黒天ー
キンサシャの舌が、水晶玉の表面をぬらりと這う。
その瞬間だった。
「なっ!?」
ベルの目の前で、切り裂いたはずのダンデドールの胴体が左右へ大きく裂ける。
傷口ではない。
まるで最初からそういう器官だったかのように、上下へ開いた肉と樹皮が巨大な口を形作る。
内側には無数の根が蠢いていた。
歯の代わりに棘を生やした蔓。
舌の代わりに脈打つ根。
赤く明滅する魔王核の光が、その奥で妖しく揺れている。
一瞬。
ほんの一瞬だけ反応が遅れた。
「ちっ……! 油断した!」
ベルが跳び退こうとした時には遅かった。
どぱん、と。
巨大な口が一気に閉じる。
上下の肉壁が噛み合い、何十本もの蔓が内側へ巻き付きながら、ベルの身体ごと呑み込んでいく。
銀髪が闇へ消える。
黒鉄の刃も。
その姿も。
全てが巨大な植物の胎内へと消え失せた。
「ははっ……はははっ!」
キンサシャが肩を震わせる。
「捕まえたさね!」
ダンデドールの胴体はゆっくりと閉じ、何事もなかったかのように元の形へ戻っていく。
その様子を、ミカゲは少し離れた場所から静かに見つめていた。
助けない。
動かない。
ただ、じっと。
漆黒の瞳でその光景を見据え続ける。
静寂の中。
こり、と。
小さな音が響いた。
噛み締められた奥歯の音。
その微かな音だけが、影の世界に静かに溶けていった。
キンサシャは一瞬、呆然と閉じたダンデドールを見つめていた。
やがて、その表情がゆっくりと歪む。
「や、やった……」
震える声。
次の瞬間、堪え切れなくなったように腹を抱えた。
「やったよ!」
肩を揺らし、喉を震わせる。
「ふはっ! ふはははははははっ!」
笑い声が影の世界いっぱいに響き渡る。
「ざまぁみろっ!」
水晶玉を胸に抱き締め、勝利に酔いしれるように叫ぶ。
その勢いのまま、キンサシャはゆっくりとミカゲへ視線を向けた。
黒衣の姫神は、相変わらずその場から一歩も動かない。
ただ静かに、閉じたダンデドールを見つめている。
その姿を見て、キンサシャは口元を吊り上げた。
「おい!」
返事はない。
それでも構わず笑う。
「おまえのご主人様はいただいてくよ!」
得意げに水晶玉を掲げる。
「これであんたたちも、あたしと一緒!」
さらに笑みを深くした。
「組織の奴隷さね!」
言い放ち、勝ち誇ったようにミカゲを見据える。
しかし。
ミカゲの表情は変わらない。
怒りも。
悲しみも。
焦りも。
何一つ浮かべず、ただ静かに立ち尽くしていた。
その沈黙だけが、かえってキンサシャの高笑いを虚しく響かせていた。
ミカゲが、小さく息を吐いた。
それは溜め息というより、胸の奥から漏れた冷たい吐息だった。
「不愉快ですわ」
その一言に、キンサシャは目を輝かせる。
「くやしいのかい!? くやしいのか!?」
勝ち誇ったように笑う。
「ふはっ! ふははははははっ!」
だが、ミカゲは笑わない。
怒鳴りもしない。
ただ静かに、閉じたダンデドールを見つめたまま口を開く。
「たとえ、怪人とは言え……」
漆黒の瞳が僅かに細められる。
「女が我が敬愛なるご主人様に触れるとは」
その声音は静かだった。
静かだからこそ、底知れない怒気を孕んでいる。
「ましてや身体に入れるとは……」
そこで言葉を切る。
長い睫毛が伏せられ、ゆっくりと再び持ち上がる。
「不愉快だわ」
空気が凍りつく。
キンサシャの笑い声だけが、その場に不釣り合いなほど軽く響いた。
「はっ! 何を言ったって遅いさね! もうあんたのご主人様は――」
言い終える前に。
ぱきり。
どこからともなく、小さな音が鳴った。
ダンデドールの身体の内側から。
何かが軋むような音だった。
キンサシャの笑いが、ぴたりと止まった。
「な……なんの音だい……?」
耳を澄ます。
ぱきり。
また一つ。
乾いた音が、ダンデドールの内側から響く。
背筋を冷たいものが這い上がった。
「まさか……?」
遠く離れた場所で、ミカゲが静かに立っている。
黒いドレスの裾を揺らし、両手を前で重ねたまま、ただ閉じたダンデドールを見つめていた。
その口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「さぁ、ご主人様」
穏やかな声が影の世界へ流れる。
「そんな女の中から、早く出てきてくださいな」
慈しむような響き。
しかし、その瞳だけは笑っていなかった。
「じゃないと――」
ゆっくりと目が細められる。
漆黒の奥で、冷たい光が宿る。
「いくら寛容な私と言えど……」
一拍置いて。
その声音だけが、ぞっとするほど低く沈んだ。
「限度がありますわ」
ぱきり。
今度は先ほどよりも大きな音。
ダンデドールの内側から、何かが軋む音が再び響いた。
キンサシャの顔色が変わる。
「だ、だめだ……!」
震える手で水晶玉を掴み、何度も何度も舌を這わせた。
命令を送り込む。
抑えろ。
押さえ込め。
絶対に出すな。
その意思に応えるように、ダンデドールの全身が蠢いた。
閉じた胴体の上から、新たな蔓が次々と生え始める。
一本。
十本。
百本。
無数の蔓が蛇のように絡み合い、自らの身体を幾重にも縛り上げていく。
ぎちり。
ぎちり。
締め付ける音が響くたび、蔓はさらに食い込み、巨大な繭のような姿へ変わっていった。
それでも終わらない。
ダンデドール自身が、自らの両腕を胸へ回す。
まるで中から暴れる何かを抱き締めるように。
決して逃がすまいと。
全身の力を込めて、自分自身を押さえつけた。
「そう……そうさね!」
キンサシャは額に汗を浮かべながら叫ぶ。
「そのまま押さえ込むさね!」
だが。
蔓の隙間から。
細い一本の赤い光が漏れた。
ぱき。
さらに別の場所からも。
ぱきり。
赤い筋が一本、また一本と闇を裂く。
まるで閉じ込められた太陽が、内側から外殻を焼き破ろうとしているかのように。
光は次第に強さを増し、繭のように絡みついた蔓の隙間という隙間から滲み出していった。
遠く離れた場所で、その様子を見つめるミカゲの表情だけは、変わらなかった。
ミカゲの眉が、ぴくりと動いた。
穏やかな微笑はそのまま。
だが、その顔には隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。
「……ご主人様」
静かに、ダンデドールへ向かって呼びかける。
「あと十秒だけ待ちます」
その声は優しい。
だからこそ恐ろしい。
「十秒経ったら……」
一拍。
そして、静かに数え始めた。
「十」
その瞬間、キンサシャの背筋を悪寒が駆け抜ける。
理由は分からない。
ただ、本能が告げていた。
十秒後に何かが起きる。
決して起こしてはいけない何かが。
「九……」
「八……」
「七……」
淡々と。
まるで砂時計の砂が落ちるような自然さで、数字が刻まれていく。
「はっ……は、早いっ!」
キンサシャが思わず叫ぶ。
まだ三秒しか経っていないはずなのに、容赦なく次の数字が落ちてくる。
ミカゲは意にも介さない。
視線はただ、蔓で幾重にも縛られたダンデドールだけを見据えていた。
その瞳には焦りもない。
あるのは、残り時間を告げる冷たい意思だけ。
「六」
「五」
影の世界に響く数字が、一つ進むたび。
閉ざされたダンデドールの隙間から漏れる赤い光は、さらに強く、さらに眩く輝きを増していった。
ミカゲが静かに右手を持ち上げた。
白い手のひらを、空へ向ける。
「……四」
その掌の上へ、闇が集まり始めた。
否。
闇よりもなお深い黒。
光を呑み込み、存在そのものを塗り潰すような漆黒が渦を巻き、ゆっくりと一点へ凝縮していく。
空間さえ軋む。
影の世界でありながら、その黒だけは異質だった。
「……三」
ミカゲは淡々と数を刻む。
その瞳はダンデドールだけを見据えたまま。
「いいんですか?」
静かな問い。
誰へ向けたものかは明白だった。
キンサシャの喉がひゅっと鳴る。
震える指で水晶玉を掴み、狂ったように舌を這わせた。
一度。
二度。
三度。
もっと早く。
もっと強く。
急かすように命令を送り続ける。
「締めろ……! 潰せ……!」
その意思に応えるように、ダンデドールの身体が軋んだ。
ぎち。
ぎちぎち。
幾重にも巻き付いた蔓がさらに締まり、巨大な繭そのものがゆっくりと縮んでいく。
自らの腕も。
根も。
蔓も。
全てを使い、内側を押し潰す。
まるで腹の中の獲物を骨ごと砕こうとする大蛇のように。
隙間から漏れる赤い光だけが、その圧力に抗うように揺れていた。




