「治してない、なかったことにしてる」
石の底で、細い脈が間をあけて打っていた。
クレイはその一打ちを手のひらで数えた。四つ数えても、次が来ない。来ないと思ったころに、ようやく打つ。まだ途切れてはいない。だがずいぶん間延びしていた。
「下にいる。祠の、床の下だ」
崩れた石畳の隅に、黒い穴が口を開けていた。人ひとりがやっと抜けられる幅だ。奥から湿った土の息が上がってくる。
「あたしが先」セルカが剣を背へ回した。
「いや、俺が行く。弱ってるのはすぐそこだ」
クレイは穴へ足を差し入れた。底は浅く、すぐに靴が着いた。どこかで石を伝う水の音がしている。
光の届かない隅に、丸まった影がひとつあった。人だ。膝を抱えて壁にもたれている。
近づくほど、手のひらの脈がはっきりした。弱いが、そこにある。まだ、そこにある。
肩に触れると、燃えるように熱かった。
「聞こえるか。もう平気だ、迎えに来た」
返事は、息だけだった。まだ少年といっていい顔が、汗で濡れている。左の脛があらぬ方へ曲がっていた。
四日前に落ちて、そのままだ。傷口は膿みかけ、熱が全身を焼いている。飢えと渇きが、その上に重なっていた。
これはわかる傷だ、とクレイは思った。手が勝手に順番を思い出す。冷やす。膿を出す。熱を下げる。時をかけて、繋ぐ。
「セルカ、水を落としてくれ。ティナさん、眠り苔を頼む」
上から、革袋の水が下りてきた。セルカの腕がもやを裂いて、袋を差し出している。クレイは布を湿らせ、少年の唇を割って垂らした。喉が、こくりと動いた。
「……ニコ」
少年が掠れた声を出した。
「おれ、ニコ……じいちゃんは」
「村にいる。あんたを待ってる」
「荷を、取り返そうと来た」ニコの息が震えた。「でも、あいつらは手を出さねえ。ただ道を塞いで……出られなくなった」
「もう喋るな。息は、浅くていい」
「四日、水も無くて……上から、じいちゃんの声が聞こえた気がしたんだ。でも、脚が」
「わかった。ここからは俺がやる」
クレイは指で脛の腫れをたどった。骨が皮の内で折れて、そこが膿んでいる。
熱は、その一点から全身へ回っていた。喉は渇きで貼りつき、脈は飢えで細っている。
どれも名の付いた傷だ。止める。洗う。固定して、繋ぐ。この子の身体は、そういう手を待っていた。
クレイは脛に添え木を当てた。布を裂いてきつく巻く。煮出す道具も、まぶす蜜も無い。癒し草を噛みくだき、膿んだ口へじかに置いた。生の汁でも、膿の広がりは鈍る。
白根を削り、煎じる暇もなく舌の下へ入れた。効きは半分だろう。それでも熱は、じき退きはじめる。
手が、次を迷わなかった。この傷は、手の届くところにある。触れて時をかければ、繋がる傷だ。
脈が、指の下で少しだけ間を詰めた。落ちきる手前で踏みとどまり、こちらへ薄く戻ってくる。
「死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる」
声はニコに向けたというより、自分の手へ言い聞かせたようだった。
届く傷には、手が届く。それだけを確かめるみたいに、クレイはもう一度添え木を締め直した。
上の縁から、ティナが穴を覗き込んでいる。
「生きるか」
「生きる。急がなきゃ、繋がる」クレイは少年を抱え直した。「熱が引くまで何日かかかる。だが、もう落ちない」
落ちない、という言葉が自分でも妙にはっきり出た。
この脈は、手のひらの中で確かに戻ってきている。戻したのではない。戻ってきた。
手当てというのは、そういうものだ。時をかければ、身体が自分で這い上がる。その最初の一段に、手を貸すだけだ。
ティナは、祠の床にニコを寝かせた。崩れた屋根の隙間から、灰色の光が細く落ちている。少年の寝息が、小さく上下していた。
クレイはその脇に膝をついたままだ。手当てのあとの脛に、布を巻き直している。
ティナはその手つきを見ていた。水を使う。膿を出す。添え木を当てる。時が要る。痕が残る。
これが、治すということだ。目の前に、ちゃんとある。
ティナは膝の上で手帳を開いた。今日までの頁が、指の下で乾いた音を立てる。
「クレイ。少し、聞いて」
「ん」
ティナは頁を四枚、順にめくった。
「初日。セルカの首に刃が入った。角度も深さも、私は見た。傷は無かった」
クレイの手が、布の上で止まった。
「二日目。トビの首。致命の角度だった。あなたは十歩、離れてた。手も呪文も無し。それでも傷は無かった」
「三日目。ヨナスの喉。血が噴いて襟が濡れた。あの人が助からないと思った。次の息で全部消えた」
「ティナさん」
「まだ。四日目」
ティナは指で頁を押さえた。
「セルカの脇腹。今度は本人が中から覚えてた。腹の底が抜けた、と言った。それでも傷は無かった」
セルカが、壁にもたれたまま顔を上げた。
ティナは手帳から目を上げ、クレイの手元を見た。
「今、あなたはニコの脛を治した。水が要った。薬が要った。時がかかる。痕が残る。……これが治すこと」
ペンの尻で、手帳の余白を指す。
「その四つは、どれも違う。塞いだ痕が無い。血が無い。時も要らない。順番がひとつも無い」
「……初級回復だから、痕が残らないだけだ」
「初級回復で、噴いた血まで消える? 地に落ちた一滴まで?」
クレイは答えなかった。
ティナは、前の頁をめくり返した。三日目の欄の下に、一度書いて線で消した行がある。うっすら読めた。起きたことが、起きる前へ——。
あの日、指が勝手に先へ走ってあわてて消した一行だ。今日も、消したままにしておく。あの続きを書くには、まだ言葉が過ぎる。
押しつぶした文字の凸凹を、ティナは指の腹で拾った。凹んだ跡だけが、今日も物を言わずに残っていた。
ティナは手帳を閉じた。仮説に名前を先に付ければ、次に見るものがその名に染まる。だから閉じた。閉じてから、静かに言った。
「私は順番を飛ばさないと決めてる。だから、ここまでしか言わない」
「うん」
「あなたは、治してない」
祠の中が、静かになった。ニコの寝息だけが続いている。
「傷を塞いでるんじゃない。塞ぐべき傷そのものを、無かったことにしてる。……治してない。なかったことにしてるの」
「……俺に、そんな力はない」
「知ってる。あなたは、そう信じてる」ティナは言った。「信じてることと起きてることは、別のもの。私は起きてることだけ数えてる」
「ティナ」セルカが言った。「あたし、わかる。中から」
「話して」
「治ったんじゃない。治るときはさ、痛かったのがじわっと引いてく。腕の古傷で覚えてる」
セルカは、自分の脇腹に手を当てた。
「あの脇腹のは違った。痛みが引いたんじゃない。痛かったこと自体が消えてた。あたしが腹の底まで抜けたのに」
「あれは治療じゃない。ティナの言うとおりだ。……なかったことに、された」
ティナは、手帳のいちばん後ろの問いを思い出した。守っているのは剣か。それとも剣ではない何か。
二日目の夜に、そう書いて閉じた問いだ。答えは、もう出ている。
セルカの剣は、影に一度も当たっていない。なのに誰も死んでいない。守っていたのは剣ではなかった。
「セルカ」ティナは言った。「あなたの剣が影を止めたことは、一度も無い」
「……知ってるよ。うすうす」
「でもあなたが前に立つのは無駄じゃない。あなたが立つから影は荷か命かで迷う。その迷いの時間を、クレイのそれが拾ってる」
セルカは、剣の柄を握った。握ってから、力を抜いた。
「……あたし、守ってなかったんだ。ずっと」
抜いた手のひらに、行き場のない熱だけが残った。
「守ってた。ただ、あなたが思ってる守り方じゃなかっただけ」
「外から数えても中から触っても、行き着く先はおんなじ」ティナが言った。「四回、別の入口から同じ部屋を指してる。偶然でこうはならない」
「……刃が、逸れただけかもしれない」
「四回とも? 角度も深さも、私が見た四回とも?」
クレイは、また黙った。答える代わりに、自分の手のひらを見ている。青い滲みとニコの熱が、まだそこに残っていた。
ティナは、その横顔を見た。何を並べても、この男の目は繋いだ脛へ戻っていく。
塞ぐべき傷を無かったことにする。そんな手つきを、この手は覚えていない。
だから二人の話は、遠くの誰かのことに聞こえている。そう見えた。
そのほうが、この男には据わりがいいのだろう。
ティナは、開いたままの余白へ目を落とした。名前を書く場所が、そこにある。だが当てはまる言葉が、ひとつも浮かばない。
傷が無かったことになる。それを言い表す語を、ティナは持たない。誰も持っていない。
死は巻き戻せぬ一線。そう教わって、この大陸の皆が育つ。起こらないはずのことに、名前は付かない。
無い言葉は、探しても出てこない。なら、作るしかない。
ティナは余白の隅に、小さな印をひとつ打った。名前を入れる場所の目印だ。中身は、まだ空のままにしておく。
だから四千の戦場で、誰も気づかなかったのかもしれない。
ティナは、そこで手を止めた。四千という数の根拠は、まだ無い。
飛ばすな、と自分に言う。今日書けるのは、ここまでだ。
クレイは、ニコを背に負った。軽い。四日で、これだけ痩せたのだ。
肩甲骨が、掌に骨のまま当たる。首も、指で回せそうに細い。
穴を抜けて、崩れた祠の床へ出る。灰色の光が、思ったより眩しかった。
背中の脈は、さっきより間を詰めていた。指の下で、底からひとつずつこちらへ戻ってくる。
時をかければ、この子は繋がる。手の届く傷だった。それが、素直に嬉しい。
嬉しくないのは、ティナとセルカの目だった。
二人が、さっきから自分を見ている。ニコを見るのでも、祠を見るのでもない。自分を、見ている。何かを確かめるみたいに。
据わりが悪かった。俺は、初級回復しかしていない。脛を繋いだだけだ。それ以外、何もした覚えがない。
「クレイ」ティナが、手帳を帯に挿した。「ひとつ、わかったことがある」
「なに」
「あなたのしてることに、名前が無い。この大陸のどの言葉にも」
「……してない、って言ってるだろ」
「うん。あなたは、そう言う」ティナは、少しだけ笑った。「でも私は、名前の無いものに名前を付ける。それが私の仕事だから」
クレイは答えず、村のほうを向いた。もやは、来たときより薄い。積まれた荷袋の山が、封を切られないまま白く残っている。
あれをどう村へ戻すのか、影がまた出るのか、まだ何もわからない。ただ、背中の脈だけははっきりしていた。この子は、生きて帰る。
「この荷、村に戻してやりたいね」セルカが荷袋の山を見た。「けど、あたしが担ぐと影がまた出るんでしょ」
「たぶん」ティナが言った。「荷を担ぐとあれは動く。今日は、この子を先に帰す」
「クレイ」セルカが、剣を担ぎ直した。「あんたのこと、置いてかないからね。あたしらは」
「……や、別に」
セルカが、八重歯を見せて笑った。掠れていた声が、いつもの調子に戻っている。ティナは、もう手帳を見ていない。三人と、背中のひとりで、祠を出た。
背中で、ニコが小さく身じろぎした。
「みず……」
「あとで、たっぷりやる」
「じいちゃん……」
「もうすぐ会える。もう少しだ」
クレイの声に、少年はまた眠りへ落ちた。熱い息が、首すじにかかっている。生きている息だ。手当ての要る、たしかな温もりだった。
村の木戸までは、じきだった。もやは薄れても、足は自然と急いた。クレイは背の子をゆすり上げ、一歩を踏み出した。ティナとセルカが、その両脇に並んだ。
名前の無いもの、とティナは言った。クレイには、それがなぜ大事なのかまだわからない。
ただ、ティナがそう言うときは、たいてい何かが始まる。もやの向こうで、それが静かに近づいている気がした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話は、ずっと「無い」を数えてきたティナが、初めて反対側の「有る」を手当てとして目の前に置く回でした。ニコの脛は膿んで、熱を持って、時間をかけないと繋がらない。水が要る。薬が要る。痕が残る。それが治すということです。その手当てを横に並べて初めて、あの四つの「無い」がどれほど異様だったかが、輪郭を持ちます。だからティナは、戦場ではなく治療の隣で仮説を言い切りました。「治してない。なかったことにしてるの」——彼女の検証は、ここでひとつの言葉になります。
けれど、名前はまだ書きません。傷が無かったことになる、それを言い表す語がこの大陸には無い。死は巻き戻せぬ一線、と教わって皆が育つからです。名前が無いものに名前を付ける、とティナは言います。その仕事の重さは、次の話でもう少しはっきりします。
クレイは相変わらず、自分のことだと思っていません。手が覚えているのは、繋いだ脛だけ。二人の話は、きっと誰か別の人のことだ——そう受け取るほうが、彼にはずっと据わりがいいのです。据わりの悪さのほうが、たぶん正しいのですが。どうか、その日まで見届けてやってください。




