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【World Wide Love ― 2人で1人の逃走譚 ―】  作者: KK
【第2部】第6章ーシスターアリスの秘密ー

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走れ。心のままにー

その夜。


本降りの雨が街道を叩いていた。


空は厚い雲に覆われ、月明かりさえ見えない。


そんな闇の中を、ウルフは一人、ひたすら走っていた。


雨粒がリーゼントを打ち、レザージャケットを濡らし、ブーツが泥を跳ね上げる。


息は乱れない。


足も止まらない。


乗り合い馬車はもう走っていない。


列車も夜の運行を終えている。


朝まで待ち、始発で戻った方が体力の消耗も少なく、ずっと賢い選択だっただろう。


それでも。


ウルフは走ることを選んだ。


胸の奥で、何かが引っかかっている。


説明はできない。


証拠もない。


ただ、どうしようもなく嫌な予感だけが消えなかった。


雨を切り裂くように駆けながら、ウルフは苦笑する。


(オトコ)の勘だ!」


声は雨音に負けじと夜へ響いた。


「外れてくれてることを願うぜ!」


そのまま速度を落とさない。


水たまりを蹴り飛ばし、ぬかるみを踏み越え、前だけを見る。


もし勘違いなら、それでいい。


笑って謝れば済む話だ。


だが。


もし本当に何かあったのなら。


その時、自分が「あの時戻っていれば」と後悔することだけは、絶対に嫌だった。


雨はますます激しくなる。


まるで空そのものが泣いているかのように。


その中を、長い手足で地面を蹴り続ける一人の男だけが、誰に命じられるでもなく、ただ自分の勘だけを信じて走り続けていた。



夜。


ベルがゆっくりと目を開ける。


最初に映ったのは、柔らかく微笑むミリィの顔だった。


視界の端で銀色の月明かりが揺れている。


自分の頭に伝わる温もりに気づき、ベルは小さく眉を上げた。


どうやら仰向けになったまま、ミリィの膝へ頭を預けているらしい。


ベッドの上。


腰掛けたミリィは、優しく目を細めた。


「おはよう。ベルさん」


「……おう」


寝起きのまま短く返事をする。


その声を聞くと、ミリィは少しだけ表情を曇らせた。


「ウルフさんは出て行きました」


ベルの眉がぴくりと動く。


「ウルフが? なんで?」


「わかりません……急にベルさんと喧嘩? 言い争いをしていたかと思うと……そのまま飛び出して行ってしまって……」


悲しげな顔で俯くミリィ。


ベルはその言葉を反芻する。


「あいつとウルフが」


信じられない、とでも言いたげな声だった。


ミリィは静かに頷く。


「それに……ベルさん落ち込んでました。アルティシアさんやラインさんも……信じられないって……」


「あいつが……なんで?」


本当に理解できない。


昼の自分がそんなことを口にする理由が、夜のベルには思い当たらなかった。


ミリィは首を横に振る。


「マリーナさんも、アンジュさんも……他の誰ももう信用できないって……」


「……あいつがそう言ったのか?」


「はい」


迷いのない返事。


ベルの目をまっすぐ見つめながら、ミリィはもう一度頷いた。


そして静かに両手を伸ばす。


膝の上に頭を預けたままのベルの頬を包み込み、ゆっくりと顔を寄せた。


月明かりの中で、その瞳だけが穏やかに揺れる。


「ベルさん、言ってましたよ」


耳元へ落ちるような小さな声。


「もう、信用できるのはミリィしかいない、って」


その言葉を聞いた瞬間。


ベルの表情から、わずかな眠気が完全に消えた。


ただ静かに、目の前のミリィを見つめ返す。


何も言わない。


何も言えない。


けれど胸の奥で、小さな違和感がゆっくりと波紋のように広がっていった。


昼の自分が何を思い、何を見て、何を失ったのか。


それはわからない。


それでも。


「ミリィだけ……か」


ベルがぽつりと呟いた、その瞬間だった。


「あっ」


不意に身体を起こしたベルは、その勢いのままミリィをベッドへ押し倒す形になる。


驚いたように目を見開いたミリィだったが、次の瞬間にはふっと頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。


「いいですよ。ベルさんなら」


その声には迷いがない。


ベルは何も返さない。


ただ、押さえ込んだままの姿勢で、じっとミリィの顔を見つめ続けていた。


静寂が流れる。


ミリィは微笑みを崩さない。


「初めてだから……優しくしてくださいね」


そう囁く。


ベルの顔がゆっくりと近づき、覆い被さる様に首元に顔を近づけた。


ミリィは目を閉じ、小さく息を呑んだ。


「あっ……」


だが。


次の瞬間、ミリィの耳元で囁かれたのは予想していた言葉ではなかった。


「おまえ、誰だ?」


その一言で。


ミリィの瞳が大きく見開かれる。


笑みが一瞬だけ固まり、自分の首は寄せられたベルの顔を見る。


「……誰って、私はミリィですよ? あなただけのミリィです」


柔らかな声。


けれどベルは表情一つ変えない。


姿勢も崩さないまま、静かに言い切る。


「いいや、違うね」


その瞳は、相手の奥底を見透かすように細められていた。


「ミリィはそんなこと言わない」


部屋の空気が、一変する。


先ほどまで漂っていた穏やかな空気は跡形もなく消え、重苦しい沈黙だけが残った。


ミリィはなおも笑みを浮かべようとする。


「何を言ってるんですか、ベルさん」


「昼間のあいつがどうなったかは知らねぇ」


ベルの声は低く、落ち着いていた。


「けどな」


そこで一度言葉を切る。


「ミリィは、自分のことをそんな風に言わねぇ」


まっすぐな視線が交わる。


そのわずかな間だけで、互いが互いを探り合っていることがわかった。


そしてベルは、小さく鼻で笑う。


「おまえ、演技が下手だな」


その一言に。


ミリィの瞳の奥で、何かが静かに揺れた。


ミリィは、自分の上へ覆い被さるベルの首へ、ゆっくりと両腕を回した。


その瞳には怯えも迷いもない。


ただ穏やかな笑みだけを浮かべている。


「なんだっていいじゃないですか。このまま好きにしていいんですよ?」


にこり、と優しく微笑んだ。


だが、その言葉を聞いたベルの表情は少しも揺らがない。


静かに目を細めると、低い声で告げた。


「やめろ。ミリィの顔でそんなこと言うな」


一瞬だけ空気が止まる。


それでもミリィは笑みを崩さなかった。


「無理しないでいいんですよ」


その口元が、ゆっくりと歪んでいく。


「どうせ男なんて、それしか考えてないんだから!」


吐き捨てるような声。


先ほどまでの柔らかさはどこにもない。


さらに口角を吊り上げる。


「自分の欲望に素直になんなさいな!」


その変わりように、ベルは眉をひそめた。


何も言わず、伸ばされていた両腕を掴む。


そして静かに、その手をベッドへ押さえつけた。


逃げ道を塞ぐように。


しかし乱暴ではなく、確実に。


二人の視線が真正面からぶつかる。


笑っているのはミリィだけだった。


ベルの瞳は、冷静なまま相手の奥を見つめ続けていた。


ミリィは口元を大きく吊り上げた。


「ほぉら、所詮はあんたも男なのさ」


挑発するような声が、静かな部屋に落ちる。


その言葉を受けても、ベルの表情は変わらなかった。


ただ静かに相手を見つめ、ぽつりと呟く。


「……おまえはかわいそうなやつだな」


その一言だった。


ミリィの顔がさらに歪む。


怒りとも悲しみともつかない感情が、一気に噴き出した。


「あんたに何がわかるってのさっ!」


叫ぶような声が響く。


それでもベルは落ち着いたままだ。


「だから言ったろ、俺にはわかんねぇって」


あっさりと返された言葉に、ミリィは息を荒くする。


「強い奴には……力のある奴には……弱い人間のことなんてわかるわけがないっ!」


ベルは少しだけ目を伏せた。


「あぁ、そうかもな。わかんねぇよ」


否定しない。


言い返しもしない。


その素直な返答に、逆にミリィの勢いが鈍る。


だがベルは静かに続けた。


「ただ、もっと早く出会っていたなら……」


その言葉を聞いた瞬間、ミリィは鼻で笑った。


「はっ! 早くて出会ってたらなんだってんだい!? 助けてくれたとでも!?」


間髪入れず、ベルは答える。


「当たり前だろ?」


空気が止まる。


ミリィの口が半開きになった。


「は……?」


ベルは何の迷いもなく言葉を重ねる。


「助けて欲しかったなら、助けたさ」


その真っ直ぐな声音に、ミリィの瞳が揺れた。


「何……言ってんのさ」


ベルは不思議そうに首を傾げる。


「……なんだよ」


短い沈黙。


やがてミリィは、苦笑するように小さく息を漏らした。


「あたしゃ、敵だよ?」


その問いに、ベルは肩をすくめる。


「知ってるさ」


そして、静かに告げた。


「キンサシャだろ」


その瞬間。


ミリィの目が大きく見開かれた。


笑みも、余裕も、すべて消える。


しばらくベルの顔を見つめたまま固まっていたが、やがて震える声で問い返した。


「いつから、気付いてたんだい?」


ベルは少しだけ考える素振りを見せ、それから軽く笑った。


「そりゃあ、昨日から?」


その何気ない返事が、部屋の空気をさらに重く沈ませた。


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