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【World Wide Love ― 2人で1人の逃走譚 ―】  作者: KK
【第2部】第6章ーシスターアリスの秘密ー

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事の終わりー

ミラードールの身体は、真っ直ぐ床へ叩き込まれた。


木板は悲鳴を上げる暇すらない。


轟音とともに砕け散り、そのまま一階まで一直線に貫いていく。


舞い上がる土煙。


飛び散る木片。


宿の中央には、大人が数人並んで通れそうな大穴だけが残された。


ベルは無言でその穴の縁まで歩み寄る。


見下ろした先。


一階の石床へ深々とめり込んだミラードールの姿があった。


身体はもはや人ではない。


輪郭だけを保った、巨大な鏡。


無数の亀裂が全身へ走り、そこへ宿の灯りが反射して鈍く揺れていた。


「な、なんだこれは!」


「宿がぁっ!」


慌てふためくオーナーの叫びが響く。


だがベルは一度も振り返らない。


そのまま穴へ身を投げた。


軽く着地すると、石床へ埋まったミラードールの前へ膝をつく。


割れた鏡面の奥へ、右手をゆっくりと差し入れた。


ぐにり。


ざらり。


冷たいようで柔らかく、硬いようで沈み込む。


有機物とも無機物ともつかない奇妙な感触に、ベルはわずかに眉を寄せる。


それでも迷いなく腕を奥へと押し込んだ。


胸の中心。


そこだけが赤く脈打っている。


鼓動するたび、鏡の内側から血管のような光が全身へ広がっていた。


ベルはそれを掴む。


力任せに引き抜いた。


ぶちり、と何かが千切れる音。


掌の中には、赤い光を放ちながら脈動する魔王核があった。


生き物の心臓のように。


なおも規則正しく鼓動を刻んでいる。


その瞬間だった。


ミラードールの身体へ、新たな亀裂が走る。


一本。


二本。


三本。


やがて無数のひびが全身を覆い尽くした。


壊れた鏡のように。


静かに。


音もなく。


身体は砕け始める。


欠片は床へ落ちる前に光となり、夜気へ溶けて消えていく。


誰かの顔を映していた鏡は。


最後には何も映さず。


ただ、砕けて消えるだけだった。


ベルは掌の魔王核と、消えゆく残骸を交互に見つめる。


やがて何も言わず、自らの足元へ視線を落とした。


伸びた影へ向かって、魔王核をそっと手放す。


赤い核が影へ触れた瞬間。


黒い地面が、水面のように静かに揺れた。


波紋が幾重にも広がり。


魔王核は抵抗することなく、その中へゆっくりと沈んでいく。


最後に赤い光が一度だけ明滅し。


影は何事もなかったかのように元の形へ戻った。


そこにはもう、何も残っていなかった。


ベルは静かに目を閉じた。


つい先ほどまで怪人だった場所には、もう何も残っていない。


砕けた鏡片すらなく。


夜の静寂だけが広がっていた。


やがて小さく息を吐く。


そして、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。


「あばよ……シスターアリス」


その言葉は、怪人へ向けたものではない。


姿を穢され、利用され、それでもベルの中で決して色褪せることのない、たった一人の恩人へ向けた別れだった。


ベルは踵を返す。


ゆっくりと。


一歩ずつ。


崩れた床の脇を通り、軋む階段へ足をかけた。


「ま、待ってくれ!」


「この宿はどうしてくれるんだ!」


「お、お客さん!」


宿のオーナーが必死に叫ぶ。


その声は一階中へ響き渡り、震えながらベルの背中へ投げかけられる。


だが。


ベルの耳には届いていなかった。


いや、届いていても、何も入ってこない。


ただ静かに階段を登る。


一段。


また一段。


その背中だけが、夜の薄暗い宿の中をゆっくりと遠ざかっていく。


怒りはもう消えていた。


残っているのは、胸の奥にぽっかりと空いた、埋めようのない静かな穴だけだった。



暗い部屋の中。


椅子へ拘束されたままのミリィは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


視界は霞み、焦点も合わない。


喉は焼けるように渇き、身体には力が入らない。


どれだけ時間が経ったのかもわからなかった。


ただ、意識だけが浮かんでは沈み、また浮かぶ。


その時だった。


勢いよく扉が開く音が響く。


重たい瞼の向こう。


逆光の中に、一つの人影が立っていた。


雨に打たれ続けたのだろう。


全身ずぶ濡れで、水滴を床へ落としながら。


肩で息をし。


それでも真っ直ぐこちらを見ている。


リーゼントの黒髪。


細長い身体。


見慣れたダッフルバッグ。


「……ウルフ、さん……?」


声にならない声が漏れる。


その姿が本物なのか。


幻なのか。


ミリィにはもう判断できなかった。


安心したように瞼が重くなる。


そこで意識は、ぷつりと途切れた。


その後のことは何も覚えていない。


誰が拘束を外したのか。


誰に抱き上げられたのか。


どうやって外へ出たのか。


雨は止んでいたのか。


何ひとつ。


ただ。


次に目を開けた時。


柔らかな布団の感触が背中を包んでいた。


見慣れた宿の天井。


窓から差し込む淡い光。


そして、自分がベッドの上で眠っていたことだけを、ぼんやりと理解した。


宿の一室。


窓の外では、雨上がりの雫が軒先から静かに落ちていた。


その部屋の鏡の前に、一人の黒髪の少女が立っている。


赤く腫れた目。


涙の跡がまだ頬に残っていた。


鏡の向こうには、銀髪の少年が映っている。


まるで鏡越しに向かい合うように、二人は互いを見つめていた。


少年が小さく肩をすくめる。


「だからさー、シスターがそんなことするわけないだろ?」


少女は唇を噛み締める。


「でも……だって……」


言葉の続きを飲み込み、また涙が零れた。


少年は困ったように頭を掻く。


「シスターが俺たちを拾ったのは、神託があったからかも知んねぇ」


一拍置き、優しく続けた。


「でもな? シスターは神託なんてなくたって、きっと俺たちを見つけたら、同じ様に連れ帰って、メシ食わせて風呂に入れて、そんで育ててくれたさ」


少女は何度も頷く。


「うん……うん……」


少年は苦笑した。


「お前も知ってるだろ? 俺がどんだけシスターの手を焼かせたか」


その言葉に、少女も少しだけ口元を緩める。


「うん……偉そうに言うことじゃないけどね……」


「だろ?」


少年は鼻で笑う。


「あんなんさ……神託だけが理由なら誰だって投げ出すさ」


少女は俯いたまま、小さく返した。


「うん……」


少年は鏡越しに少女を真っ直ぐ見つめる。


「だってさ、そもそもシスターには……俺たちを育てたことで、なんか得することあったか?」


少女は言葉に詰まった。


ゆっくりと思い返す。


いつも質素な食事。


擦り切れた修道服。


眠る時間を削って働く姿。


自分たちが熱を出せば、一晩中そばについていてくれた手。


「……それは……」


言葉にならない。


少年が静かに続ける。


「ないだろ? 面倒ごとばかり背負わされて苦労ばかりして……いいことなんてなかったんだ……」


少女は目を閉じた。


涙がまた頬を伝う。


「……うん、そうだね」


その返事だけで十分だった。


鏡の向こうの少年は何も言わない。


ただ静かに笑う。


少女もまた、小さく笑った。


泣き顔のまま。


それでも、その笑顔だけは、少しだけ昔のベルに戻っていた。


鏡の中の少年ベルと。


その前に座る少女ベル。


二人は揃って俯いていた。


言葉を失い。


ただ静かに、自分たちの過去を噛み締めるように。


その光景を、ベッドの上から見つめていたミリィは、重い身体を震わせた。


力の入らない腕を無理やり持ち上げる。


布団を掴み。


歯を食いしばりながら上体を起こした。


震える指先を二人へ伸ばす。


そして、叫ぶ。


「……そんなこと……ありません!」


突然響いた声に。


少年ベルが振り返る。


「おぉ! 起きたか!」


少女ベルも目を丸くし、安堵したように微笑む。


「……ミリィ、よかった……」


けれど、ミリィは二人の反応など見ていなかった。


ただ必死に首を振る。


涙を浮かべながら。


「きっと……きっとシスターアリス様は……幸せでしたっ!」


部屋の空気が静まり返る。


ミリィは荒い呼吸を繰り返しながら、それでも言葉を止めなかった。


「ベルさんたちを育てて……苦労ばかりだったかもしれません……」


一度、大きく息を吸う。


「でも、それでも……幸せだったはずです!」


少女ベルの瞳が揺れた。


ミリィは真っ直ぐに二人を見る。


「好きだから苦労するんです」


「大切だから心配するんです」


「愛しているから、一緒にご飯を食べて、お風呂に入れて、叱って、笑って……育てるんです」


その声は掠れていた。


衰弱した身体では、それだけ話すことすら苦しい。


それでも止まらない。


「もし本当に嫌だったなら……とっくに放り出しています」


「神託なんて関係ありません」


「シスターアリス様は、ベルさんたちを育てたかったんです」


「ベルさんたちと、一緒に生きたかったんです」


言葉が終わる頃には、ミリィ自身も泣いていた。


頬を伝う涙を拭うこともせず。


ただ静かに笑う。


「だから……幸せでした」


「きっと、誰よりも」


鏡の中の少年は、何も言わなかった。


少女ベルもまた、言葉を失う。


ただ二人とも、ミリィの方を見つめたまま。


その瞳には、先ほどまでとは違う温かな光が、ゆっくりと戻り始めていた。


ミリィは震える指で、自分の服の裾をぎゅっと掴んだ。


力など残っていない。


それでも、その手だけは離さない。


呼吸を整えながら、ゆっくりと口を開く。


「もちろん、見たわけでもないし、お会いしたわけでもないから……本当のところはわかりませんけど……」


声は弱々しく、今にも途切れそうだった。


それでも一言一言を大切に紡ぐ。


「でも、二人のベルさんの……シスターアリス様への気持ちを見ていると……わかるんです」


少女ベルが息を呑む。


鏡の中の少年も、静かに耳を傾けていた。


「愛して、愛されて……いたんだなって」


ミリィの瞳が、少しだけ柔らかく細められる。


「素敵な関係だったんだなって……」


部屋の中は静まり返っていた。


誰も言葉を挟まない。


ただ、ミリィの声だけが静かに響く。


「だから……」


小さく息を吸う。


「思い出を信じて」


「自分の気持ちを信じて……くだ……しゃい」


最後の言葉は、かすれていた。


言い終えた瞬間。


張り詰めていた糸が切れたように、ミリィの身体がふらりと揺れる。


そのまま前へ倒れ込んだ。


「ミリィ!」


「おい!」


少女ベルと鏡の中の少年が同時に声を上げる。


少女は慌てて駆け寄り、その小さな身体を抱き止めた。


鏡の向こうからも、少年が必死に名を呼び続ける。


「ミリィ! おい、しっかりしろ!」


遠くから響くその声を聞きながら。


ミリィの意識は、ゆっくりと深い闇の底へ沈んでいった。


けれど、その口元には。


ほんのわずかに、安堵したような微笑みが残っていた。




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