あの世で詫びろー
シスターアリスは、ゆっくりと腕を伸ばした。
震えたまま止まっているベルの拳へ、そっと両手を重ねる。
冷たくも温かくもない、不気味な感触。
そのまま包み込むように握ると、口元をにやりと吊り上げた。
「母親……ママ……へぇー、ふぅん。そうかい」
愉快そうに呟きながら、一歩だけ身を寄せる。
そして、ベルの右手を自分の胸元へと押し当てた。
「母ちゃんの胸はどうだい? うれしいだろ?」
その瞬間。
ベルの全身がびくりと震えた。
呼吸が乱れる。
喉が詰まり、言葉にならない。
目の前にいるのは偽物だ。
頭では理解している。
それでも、この姿だけは。
この人だけは。
穢されたくなかった。
「やめろ……」
かすれた声が漏れる。
シスターアリスはさらに口角を上げた。
ベルの苦しむ顔を見つめ、瞳を細める。
「やめろぉ……」
その叫びは怒号ではなく、悲鳴だった。
幼い頃から胸の奥に抱き続けてきた、大切な思い出が踏みにじられていく。
ベルは拳を引くことも、振り払うこともできない。
ただ震えながら、目の前の偽物を睨みつけるしかなかった。
その瞳には、怒りと悲しみと、どうしようもない無力感が渦巻いていた。
シスターアリスは喉の奥を震わせ、笑い始めた。
「ふはっ、ふははははははっ!」
笑い声は部屋いっぱいに響き渡り、やがて狂気を帯びていく。
「気持ちいい! 気持ちいいもんだねぇ! 自分を強いと思ってる奴を好きにできると言うのはさぁ」
そのままベルの拳を包み込んだ両手を離さず、指先をなぞるように腕へと這わせていく。
ゆっくりとベッドから降り立つと、ベルの目の前まで歩み寄った。
そして何の躊躇もなく、その身体へと腕を回す。
ベルは動かなかった。
動けなかった。
抱きしめられたまま、歯を食いしばる。
目の前の姿が、本物ではないと理解しているからこそ。
それでも心だけは、あの日々を忘れられないからこそ。
シスターアリスはベルの胸元へ額を寄せ、にんまりと口元を吊り上げた。
「さぁ、どうしてくれようか」
挑発するような囁き。
その声だけが静かな部屋に落ちる。
ベルの拳はなおも震えていた。
怒りで。
悲しみで。
そして、自分自身への苛立ちで。
目の前の偽物を叩き潰せばいい。
頭では何度もそう命じている。
だが、身体は一歩も動かなかった。
シスターアリスの姿を借りたその怪物は、その様子を見て満足そうに目を細める。
ベルの弱さを。
優しさを。
何より、決して捨てられない想いを。
そのすべてを弄ぶように、薄く笑みを浮かべ続けていた。
シスターアリスは、ぴたりと動きを止めた。
何かを思いついた子供のように。
口元だけが、不自然なほど大きく吊り上がる。
「そうだ……」
その笑みはさらに歪む。
「もう一人いたねぇ……あんたの大切な女が」
言葉が落ちた瞬間。
全身が鏡面のような輝きに包まれた。
肌が。
髪が。
シスター服が。
まるで鏡へ映った景色を書き換えるように、一瞬だけ銀色の反射を帯びる。
キラン、と光が走る。
それだけだった。
溶けることも、崩れることもない。
次の瞬間には、もう別人になっていた。
揺れるのは燃えるような赤いロングツインテール。
肩から翻る真紅のマント。
薄く精巧な意匠が刻まれた真紅の鎧が、身体の線に沿って美しく輝く。
腰まで届く髪が揺れ、その背には巨大な剣が静かに収まっている。
手には持たず。
ただ、そこにあるだけで圧倒的な存在感を放っていた。
女はゆっくりと顔を上げる。
その姿は、ベルの知るアンジュそのもの。
だが。
瞳の奥だけは違う。
底知れぬ悪意と嘲笑だけが宿っていた。
「どうしましたの?」
アンジュの顔で、口元だけが不気味に歪む。
「私のことも殴れますの?」
ベルの喉が鳴った。
握った拳はそのまま。
けれど、もう一歩も前へ出られない。
目の前の赤い少女は、まるで本物と見分けがつかなかった。
鏡が現実を映したのではない。
現実そのものが、鏡に塗り替えられたかのようだった。
ベルの右手が、ゆっくりと引かれた。
その動きを見たアンジュは、勝ち誇ったように口元を歪める。
「ほーほっほっほっ! それ見なさい! 魔王殺しは決して女の顔は殴れませんわ! 特に仲間の顔は――」
「ぺぐっ」
最後まで言葉は続かなかった。
ベルの右拳が、一直線にアンジュの腹へ突き刺さっていた。
鈍い衝撃音。
アンジュの身体が大きくくの字に折れ曲がる。
瞳が見開かれ、口から空気だけが漏れた。
そのまま勢いのまま真下へ叩き落とされる。
床板が悲鳴を上げた。
「く……くはっ」
息が詰まり、まともに呼吸すらできない。
背中から床へ打ちつけられた身体は上下に痙攣し、指先だけが小刻みに震えていた。
アンジュは震える瞳で見上げる。
「な……どうして……」
そこには。
右腕を振り下ろした姿勢のまま静止しているベルがいた。
ゆっくりと身体を起こす。
そして、冷え切った目でアンジュを見下ろした。
「失敗したな――」
静かな声。
「アンジュになるとはよぉ」
その一言だけだった。
再びベルの右腕が持ち上がる。
アンジュの顔から血の気が引いた。
反射的に両腕を広げ、顔を庇うように身を縮める。
「ま……ま……待――」
願いは届かない。
言葉が最後まで紡がれるより早く。
振り上げられた拳は迷いなく落ちた。
狙うのは顔ではない。
再び腹部。
拳は寸分違わず同じ場所へ突き刺さる。
「ぐぁっ――!」
衝撃とともに身体が跳ねる。
肺の中の空気が強制的に吐き出され、苦鳴だけが部屋へ響いた。
ベルは拳を押し込んだまま、静かに見下ろしている。
その瞳に宿っていたのは怒りではない。
氷のように冷え切った、揺るぎない決意だけだった。
アンジュは床の上を転がった。
身体を丸め、腹を押さえ、それでも痛みから逃げられない。
床板を爪で掻きながら、震える声を絞り出す。
「へ……変身だ……」
呼吸は乱れ、言葉も途切れ途切れになる。
「再び……シスターに……」
「あぐっ!」
その声を遮るように。
三度目の拳が落ちた。
ベルの右拳は迷うことなくアンジュの腹へ突き刺さる。
衝撃で身体が浮き上がり、次の瞬間には再び床へ叩きつけられた。
アンジュは口を大きく開く。
まるで何かを吐き出そうとするように。
しかし怪人の身体から零れるものは何もない。
空気だけが漏れ、苦悶だけが残る。
全身を痙攣させながら、震える指で腹を押さえた。
「い……痛みで……変身に集中できない……」
鏡面の輝きが一瞬だけ胸元へ走る。
だが、すぐに霧散する。
姿は変わらない。
意識が定まらない。
痛みが思考を寸断し続けていた。
「ちくしょう……」
歯を食いしばり、床を睨む。
「痛みを感じるなんて……聞いてないっ」
その言葉を聞いたベルは何も答えなかった。
静かに立ったまま、ただ見下ろしている。
怒鳴りもしない。
笑いもしない。
ただ、その冷え切った瞳だけがアンジュを映していた。
そして右拳をゆっくりと握り直す。
その小さな音だけで、アンジュの顔から血の気が引いた。
アンジュは腹を押さえたまま、苦しげに身をよじった。
「くっ……」
その全身が、再び鏡のような輝きに包まれる。
銀色の反射が皮膚の上を走り、姿を書き換え始める。
シスターアリスへ。
そのはずだった。
だが。
変身は途中で止まった。
いや、止まれなかった。
キラン。
また鏡面が走る。
赤いツインテールが金色へ変わりかけた瞬間、今度は銀髪が混じる。
シスター服が現れたと思えば、次の瞬間には真紅の鎧の肩当てが浮かび、その上から別の袖が重なる。
顔立ちも定まらない。
右目は誰かのもの。
左目は別人のもの。
鼻筋が変わり。
唇が揺れ。
頬の輪郭まで一瞬ごとに書き換わっていく。
まるで何十枚もの鏡を無理やり重ね合わせたように。
人の要素だけが入り乱れ、ひとつの姿として成立しない。
「なっ……!」
アンジュ――いや、もはや誰とも呼べないその存在は、自分の腕を見下ろえた。
腕は鏡面に輝き。
次の瞬間には少女の細い腕となり。
さらに別の女性の腕へ変わり。
また鏡へ戻る。
安定しない。
何度も。
何度も。
何度も。
鏡の光だけが部屋の中で断続的に瞬く。
「くそっ……!」
変身を制御しようと意識を集中させる。
だが腹を貫く激痛が、そのたびに思考を引き裂いた。
集中した瞬間に痛みが走り。
痛みに意識を奪われた瞬間に姿が崩れる。
その繰り返し。
床に映る影さえ、人の形を保てない。
ベルはそんな様子を黙って見下ろしていた。
拳を下ろしたまま、一歩も動かない。
目の前で鏡の怪物が壊れた人形のように姿を点滅させ続ける。
その異様な光景だけが、静まり返った部屋を照らしていた。
ベルはゆっくりと息を吐いた。
足元では、鏡の怪人が壊れた玩具のように姿を揺らし続けている。
シスターアリスの面影。
アンジュの赤髪。
見知らぬ女の瞳。
少年の輪郭。
すべてが鏡面の輝きとともに入り混じり、まともな形を保てない。
「ひっ……」
その口から、小さな悲鳴が漏れた。
ベルは何も言わない。
静かに両手を組み合わせる。
指を深く絡ませ、そのまま頭上へ掲げた。
低い声が部屋へ響く。
「カレン、力を貸せ」
その瞬間。
ベルの全身に、凄まじい力が満ちていく。
空気が震えた。
床板が軋み。
部屋そのものが悲鳴を上げるように揺れる。
ミラードールは、もはや変身を維持する余裕すら失っていた。
鏡面が何度も瞬き、人の姿と銀色の怪物とを高速で行き来する。
「ひ……ひぃ……っ」
恐怖だけが、その声には残っていた。
ベルは高く掲げた両手を見つめることもなく、足元の怪人を静かに見下ろす。
そして、短く告げた。
「あの世でシスターに詫びろ」
次の瞬間。
組み合わせた両手が、容赦なく振り下ろされた。
それは技でも、拳でもない。
純粋な怒りと祈りを乗せた鉄槌だった。
轟音が部屋を揺らす。
床が砕け、木片が四方へ弾け飛ぶ。
衝撃だけで窓ガラスが震え、壁が軋みを上げた。
鏡面の輝きは一瞬だけ強烈に閃き――
その光ごと、振り下ろされた一撃に飲み込まれていった。




