにも残っていない。


 だが、覚えていた。


 さっき、腹の底が抜けた。膝が返事をやめた。地面が近づいた。父の背中を見た。置いてかれる、と思った。あれは、夢じゃない。掠り傷を大袈裟に感じたのでもない。あたしはあそこで、止まった。止まって——それから、動き出した。


 影は、前のめりに流れて、体勢を崩していた。斬ったはずの手応えを、失くした動きだった。


「……クレイ」


 セルカは、振り向いた。声が、掠れていた。


 だが、続きは声にならなかった。何を訊けばいいのか、わからない。何かした、とはもう訊けない。さっきのは、逸れた刃じゃない。逸れた刃で、人はあんなふうに、置いてかれる側の顔を見たりしない。


 セルカは、剣を杖にして、自分の脇腹をもう一度押さえた。


 運が良かった。今まで、ずっとそう思ってきた。父ゆずりの、しぶとさだと。でも、運はこんな顔をしていない。運は、腹の底を抜いたりしない。


 これは、普通じゃない。


 初めて、はっきりと、そう思った。




 ティナは、セルカの顔を見ていた。


 剣を杖にして、脇腹を押さえている。戦いのあとの、上気した赤みがない。代わりに、見たことのない色が乗っていた。青い。芯から冷えた顔だった。


「セルカ」ティナは、そばへ寄った。「どこを、やられた」


「脇腹。左の下」セルカは、手をどけた。「けど、無い。切れてもない」


「見せて」


 塩だけが、白くこぼれている。それだけが、今日の地面に残るものだった。


 だが今日は、書く手が違った。今までは、傷が"無い"ことを外から数えてきた。襟の乾き。地の跡。塞いだ線の不在。それを四つ、五つと並べて、証拠を積んだ。


 今日は、証人がいる。中から、死をくぐった者が。


「セルカ。さっきのを、話して。感じたことぜんぶ」


「……なんで」


「あなたがいちばん近くで見た。私の目より近い。あなたの中でだけ、起きたことがある」


 セルカは、少し黙った。それから、途切れ途切れに話した。


「熱くて。すぐ、冷たくなった。腹の底が、抜けた。膝が、動かなくなって……地面が、近づいた」


「それから」


「置いてかれる、って思った。二人に。ずっと」


 ティナのペンが、止まった。それは、傷の記録ではなかった。死にかけた者だけが持ち帰る、内側の風景だった。ティナは、それを書いた。今までのどの欄にも、入らない。だから、新しい行を立てた。


 証言——本人、致命の感覚を明確に記憶。熱、冷え、脱力、落下。"置いていかれる"という了解。すなわち当人は一度、死へ半歩を踏んだ。しかし傷は無い。


 書いてから、ティナはクレイを見た。


 クレイは、少し離れて立っていた。積まれた荷袋の、白い塩を見ている。手のひらを、開いたり閉じたりしていた。何かを確かめるような手つきだった。


「クレイ」セルカが、掠れた声で呼んだ。「あんた、何したの。教えてよ」


「何もしてない」


「嘘。あたし、死んでた。ちゃんと。腹の底まで冷えたんだよ」


「……刃が浅かったんだ。もやで、深く見えただけだ」


「浅い刃で、父さんの背中は見えないよ」


 クレイの語尾が、締まった。傷の話になると、この男はいつもそうなる。ティナは、その一瞬を逃さなかった。


「クレイ。あなたはいつも三つのうちのどれかを言う。逸れた。浅かった。見間違い。今日は、どれ」


「……初級回復しかできない。深いのは、無理だ」


「初級回復で、脇腹の傷が"無かったこと"になる?」


 クレイは、口をつぐんだ。手のひらを、また開いて、閉じた。答えを探して、見つからない手つきだった。それから、二人の顔を見ないまま、低く言った。


「死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる」


 それが、答えのつもりらしかった。何をしたか、ではない。何を、しないか。問い詰められて、この男の手のなかに残るのは、その誓いひとつきりだった。


 セルカが、剣を握り直した。掠れた声のまま、笑おうとして、うまくいかなかった。


「……ずるいなあ、あんた」


「ティナ」セルカが、剣の柄に額を寄せた。「あんた、これ前から気づいてたの」


「途中よ。まだ、積んでる途中」ティナは手帳を閉じた。「でも、あなたより先に見てはいた」


「なんで、黙ってたのさ」


「証拠が足りなかった。今日、あなたが埋めた」


「……あたし、実験台じゃん」


「違う。証人。それも、いちばん確かな」


 セルカは、それきり何も言わなかった。確かな、という言葉を、うまく飲み込めない顔をしていた。


 ティナは、それを聞いていた。


 昨日までの帳面は、外から積んだ証拠だった。無いことを、数え上げた。だが今日は、内から声が来た。腹の底が抜けたと、当人が言った。二つは、別の入口から同じ部屋を指している。外から見ても、中から触れても、行き着く先は一つだ。傷が塞がったのではない。傷そのものが、無かった側へ回されている。


 名前は、まだ書かない。だが、名前の要る場所が、はっきりと空いた。空いた形は、もう治癒の形をしていなかった。


 影は、いつのまにか消えていた。祠の周りに、白い塩だけが残っている。曲がった刃も、揺れる背中も、もやに溶けていた。


 クレイが、祠へ足を向けた。


「まだいる。中だ。糸の端が、この石の奥で細くなってる」


「生きてるの」ティナが訊いた。


「かろうじて。今日より、あと少しで切れる」


 セルカは、脇腹をもう一度押さえた。切れてもいない腹を。それから、剣を担ぎ直した。


「なら、行こう」声は、まだ掠れていた。「あたしが前。……でも、クレイ」


「うん」


「今度あたしが止まったら教えてよ。あたしが死んだのか死ななかったのか。……自分の生き死にくらい、知る権利があるでしょ」


 クレイは、答えなかった。答えられなかった、というほうが近い。


 もやの奥で、祠の入口が、暗く口を開けていた。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 これまでの巻き戻しは、いつも"外側"から描いてきました。ティナが見て、数える。襟が乾いている、地に跡が無い、と証拠を積む。読者は観察者の肩ごしに異常を知りました。けれど今回は、初めて"内側"に入ります。セルカの脇腹から刃が入り、腹の底が抜け、膝が返事をやめ、地面が近づく。そして彼女は、父の背中を見て「置いてかれる」と思う——強さで前に立ちつづけた彼女にとって、死とは何より、置いていかれることでした。次の息で、傷も鎧の裂け目も消えている。だからこそ彼女は、運では片づけられなくなります。運は、腹の底を抜いたりしない。


 セルカは「これは普通じゃない」と、初めてはっきり思います。ただし、彼女はまだ、それに名前を持ちません。ティナも、外の証拠と内の証言が同じ一点を指すのを見ながら、名づけだけは手前で止めます。クレイはと言えば、問い詰められて残るのは、あの誓いひとつきり。何をしたか、ではなく、何をしないか。彼の手のなかには、いつもそれしかありません。


 祠の奥で、糸の端はまだ細くなっています。次話、三人はその石の底へ入ります。どうか、見届けてやってください。

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