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【World Wide Love ― 2人で1人の逃走譚 ―】  作者: KK
【第2部】第7章ー人の盾ー

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罠にはまったのはー

 その時。


 ミリィが小さく口元を押さえた。


「コホッ……」


 短い咳だった。


 ベルはすぐにミリィの前へ立ち、背中で庇うように両腕を広げる。


 真っ直ぐハーブを見据え、その瞳には一切の迷いがない。


「残念ね! 今回は私達が罠を張らせてもらったわ!」


 その言葉が公園に響いた瞬間。


 ハーブのこめかみが、ぴくりと揺れた。


 浮かべていた柔らかな笑みは消えていない。


 けれど、その奥にわずかな苛立ちが滲む。


 風が吹き、花びらと白い綿毛が三人の間を静かに横切っていった。


 ハーブはベルを見つめたまま、ゆっくりと瞬きをする。


 その笑顔だけは、相変わらず崩れないままだった。


 ベルは懐へ手を伸ばす。


 取り出したのは、小さな銀色の笛だった。


 それを唇へ当て、大きく息を吸い込む。


 そして、力いっぱい吹き鳴らした。


 だが、公園には何の音も響かない。


 花々を揺らす風だけが静かに吹き抜けていく。


 ハーブは不思議そうに首を傾げ、柔らかく微笑んだ。


「あら残念、壊れていたのかしら?」


 その言葉に、ベルは口元を吊り上げる。


「犬笛って知ってる?」


 ハーブの瞳が静かに周囲へ向けられる。


「……なるほど」


 その瞬間だった。


 花壇を眺めていた男女が、ゆっくりと立ち上がる。


 ベンチで休んでいた旅行者風の青年たちが、何気ない足取りで歩き始める。


 地図を広げていた女性が紙を畳み、視線だけをこちらへ向けた。


 一人、また一人。


 互いに示し合わせた様子もなく、それでいて不思議なほど自然に位置を変えていく。


 気付けば、ベルとミリィ、そしてハーブを中心に、大きな輪ができていた。


 逃げ道を塞ぐように。


 花畑の中に漂っていた穏やかな空気が、いつの間にか張り詰めている。


 ベルはニヤリと笑みを深くした。


 その輪の向こう側。


 人の流れが静かに左右へ割れる。


 奥から、一人の女性がゆっくりと歩み出た。


 腕を組み、落ち着いた足取りで。


 その半歩後ろには、赤髪の青年が静かに付き従っている。


 二人は無言のまま歩みを進め、ベルたちの前で足を止めた。


 ハーブは頬に片手を当て、目の前へ現れた人影を見つめる。


「あらあら、たしかあなたはー」


 その人物はベルとハーブの間へ静かに歩み出ると、懐から一冊の手帳を取り出した。


 ぱちり、と開かれた手帳がハーブの前へ掲げられる。


「大陸警察地方特別捜査官警部、マリーナ」


 続いて、その後ろにいた赤髪の青年も一歩前へ出た。


「同じくマクスウェル警部補だ!」


 青年も同じように手帳を開き、短く身分を示す。


 確認するだけの時間を置き、二人は揃って手帳を懐へしまった。


 マリーナは腕を組み直し、切れ長の瞳でハーブを真っ直ぐ射抜く。


「東大陸ギルドKeilflammeのハーヴェストだな。一緒に来てもらおうか」


 その場の空気が一段と張り詰める。


 しかし、当のハーブは肩を揺らしてくすくすと笑った。


「どうしてー?」


 まるで本当に理由が分からないとでも言いたげに、小首を傾げながら。


マリーナは腕を組んだまま、冷たい視線をハーブへ向ける。


「容疑を挙げればキリがないが、自分の胸にきいてみろ」


 言い放った、その直後だった。


「……コホッ」


 小さく、短い咳が漏れる。


 ほんの一度だけ。


 マリーナは気にも留めず、口元へ軽く拳を当てると何事もなかったように腕を組み直した。


 後ろに立つマークスが心配そうに横目を向ける。


「警部、大丈夫ですか?」


「問題ない」


 即答だった。


 その様子を眺めていたハーブは、目を細める。


 そして、くすりと笑った。


「そう」


 その笑みの意味を、この場の誰もまだ理解していなかった。


 ハーブは抵抗する素振りも見せず、両手を揃えて前へ差し出した。


「これでいいのかしら?」


 穏やかな微笑み。


 その余裕ある態度に、マリーナとマークスはかえって警戒を強める。


「……どういうつもりだ?」


 マリーナは腰からトンファーを抜き放ち、静かに構えた。


 隣ではマークスも伸縮式警棒を一振りで伸ばし、低く身構える。


 それを合図としたかのように、周囲を囲んでいた者たちも一斉に動いた。


 上着の内側。


 腰のホルスター。


 バッグの中。


 それぞれが隠していた拳銃を抜き、音もなくハーブへ照準を合わせる。


 数十の銃口が、一人の女へ向けられた。


 それでもハーブは笑みを崩さない。


「どういうつもりって……逮捕しに来たんでしょう?」


 ゆっくりと周囲を見回し、小さく感心したように頷く。


「観光客に擬装した警察隊、ね。でもどっちみち、私に物理攻撃は効かないわよ?」


 マリーナの表情は微動だにしない。


「本日、我々が装填して来たのは限定結界弾だ」


 その一言に。


 初めてハーブの目がわずかに見開かれた。


 後ろからマークスが口元に笑みを浮かべる。


「破壊力はないけど、スライム捕縛には効果があるってね!」


 公園の空気が、一気に張り詰めた。


 ハーブはふと、マリーナの肩越しにベルへ視線を送った。


「これがあなたの言う、罠?」


 ベルは答える代わりに、ゆっくりと右手を持ち上げる。


 その指先はハーブを通り越し、さらにその後ろを指していた。


「それだけじゃないわ」


 ハーブを囲む輪の中から、一人の男が前へと歩み出る。


 そのままハーブの背後で足を止めた。


「HEY! 俺のことも忘れないでくれよな?」


 親指で自分を指しながら笑うウルフ。


 その左手には、小さな砂時計が静かに時を刻んでいた。


 ハーブは振り返りもしない。


 前を向いたまま、小さく呟く。


「ウルフは確か領域能力持ち...そう」


「ちゃんと準備したのね」


 ベルは力強く頷いた。


「そうよ! あなたは私たちを誘い込んだつもりみたいだけど、残念ね! 誘い込まれたのはあなたの方よ!」


 一歩前へ踏み出し、真っ直ぐハーブを指差す。


「今日こそ観念なさい! ハーブ!」


 四方は警察隊。


 正面にはマリーナとマークス。


 背後にはウルフ。


 そして逃げ場のない花畑の中央で、ハーブだけが変わらぬ微笑みを浮かべていた。


 ハーブは、ふっと肩の力を抜いた。


 そして、両手を揃えてゆっくりと前へ差し出す。


「じゃ、まいった」


 その顔には、変わらぬ笑顔が浮かんでいた。


 あまりにもあっさりとした降参宣言。


 だからこそ、その場にいる誰もが警戒を緩めない。


 マリーナはトンファーを構えたまま、一歩も動かなかった。


「もう一度聞く。どういうつもりだ?」


 ハーブは困ったように眉を下げる。


「だから捕まえに来たんでしょ? 降参よ。よかったわね」


 その声には焦りも悔しさもない。


 まるで予定通りだと言わんばかりだった。


 背後からマークスが静かに歩み寄る。


 警棒は下ろさず、小さく囁いた。


「警部……変ですよ。こいつ」


 その直後だった。


「コホッ」


 短い咳が漏れる。


 マリーナは視線をハーブから外さないまま、低く答えた。


「わかっている。何かおかしい」


 そう口にした彼女もまた、


「……コホッ」


 小さく咳き込む。


 その音は、静かな公園では妙に大きく響いた。


 そして――。


「ゴホッ」


「コホッ」


「……コホ」


 周囲からも、ぽつり、ぽつりと咳が聞こえ始める。


 ハーブを取り囲む警察隊。


 拳銃を構えた者たち。


 輪の外で包囲を維持する者たち。


 誰かが咳をし、その隣もまた咳をする。


 やがてその波は広がっていった。


 背後ではウルフが眉をひそめる。


「……チッ」


 砂時計を握る手はそのままに、軽く口元を押さえた。


「コホッ」


 ミリィも胸を押さえ、小さく身体を丸める。


「……コホッ、コホッ」


 咳は次第に回数を増し、包囲網全体へと伝染していく。


 その異様な光景の中。


 ただ一人。


 ベルだけは何事もなく立ち尽くしていた。


 咳ひとつ出ない。


 目の前で広がる光景を見つめ、ベルの瞳が大きく見開かれる。


「――まさか!?」


デッドエンドは消えた左肩を見つめたまま、珍しく笑みを引きつらせた。


ぽっかりと空いたそこには、傷口すら存在しない。


再生も、増殖も、何も起こらない。


まるで最初からその部分だけ世界から切り捨てられたようだった。


マリーナは銃を構えたまま、一歩も退かない。


「限定結界弾は周囲の空間ごと対象を消失させる」


静かな声だった。


だが、その言葉には絶対の自信が滲んでいる。


マークスが銃口を下げることなく口を開いた。


「本来は対吸血鬼用だけどな!」


その説明を聞き、ベルは小さく目を見開く。


「す..すごい!さすがマリーナさん」


「限定結界弾提案したの俺なんだけど!」


マークスが叫ぶ。


不死だから倒せない。


ならば、不死ごと存在する空間を削り取る。


そんな理屈だった。


一方、デッドエンドは左肩の消えた箇所へ何度も視線を送り、そして周囲を見回した。


いつもの笑顔はそのまま。


それでも、その瞳の奥には隠し切れない驚きが浮かんでいた。


初めて、自分の常識の外側にあるものへ触れたように。

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