デッドエンドのキスー
デッドエンドの笑い声が耳障りなほど響く中、ミカゲが静かにベルへ視線を向ける。
「ご主人様…」
「あぁ、わかってる」
ベルは短く答えた。
その返事を聞いても、ミカゲの表情は変わらない。
「これは罠です」
「あぁ」
「わかってますね?」
「あぁ」
ミカゲは一歩だけベルへ近づいた。
その声音だけが、わずかに冷える。
「もし本当にキスなんてしたら…」
「あぁ」
一拍の間。
そして、にこりと微笑んだ。
「黒天を撃ちます」
「あぁ!?」
思わずベルが素っ頓狂な声を上げる。
だが、ミカゲは至って真面目だった。
「たぶん怒りで我を忘れますので」
「えぇー!?」
ベルの悲鳴にも似た声が影の世界に響き渡る。
その様子を見ていたデッドエンドはきょとんと瞬きを繰り返していた。
ベルは少し考えていた。
その横顔を見つめていたミカゲへ視線を送り、小さく顎を引く。
「ちょっと黙って見てろ」
一瞬だけ瞳を揺らしたミカゲは、何も言わず静かに頷いた。
その返事を確認すると、ベルはゆっくりと歩き出す。
一歩、また一歩。
靴音だけが影の空間に小さく響き、やがてデッドエンドの目前で止まった。
キンサシャの口から溢れ続ける粘液。
その先端から生えたように存在するデッドエンドへ向け、ベルは両手を伸ばす。
そして、その顔を優しく包み込むように掴んだ。
その瞬間、デッドエンドの身体がびくりと震える。
全身を歓喜に打ち震わせ、頬を染めるようにぐにゃりと歪ませた。
「やだ…ついにその気になったんだーキャハハッ♪」
ベルはその浮かれ切った顔を真っ直ぐ見据え、静かに言い放つ。
「いいから、黙って目を閉じろ」
命令されることさえ嬉しいのか、デッドエンドは口元を大きく吊り上げた。
「はーい♪んー」
素直に目を閉じ、そのまま唇を突き出す。
七色に輝く粘液が淡く揺れ、唇の表面を薄く濡らしていた。
その様子を、ミカゲは一言も発さず見つめている。
静かな瞳の奥に宿る感情だけは、誰にも読み取ることができなかった。
ベルは突き出された唇を前にして、露骨に顔をしかめた。
「口から出てるそれ、なんだよ?気持ち悪ぃ」
デッドエンドは舌舐めずりをすると、口の周りにまとわりつく七色の粘液を丁寧に絡め取っていく。
「デッドちゃんの愛のつまった液だから、キモくねぇし♪」
「見た目やべーって」
あっさりと言い返されても、デッドエンドは不満そうに頬を膨らませるだけだった。
ごくり、と喉が鳴る。
粘液を飲み込むと、そのまま口を大きく開いて見せつける。
「それでいいー?」
ベルは中を覗き込み、しばらく確認したあと、小さく頷いた。
「あーそれならいいや、んじゃ」
その言葉が終わるより早く。
ベルは躊躇なく身を寄せた。
唐突に伸びたその動きに、デッドエンドが目を見開く間もない。
唇が、唇を塞いだ。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、影の世界から音が消える。
デッドエンドの身体が硬直し、そのまま歓喜に震え始める。
一方、その光景を目にしたミカゲの表情からは、穏やかな笑みが音もなく消え去っていた。
頬が引きつり、瞳の奥が静かに燃え上がる。
怒り。
それも、抑え込もうとしてなお溢れ出すほどの激情が、その顔をゆっくりと染め上げていく。
影の空間そのものが、彼女の感情に呼応するようにわずかに軋んだ。
デッドエンドの目が恍惚に揺れる。
まるで長年追い求めていた夢が、ようやく叶ったかのように。
だが、その幸福は長くは続かなかった。
ふと、その瞳が見開かれる。
ゆっくりとベルへ視線を向け、頭を強く引き、ようやく唇が離れた。
「ちょ..うれしいのはわかるけど、そんなにがっつかないでー!もっと優しくー…」
言葉は最後まで紡がれなかった。
再び、ベルが距離を詰める。
逃がすまいとするように、唇が重なった。
デッドエンドの瞳が揺れる。
やがて、その目は焦点を失い、ぐるぐると渦を描くように回り始めた。
その様子を見つめるミカゲは、静かに右手を持ち上げる。
開かれた手のひらへ、漆黒の闇が糸を引くように集まり始めた。
濃密な闇は渦を巻き、圧縮され、音もなく凝縮していく。
その間も、デッドエンドは必死だった。
頭を引き、左右へ揺らし、何とか唇を離そうともがく。
しかしベルは動じない。
両手でデッドエンドの頭を抱き抱えるように固定し、一切の逃げ道を与えなかった。
やがて。
静寂の中に、小さな音が響く。
ずずずっ——。
その音とともに、デッドエンドの表情が驚愕へと変わる。
何かが引かれている。
何かが奪われている。
そんな感覚だけが、確かにそこにあった。
ぐるぐると回る瞳の回転はさらに速まり、思考さえ追いつかないまま、デッドエンドはベルの腕の中でもがき続けた。
一方で、ミカゲの掌に集う闇は、静かにその密度を増していく。
その紫の瞳だけが、二人の様子を微動だにせず見据えていた。
デッドエンドの鼻先までもが、いつの間にかベルの唇の向こうへと飲み込まれていた。
その事実に気付いた瞬間、ぐるぐると回る瞳がさらに大きく見開かれる。
粘液の身体を震わせ、必死に頭を振る。
逃れようともがくたび、キンサシャの口から伸びた身体がぶるぶると揺れた。
だが、ベルの両腕は微動だにしない。
逃がさない。
その意思だけが、静かに伝わってくる。
さらに吸い込む力が強まった。
ちゅるんっ。
軽い音が鳴ったかと思えば、デッドエンドの頭部は形を失ったゼリーのように変形し、そのままベルの口の中へと吸い込まれて消えていく。
残された身体も例外ではなかった。
キンサシャの口内から伸びる七色の粘液が、一本の帯となってずるずると引き寄せられる。
長く、長く続くその身体は、抵抗するたびに波打ちながらも、結局は抗えない。
吸われる。
ただひたすら、ベルの中へ。
やがて最後の一筋が空中で震え――音もなく消えた。
支えを失ったキンサシャの身体が、その場へ崩れ落ちる。
白目を剥いたまま、力なく床へ横たわった。
静寂。
ベルはゆっくりと息を吐く。
「はーっ!苦しかったー!」
肩を回しながら、自分の腹を両手でぽんぽんと叩く。
「よーし、引きずり出して捕まえてやったぜー!どうだ?ミカゲ…」
得意げに振り返った、その瞬間だった。
ミカゲは静かに右手を掲げていた。
掌の上。
闇よりなお深い黒が幾重にも圧縮され、球体となって脈打っている。
空間そのものが軋み、影が吸い寄せられ、周囲の光さえ飲み込んでいく。
その黒い玉は、すでに完成していた。
そして今まさに――放たれようとしていた。
ベルが振り返った、その瞬間だった。
右手を迷いなく伸ばす。
ぱちん、と乾いた音が影の空間に響いた。
ミカゲの額を、指先が軽く弾く。
「あうっ!」
思わず小さな悲鳴を上げ、ミカゲは額を押さえて一歩よろめいた。
ベルは呆れたように肩を落とす。
「やめろって、ほら、しまえしまえ」
左手で額をさすりながら、ミカゲは不満そうに頬を膨らませた。
その視線だけは、今なおベルの腹を恨めしげに睨みつけている。
やがて小さく息を吐くと、開いていた右手の指をゆっくりと閉じた。
掌の上で脈打っていた漆黒の球体は、音もなく潰れるように収束し、そのまま闇へ溶けて消えていく。
空間を満たしていた重圧も嘘のように薄れた。
それでもミカゲの表情だけは晴れない。
唇を尖らせたまま、ぽつりと呟く。
「…ずるいです」
その一言には拗ねた響きと、どうしようもない悔しさが混ざっていた。
ベルは苦笑しながら頭をかく。
腹の中では、飲み込まれたデッドエンドがまだ暴れているのか、時折ぐにゃりと服越しに形が揺れる。
その感触に眉をひそめつつも、ベルはもう一度腹を軽く叩いた。
「暴れるなって」
そう言ってから、目の前で頬を膨らませ続けるミカゲを見て、小さくため息をつく。
影の世界には、ようやく戦いとは別の静けさが戻り始めていた。




