責任の取り方ー
向かいの宿の一室。
灯りもつけられていない暗い部屋の中で、キンサシャは立ったまま身動きが取れずにいた。
首から下、その全身は膨大な粘液に飲み込まれている。
粘液は生き物のように脈打ち、肩や腕へ絡みつきながら、じわりじわりと身体を締め上げていた。
その正面。
銀色の髪を静かに揺らし、ミントグリーンのワンピースを纏ったハーブが、いつもの穏やかな微笑みを浮かべて立っている。
まるで友人と世間話でもするかのような優しい表情だった。
「ダチュラドールに続いて、ミラードールまで……私の人形を壊してくれちゃって、本当に困ったわね」
その声音に怒気はない。
だからこそ、余計に恐ろしい。
キンサシャは慌てて首を振る。
「そ、それはあたしのせいじゃないさね! あんたの人形の――」
言葉は最後まで続かなかった。
身体を覆う粘液の一部がするりと伸びる。
細い触手のように口元へ這い上がり、そのまま唇を押し開いた。
「んっ――!」
抵抗する間もなく、粘液が口の中へ流れ込む。
喉を塞がれ、キンサシャは目を見開いた。
必死にもがく。
だが、身体は粘液に拘束され、一歩も動けない。
喉の奥から苦しげな音だけが漏れた。
ハーブはその様子を眺めながら、人差し指をそっと顎へ当てる。
「幻覚は失敗したけど、今回はうまくいくと思ったのだけれど……」
小首を傾げ、困ったように微笑む。
「結局はどちらもベルが規格外なのが問題なのよねー……本当困っちゃう」
くすり、と笑う声だけが暗い部屋へ響いた。
しばらく考え込むように天井へ視線を向ける。
そして何かを決めたように頷いた。
「次はそうね……」
一拍置き。
「ま、帰ってから考えましょ」
ハーブは困ったように笑ったまま、小さく首を傾げた。
「その前にー」
その一言だけ残し、ゆっくりと歩き出す。
足音ひとつ立てない。
銀色の髪が静かに揺れ、ミントグリーンのワンピースの裾が柔らかな軌跡を描く。
まるで舞踏会へ向かう貴婦人のような、優雅な足取りだった。
キンサシャの目の前で立ち止まる。
震える身体を見下ろし、ハーブは微笑んだ。
その笑顔はどこまでも穏やかで、慈愛に満ちているようにすら見える。
細い指先が伸びた。
キンサシャの顔を覆うヴェールへ触れる。
するり。
ゆっくりと。
丁寧に。
宝物でも扱うような手つきで、その布を捲り上げていく。
隠されていた素顔が暗闇の中へ晒された。
ハーブは何も言わない。
ただ静かに身を屈める。
顔と顔の距離が少しずつ縮まっていく。
吐息が触れそうなほど近くまで。
その瞬間。
粘液に拘束されたままのキンサシャの肩が、小刻みに震え始めた。
口を塞がれたまま、喉の奥からくぐもった声が漏れる。
逃げられない。
身を引くこともできない。
ただ、目の前まで迫るハーブの顔を見つめるしかなかった。
その瞳には、怒りも狂気も映っていない。
穏やかで。
優しくて。
だからこそ、キンサシャの震えは止まらなかった。
ハーブは、にこやかな微笑みを崩さない。
「この前のお仕置きは楽しかったわね。今度は何をしようかしら?」
独り言のように呟きながら、ゆっくりと腕を伸ばす。
キンサシャの身体を覆う粘液へ。
白い指先が触れた瞬間、粘液はまるで主人を迎え入れるように静かに波打った。
抵抗することもなく、その手を受け入れていく。
するり。
ぬめる音さえ立てず、ハーブの腕は肘の先まで粘液の中へ沈んでいった。
そうして粘液の中のキンサシャの身体に弄ぶ様に触れる。
拘束されたキンサシャの肩が、大きく震える。
目を見開き、息を詰まらせる。
口を塞ぐ粘液の奥から、くぐもった声だけが漏れた。
ハーブはその反応を見つめ、小さく目を細める。
「今夜も楽しみましょう」
その穏やかな声音だけが、静まり返った暗い部屋へ静かに溶けていった。
ハーブの銀髪が、さらりとほどけた。
肩を流れていた髪は高い位置で結い上げられ、左右に揺れる銀髪のツインテールへと変わっていく。
同時に、ミントグリーンのワンピースが水面のようにぐにゃりと波打った。
柔らかな布地は色を失い、やがてカラフルで毒々しいゴスロリボンテージへと姿を変える。
細い脚には左右色違いのボーダーニーハイ。
腰には派手な鞭が揺れていた。
顔だけは変わらない。
けれど、その表情だけはまるで別人だった。
鋭く細められた瞳。
舌を覗かせ、にんまりと歪む笑み。
そこにいたのは、もはやハーブではない。
「この前はハーブがかわいがってあげたみたいだからー」
「今夜はデッドちゃんの番だよー♪」
そう言って、粘液の外に残っていたもう片方の手をゆっくりと持ち上げる。
そして何のためらいもなく、その腕もまたキンサシャの身体を包む粘液の中へ沈めていった。
その瞬間。
キンサシャの目が大きく見開かれる。
身体を震わせ、逃れようともがく。
だが、首から下を覆う粘液は容赦なくその動きを封じ込めていた。
部屋の中には、デッドエンドの愉快そうな笑い声だけが静かに響いていた。
デッドエンドが声を上げて笑う。
楽しそうに。
「ほらほら〜♪ ここ〜? ここかな〜? どこがいーのかなー? キャハハッ」
粘液の中へ沈んだ両腕が、ゆっくりと動く。
そのたびに、拘束されたキンサシャの身体がびくりと震えた。
目は限界まで見開かれ、呼吸は乱れ、口を塞ぐ粘液の奥から押し殺したような声が漏れる。
デッドエンドはその反応を見るたびに、子供がおもちゃを見つけたような笑顔を浮かべた。
「やっぱりキンサシャちゃんは面白いねー♪」
首を傾げ、ツインテールを揺らす。
左右色違いのボーダーニーハイが小さく揺れ、腰の派手な鞭がかちゃりと音を立てた。
キンサシャは必死にもがく。
だが、首から下を包む粘液は逃げ道を一切与えない。
暗い部屋の中に響くのは、デッドエンドの無邪気な笑い声と、拘束された怪人の荒い息遣いだけだった。
キンサシャの口を塞いでいた粘液が、ずるりと音を立てて離れた。
空気を求めるように大きく息を吸い込み、そのまま激しく咳き込む。
何度も何度も。
肩を震わせ、涙を滲ませながら。
やがて咳も収まる。
だが、その瞳はどこにも焦点を結んでいなかった。
力なく開かれたままの目は虚空を見つめ、頬を伝う涙だけが静かに零れ落ちる。
その様子を見下ろしたデッドエンドは、心底嬉しそうに目を細めた。
「いーぃ顔してるしー♪ キャハハッ」
甲高い笑い声が部屋に響く。
粘液の中から両手をゆっくりと引き抜く。
糸を引くように滴が垂れ、床へ落ちて小さな音を立てた。
粘液まみれの両手でキンサシャの顔を撫でまわし、口の中を指で掻き回す。
そうして舌を伸ばして、キンサシャの唇に唇を重ねる。そうしてゆっくりと味わった後に顔を離す。
怯えも抵抗も見せられなくなったキンサシャの顔を覗き込み、満足そうに頷いた。
まるで自分の作品の出来栄えを確かめる芸術家のように。
「キャハハッ♪まだまだ夜はながーいからねー♪」
その笑みだけが、暗い部屋の中で不気味なほど明るく浮かび上がっていた。
デッドエンドが顎に指を当て、じっと考え込む。
鋭い瞳が宙を泳ぎ、やがて何かを思いついたようにぱっと顔を輝かせた。
「そっかぁ〜♪」
右手を高く掲げる。
その掌から、とろりと粘液が溢れ出した。
糸を引きながら滴り落ちるそれは、空中で絡み合い、幾重にも重なり合って一つの塊へと変わっていく。
やがて粘液は形を保ち始め、腕よりも太い棒状の異形へと姿を変えた。
表面には不規則な突起がいくつも浮かび上がり、生き物のようにゆっくりと脈打っている。
まるで誰かの悪夢を、そのまま形にしたような代物だった。
デッドエンドは完成したそれを眺め、満足そうに頷く。
「こんなの? どぉかなぁ〜? キャハハッ♪」
甲高い笑い声が部屋中に響く。
拘束されたキンサシャは、その異様な造形から目を離せない。
虚ろだった瞳に再び恐怖の色が宿り、肩が小刻みに震え始める。
逃げようにも、身体は粘液に絡め取られたまま微動だにしない。
デッドエンドはそんな反応さえ面白がるように、異形の塊をくるくると弄びながら首を傾げた。
「簡単に壊れたりしないでねー?キャハハッ♪」
その言葉だけで、キンサシャの喉がひくりと震えた。
暗い部屋の中で、笑い声だけがいつまでも軽やかに響き続けていた。




