リミットは5分ー
『急ぎなさい。時間がありませんよ』
ミカゲの声は焦り一つなく、淡々と響く。
「わかってる!」
ベルは震える膝を両手で掴み、無理やり身体を起こした。
重い。
まるで全身に鉛を流し込まれたようだった。
視界はぐらりと揺れ、こめかみの奥では鈍い痛みが脈打っている。
それでも、歩ける。
走ることもできる。
だが、全力で走れば、その先でキンサシャを捕まえる体力まで失ってしまう。
焦るな。
確実に。
一歩ずつ。
ベルは乱れる呼吸を抑えながら前へ進む。
その視線の先では、デッドエンドもダンデドールも胸元まで影へ沈み込み、身動きを封じられていた。
そして、そのさらに向こう。
キンサシャだけが必死に逃げようとしている。
「キンサシャ! 待って!」
思わず叫ぶ。
その声に、キンサシャの肩がびくりと震えた。
反射的に振り返る。
その一瞬の足止め。
ゆっくりと迫っていた影が、ようやくその足元へ辿り着く。
「あっ――」
声にならない悲鳴と共に、キンサシャの身体が池へ落ちるように沈み始めた。
膝まで。
腰まで。
そして胸元まで。
もがいても、伸ばした手は空を掻くだけ。
影は静かに揺れるばかりで、決してその身体を離そうとはしなかった。
デッドエンドが影の中でもがく。
両腕を必死に空へ伸ばし、まるで溺れる子供のようにばたつかせながら叫んだ。
「ちきちょーっ! 何これ、なんだこれっ!!」
足場のない沼でも泳ごうとするように身体を捩る。
しかし影は波紋を広げるだけで、その暴れる身体を静かに飲み込み続けていた。
一方でダンデドールは違う。
胸まで沈み込んだまま、表情のない白い仮面をベルへ向け、身じろぎ一つしない。
ただ静かに。
植物のように。
影へ囚われていた。
ベルは息を整えながら前へ進む。
一歩。
また一歩。
焦る必要はない。
走らなくてもいい。
このまま確実に歩けば、キンサシャまで辿り着ける。
そのはずだ。
ふと視線が横へ流れる。
影に胸まで沈んだミリィ。
マリーナ。
ウルフ。
マークス。
そして警察隊の面々。
誰もが身動きを封じられたまま、虚ろな瞳でそこに立ち尽くしている。
ベルの胸が締めつけられた。
「もうすこしだけ……待ってて!」
その言葉を残し、ベルは再び前を向く。
残された時間は、もう多くない。
それでも足は止めない。
ただ真っ直ぐ、影に囚われたキンサシャだけを見据えて歩き続けた。
重い。
ただ一歩踏み出すだけで、全身が悲鳴を上げる。
ベルは足を引き摺るように、それでも前へ進み続けた。
一歩。
また一歩。
影に沈むことはない。
自分だけは、しっかりと地面を踏み締めながら歩いていく。
その代わり、脚は鉛よりも重く、呼吸をするだけで胸が痛んだ。
『ほぅら、あと三分。そのペースで間に合うのかしら?』
足元の影から、どこか愉快そうな声が響く。
ベルは顔をしかめた。
「ちょっと!? なんか楽しんでない!?」
『いいえ、そんなことは』
即答だった。
あまりにも即答だった。
その平坦な声音が、かえって怪しい。
ベルは息を切らしながら睨みつける。
「絶対楽しんでるでしょ……」
『気のせいです』
「絶対うそ!」
軽口を叩く余裕など、本当はない。
脚は震え、視界は揺れ、今にも倒れそうだ。
それでも口だけは動いた。
動かしていないと、不安に押し潰されそうだったから。
影は何も答えない。
ただ静かにベルの足元へ寄り添いながら、その歩みに合わせて揺れている。
そしてベルは、苦しげな息を漏らしながら、逃げ場を失ったキンサシャへ向かって、一歩ずつ距離を詰めていった。
ベルは息を切らしながら、一歩ずつキンサシャとの距離を縮めていく。
あと少し。
あと数歩。
その時だった。
「ベルゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!」
耳をつんざく叫び声。
思わず振り返ったベルの瞳に映ったものは、人ではなかった。
「なっ.,.なにそれ!?」
影に胸まで沈んでいたはずのデッドエンドの腰が、ぐにゃりと音を立てるように歪む。
次の瞬間、その身体が信じられないほど細長く伸び始めた。
腰。
腹。
胸。
首。
まるで溶けた飴を引き延ばすように、粘液質の身体がみるみる細く、長く変形していく。
影に固定された下半身だけを残し、上半身だけが何メートルも前方へ滑り出していった。
「キャハハッ♪ 捕まえたぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ♪」
伸び切った顔は狂気に歪み、口元からは七色の粘液が糸を引く。
その腕もまた異様に細長く変形し、ベルへ向かって一直線に伸びる。
指先が空気を裂く。
あと一歩。
あと指一本分。
その笑みは勝利を確信していた。
ベルの肩へ触れる。
そう思われた瞬間――。
足元の影が静かに波打つ。
ざわり。
黒い水面のような影から、一本の糸が浮かび上がった。
続いて二本。
三本。
十本。
数え切れないほどの細い影の糸が、蛇のようにうねりながらデッドエンドの細長く伸びた腰へ、胴へ、腕へと絡みついていく。
「……あれ?」
デッドエンドが間の抜けた声を漏らした。
引き伸ばされた身体がぴたりと止まる。
次の瞬間。
糸が一斉に締まった。
びんっ――!
張り詰めた弦が弾けるような音と共に、極限まで伸ばされていた身体が猛烈な勢いで縮み始める。
「ちょっ、ちょっと待っ――」
言葉は最後まで続かなかった。
ぐいっ。
影の糸が容赦なく引き寄せる。
伸びた腰が。
細くなった腹が。
捻れた胸が。
全て元の長さへ戻されながら、デッドエンド自身を後方へ引きずっていく。
「やだやだやだやだっ!」
両手で地面を掻こうとする。
しかし掴む先は影。
指先は何も捉えられず、ただ波紋だけが広がった。
「ベルぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
叫びながら腕を伸ばす。
その指先は、なおベルへ届こうと足掻いていた。
けれど影の糸は容赦しない。
ずるり。
ずるずるり。
最後には伸ばした腕ごと胸まで影へ引き戻され、その場へ縫い留めるように拘束した。
それでもなお、デッドエンドは諦めない。
歯を剥き出しにし、悔しそうに顔を歪めながら、ベルだけを睨み続けていた。
ベルは静かに前を向く。
もう振り返らない。
重たい足を引き摺りながら、ただ一人。
キンサシャへ向かって歩み続けた。
ベルはもう振り返らなかった。
その隙に重い足を前へ運ぶ。
ついにキンサシャの前へ辿り着く。
影に沈んだキンサシャは水晶玉を胸へ抱き締め、必死に首を横へ振った。
「い、いやさぁ……!」
ベルは震える手を伸ばし、その腕を掴む。
体力は限界だった。
それでも指先に力を込める。
一本。
また一本。
水晶玉へ絡みつく指をゆっくりと剥がしていく。
「か、返せ!返しとくれよぉ!」
キンサシャが叫ぶ。
だが抵抗は弱い。
最後の指が離れた瞬間、水晶玉がころりとベルの掌へ転がり落ちた。
ベルはそれを強く握り締める。
その瞳には、ようやく確かな希望の光が宿っていた。
ベルは震える手で水晶玉を握り締めた。
「これで……ようやく……」
安堵しかけたその瞬間。
背後から、くすくすと笑う声が聞こえる。
「そんなの手に入れてーどうすんのぉ?」
ベルは振り返る。
影に胸まで沈みながらも、デッドエンドは相変わらず楽しそうに笑っていた。
その笑みを見た瞬間、嫌な予感が胸をよぎる。
「決まってるでしょ! これでみんなを――」
言葉の途中で、ベルの視線は自然とミリィたちへ向かった。
マリーナ。
ウルフ。
マークス。
警察隊。
そしてミリィ。
誰一人として動かない。
虚ろな瞳のまま、影に沈み、操り人形のように立ち尽くしている。
何も変わっていなかった。
ベルの喉が凍りつく。
「……なんで!?」
デッドエンドは肩を震わせ、腹を抱えるように笑った。
「キャハハッ♪ 水晶玉がなければー、たしかに操ることはできないかもだけどー♪」
わざとらしく首を傾げる。
「でもー、そんだけだよね?」
ベルの手から血の気が引いていく。
握り締めた水晶玉が、急にただのガラス玉のように重く感じられた。
「くっ……どうするの!? どうやったら、解放されるの!?」
ベルはその場で膝をつくキンサシャへ詰め寄る。
胸倉を掴み、必死の形相で問い詰めた。
キンサシャの額には脂汗が滲み、唇は震えている。
それでも、その口元だけがゆっくりと歪んだ。
「ふ……」
かすれた笑い声。
「ダ、ダンデドールを倒さないと……解放されないさね」
その一言が落ちた瞬間。
ベルの心臓は、再び底へと沈んだ。




