逃げるベルー
ベルは振り返らなかった。
背後から響く足音も、デッドエンドの甲高い笑い声も、今は耳に入れない。
ただ前だけを見る。
公園の石畳を蹴り抜け、花壇を飛び越え、出口へ一直線に駆けた。
肺が焼けるように熱い。
喉はひりつき、呼吸はとうに乱れていた。
それでも足だけは止めない。
公園を抜けた先には街並みが広がっていた。
石造りの建物が立ち並び、細い路地と大通りが複雑に入り組んでいる。
ベルは迷わず人通りの少ない脇道へ飛び込んだ。
角を一つ曲がる。
その先から現れた老人が、虚ろな瞳のままゆっくりと両腕を広げた。
ベルは咄嗟に身をひねり、その脇をすり抜ける。
さらに曲がり角。
今度は買い物籠を抱えた女性が無言で立ちはだかる。
ベルは足を止めず、壁際ぎりぎりを駆け抜けた。
背後では次々と足音が増えていく。
追ってくる。
街そのものが、自分を捕まえようとしている。
「はぁっ……はぁっ……!」
胸が苦しい。
視界の端が白く霞む。
それでも走る。
路地を一本。
また一本。
何度も角を曲がり、建物の陰へ身を滑り込ませる。
ようやく人気のない細い路地裏へ飛び込むと、ベルは壁へ背中を預け、その場にしゃがみ込んだ。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
肩が大きく上下する。
汗が頬を伝い、地面へ落ちた。
耳を澄ませる。
遠くでまだ足音が響いている。
近づいているのか、遠ざかっているのかも分からない。
静まり返った路地裏には、自分の荒い呼吸だけが響いていた。
ベルは荒い呼吸を繰り返しながら、壁にもたれた。
汗で濡れた前髪が頬に張り付く。
胸の奥では心臓が激しく脈打ち続けていた。
――このまま夜まで逃げ切る?
そうすれば、夜の自分に全てを託せる。
あの自分なら、この絶望的な状況すら打ち破れるかもしれない。
だが。
脳裏に浮かぶのは、花畑に倒れたミリィの姿だった。
小さな身体。
苦しそうに咳き込み、虚ろな瞳のまま自分の首を締めてきた両手。
そして街の人々。
デッドエンドは「基本的には死なない」と言った。
基本的には。
その一言が、頭の中で何度も反響する。
――じゃあ、基本じゃなかったら?
体力のない子供は。
病気の人は。
お年寄りは。
本当に夜まで耐えられるのだろうか。
もし。
もし一人でも。
自分が時間を稼いでいる間に、取り返しのつかないことになったら。
「……っ」
ベルは唇を強く噛んだ。
逃げるのが正しいのか。
立ち向かうのが正しいのか。
夜を待つべきなのか。
今すぐ何かをするべきなのか。
答えはどこにもない。
ただ一つだけ分かるのは。
どの道を選んでも、誰かを見捨てるかもしれないということだけだった。
ベルは壁にもたれたまま、ゆっくりと目を閉じた。
落ち着け。
考えろ。
デッドエンドを止めても意味はない。
あれは軍師だ。
駒を動かしているだけ。
実際に人々を操っているのは、あの怪人。
そして怪人を動かしているのは――。
「キンサシャを止める……!?」
思わず声が漏れた。
脳裏に浮かぶのは、水晶玉を抱え、怯えながらデッドエンドの命令に従っていた占い師の姿。
ダンデドールに自我はない。
キンサシャが操っているから動いている。
ならば。
キンサシャの操作さえ止められれば。
怪人は止まる。
怪人が止まれば。
操られているミリィも。
マリーナも。
マークスも。
ウルフも。
そして街中の人々も。
「……あるいは」
胸の奥で、小さな希望が灯る。
それはあまりにも細く、今にも消えてしまいそうな光だった。
けれど今のベルには、それしか縋れるものがない。
夜を待つだけでは間に合わないかもしれない。
デッドエンドを倒す力もない。
残された道は、一つだけ。
キンサシャを止める。
その一点に賭けるしかなかった。
ベルは空を見上げた。
太陽はまだ真上にある。
日没までは、まだ数時間。
待ってはいられない。
「やるしかないよ」
覚悟を決めて立ち上がる。
その時だった。
路地裏の奥から、一人の男が姿を現す。
革鎧を纏った冒険者風の男。
だが、その足取りは不自然で、虚ろな瞳は何も映していない。
操り人形のようなぎこちない動きで、真っ直ぐベルへ歩み寄ってくる。
「うわっ……」
ベルは反射的に駆け出した。
狭い路地をひたすら走る。
曲がり角を抜けるたび、また別の人影が現れる。
だが幸いにも、その動きは速くない。
手を伸ばされる前に身をかわし、脇をすり抜け、さらに奥へ。
何度も息を切らしながら、それでも足だけは止めずに走り続けた。
やがて追ってくる人影が見えなくなる。
ベルは一度だけ後ろを振り返り、誰もいないことを確認すると、小さく息を吐いた。
まだ、逃げ切れている。
走りながら、ベルは必死に思考を巡らせる。
キンサシャを止める。
それしかない。
それだけは分かっている。
でも。
「どうやって……?」
答えは出ない。
キンサシャのいる場所は、公園。
デッドエンドがいて。
ダンデドールがいて。
操られた警察隊がいて。
ミリィがいて。
ウルフがいて。
仲間も敵も、全てがあそこに集まっている。
そこへ、自分から戻る。
ベルは唇を噛んだ。
さっき逃げられたのは、不意を突いたからだ。
誰も予想していない瞬間だった。
けれど今は違う。
一度逃げた以上、向こうも警戒しているはず。
待ち構えている場所へ、自分から飛び込む。
そんなことをして。
本当に、なんとかできるのだろうか。
昼の自分に。
あの包囲網を突破する力があるのだろうか。
走る足は止まらない。
だが、心だけが迷い続けていた。
公園へ戻る。
それは希望なのか。
それとも、自ら檻へ戻るだけなのか。
ベルには、まだ答えが出せなかった。
走りながら、ベルはふと両手を目の前へ掲げた。
細い指には、静かに光を宿す九つの指輪。
昼の自分では姫神を呼び出せることは滅多にない。
それでも、力を借りることはできる。
決して強くはない。
夜の自分のような圧倒的な力には遠く及ばない。
けれど、何もできないわけじゃない。
指先を見つめたまま、ベルはゆっくりと息を吸う。
そして、ぎゅっと両手を握り締めた。
「……やるしか、ないっ!」
迷いは消えた。
勝てる保証なんてない。
無事に帰れる保証もない。
それでも、このまま逃げ続けているだけでは何も変わらない。
足取りがわずかに力強くなる。
ベルは進むべき方向を定めると、迷うことなく石畳を蹴った。
目指す先はただ一つ。
再び、公園だった。
遠回りになっても構わない。
今は一秒でも長く生き延びることより、公園へ辿り着くことが先だ。
ベルは人通りの多い通りを避け、細い路地や建物の影を選びながら走り続けた。
角を曲がるたびに周囲を確認する。
虚ろな瞳の住民を見つければ足を止め、物陰へ身を隠す。
相手が通り過ぎるのを待ち、再び走り出す。
時にはすれ違いざまに腕を伸ばされることもあった。
そのたびに身体をひねり、紙一重でかわしながら前へ進む。
息は荒く、脚は重い。
それでもベルは止まらなかった。
何度も遠回りを重ね、街を大きく迂回しながら。
操られた人々の包囲を縫うように抜けていく。
目指す先は変わらない。
ベルはただ、公園へ戻るためだけに走り続けていた。
戻ってどうする。
このまま戻るのか。
策もないまま。
何もできずに捕まるだけなのか。
ベルの頭の中を、不安だけがぐるぐると渦巻いていた。
キンサシャを止める。
それしか思いつかない。
でも、どうやって。
公園にはデッドエンドがいる。
ダンデドールがいる。
操られた警察隊がいる。
ミリィもいる。
あの包囲網を突破して、キンサシャへ辿り着けるのか。
辿り着いたとして。
止められるのか。
「……いっそ」
一つの考えが脳裏をよぎる。
キスをする。
自分を犠牲にして、みんなを助ける。
それで終わるなら。
それが一番確実なのではないか。
だが、その足は止まらない。
本当に。
本当に皆が助かる保証はあるのか。
デッドエンドの言葉を、信じていいのか。
あの女が約束を守る保証なんて、どこにもない。
もし騙されていたら。
自分だけが捕まり。
みんなも助からない。
最悪の結末だ。
「うぅ……」
走りながら考える。
考えようとする。
けれど、肺は悲鳴を上げ、頭は酸欠でぼんやりと霞んでいく。
息を吸うだけで精一杯だ。
まともに思考がまとまらない。
それでも足だけは前へ動き続ける。
答えは出ない。
何一つ決まらない。
ただ、胸の奥にある焦りだけが、鼓動とともに激しく鳴り響いていた。




