人が壊れて行く様は、楽しくって仕方ないー
向かいの宿の一室。
カーテンは閉められ、昼だというのに部屋は薄暗かった。
ベッドへ仰向けに寝転んだキンサシャが、両手で水晶玉を天井へ掲げる。
その舌先が、ゆっくりと透明な球面を這っていく。
紫のヴェールの奥で口元は緩み、瞳には愉悦が滲んでいた。
興奮と。
怒りと。
喜びと。
幾つもの感情が混ざり合い、顔を妖しく染め上げていく。
そして堪えきれなくなったように笑う。
「ふふっ……ふふはははははっ。愉快だねぇ」
水晶玉の向こうに映る景色を愛おしむように見つめながら、喉を震わせた。
「キレイなものが壊れていくのは、汚れていくのは……最高じゃないかねぇ」
笑い声だけが部屋へ響く。
その様子を、壁へ背中を預けたハーブが静かに眺めていた。
腰まで届く銀髪の緩やかなウェーブは両脇で丁寧に編み込まれ、整った美貌には穏やかな微笑みが浮かんでいる。
清楚な印象さえ受けるその姿とは裏腹に、眉だけがわずかにひそめられた。
「ほんと、悪趣味なんだから」
その言葉に、キンサシャは勢いよく上半身を起こした。
「何言ってんのさ! そんな悪趣味な怪人を作ったのは、あんただろ!?」
ハーブは目を丸くしたあと、くすりと笑う。
「あらあら、それを言われてしまうと、確かにそうね」
そのままゆっくりとベッドへ歩み寄る。
寝転ぶキンサシャの真上まで来ると、身体を折り曲げるように前屈みになり、その顔を静かに覗き込んだ。
いつもの穏やかな笑顔はない。
ただ、感情の読めない真顔だけがそこにあった。
「ひっ」
キンサシャの喉から、小さな悲鳴が漏れる。
さっきまでの高揚は消え失せ、身体がわずかに強張った。
ハーブは低い声で告げる。
「あまり、追い詰め過ぎないでね? またアレが出たら、困るわ」
その一言だけで十分だった。
キンサシャは視線を逸らし、震える声で答える。
「わ……わかってるよ……加減はする」
その返事を聞くと、ハーブの表情は再び柔らかな笑みに戻った。
「あらあら、いい子ね。いい子いい子」
子どもをあやすような声音で言いながら、そっと身を起こす。
そして壁際へ戻り、部屋の扉へ手をかけた。
「明日くらいには、持ち帰れそうかしら?」
キンサシャは再び水晶玉を胸へ抱き寄せ、口元を歪める。
「明日と言わずに、今夜には心が折れるだろうさ」
唇の端が吊り上がる。
「そしたらもう、あんたのお得意のお人形さんごっこだって出来るさね」
ハーブは振り返ることなく、小さく微笑んだ。
「そ。いいわね」
そのまま扉を開け、静かに部屋を出ていく。
閉まる扉を見送りながら、キンサシャの笑みはゆっくりと消えた。
そして誰にも聞こえないほど小さく。
「チッ」
舌打ちだけが、静まり返った部屋に落ちた。
そしてベルたちの宿。
その隣の部屋では、ウルフが荷物をまとめ終え、ひと息ついていた。
部屋の隅に置かれた荷物は、いつものダッフルバッグ一つだけ。
忘れ物がないか軽く見回すと、ポケットから一本の煙草を取り出し、口へ咥える。
続けて、使い込まれた金色のライターを取り出した。
火をつけようとして。
その手が止まる。
ウルフは何も言わず、じっとライターを見つめていた。
静かな部屋に、時計の針だけが時を刻む。
やがて、小さく鼻で笑う。
「……禁煙でも、すっかな」
ぽつりと呟くと、咥えていた煙草を指先で真っ二つに折った。
箱ごとゴミ箱へ放り投げる。
乾いた音がして、それきりだった。
ライターだけはポケットへ戻す。
もう一度ダッフルバッグを肩へ担ぐと、迷いなく部屋を出た。
廊下を歩き。
ベルとミリィの部屋の前で、足を止める。
扉の向こうは静まり返っていた。
ノックはしない。
別れも告げない。
ただ、小さく口を開く。
「あばよ」
それだけ残して、また歩き出した。
階段を降り。
宿の入口を抜ける。
外へ出た瞬間、ウルフは空を見上げた。
先ほどまでの青空が嘘のように、厚い雲が空一面を覆っている。
今にも雨が降り出しそうな、重たい色。
その景色を眺めながら、ふっと笑った。
「HEY。代わりに泣いてくれるってのかい?」
風だけが返事をする。
ウルフは肩をすくめた。
「そんなこと頼んじゃいねぇってのによ」
そう言って前を向く。
振り返らない。
立ち止まりもしない。
ただ、いつもの調子で歩き始めた。
その背中だけが、曇天の下へ静かに遠ざかっていった。
宿を出たウルフは、そのまま街外れの乗り合い馬車の停車場へ向かった。
ちょうど出発を控えていた一台へ迷わず乗り込む。
行き先など聞かない。
どこへ向かう馬車でもよかった。
今はただ、この街を離れられればそれでいい。
御者の合図とともに馬が歩き出す。
車輪が石畳を軋ませ、ゆっくりと街並みが後ろへ流れていった。
しばらくして、窓へ小さな雨粒が当たる。
ぽつり。
また一つ。
やがて雨脚は強まり、本降りへと変わっていった。
ウルフは窓の外を眺めながら肩をすくめる。
「歩きじゃなくてよかったぜ。ベル様々だな」
ぽつりと漏れた独り言は、雨音に溶けて消えた。
ベルたちと旅をするようになってから。
ギャンブルはやらなくなった。
飲み歩く回数も、気づけばずいぶん減っていた。
そんな暇がなかった。
いや。
そんなことをしている方が、つまらなく感じるようになっていた。
ベルがどこかへ行く時は、ミリィを守るため宿に残る。
気づけばそれが当たり前になり。
気づけば半年が過ぎていた。
忙しかった。
本当に、忙しい半年だった。
揺れる馬車の中で、ぼんやりと天井を見上げる。
いろいろな出来事が頭を巡り。
その果てに、一つの違和感だけが残った。
「やっぱなんか……変だよな」
小さく呟く。
ベルへの違和感。
そして何より。
ミリィへの違和感。
何がどうおかしいのかは、自分でもわからない。
説明できない。
それでも、どうしても引っかかる。
考えれば考えるほど霧は濃くなるばかりだった。
そういえば。
得意の鼻も、あの時は何も教えてくれなかった。
「……気になるな」
窓際へ肘をつき、ウルフはゆっくりと振り返る。
雨に煙る街。
自分たちが歩いてきた道。
その向こうに残してきた二人の姿を思い浮かべながら、じっと視線を向けていた。
どこか暗い。
灯りもない部屋だった。
壁は冷たく、窓もない。
あるのは外へ通じる扉が一つだけ。
その中央に置かれた椅子へ、ミリィは座らされていた。
両手も両足も拘束具で固定され、身じろぎ一つできない。
昨日から丸一日。
食事はおろか、水すら与えられていなかった。
ただ椅子へ縛りつけられ。
誰も来ず。
何も起こらず。
静寂だけが流れ続ける。
その何もない時間こそが、少しずつミリィの心を削っていた。
頬はやつれ、唇は乾き切っている。
光を失った瞳は、ぼんやりと床を眺めるだけだった。
その時。
重たい扉が軋む音を立てて開く。
細く差し込んだ光へ、ミリィはゆっくりと顔を上げた。
見慣れたミントグリーンのワンピース。
腰まで流れる銀色の髪。
その姿を見た瞬間、乾いた唇がわずかに動く。
「ハーブ……さん」
入ってきた女は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
まるで友人の家を訪ねてきたかのような柔らかな足取りで近づき、くすくすと喉を鳴らす。
「あらあら」
嬉しそうに目を細めた。
「まださん付けで呼んでくれるのね。うれしいわ」
その声音は優しい。
けれど、その優しさだけが、この部屋では何より恐ろしかった。
ハーブはゆっくりとミリィの前まで歩いてくる。
拘束具に縛られ、身動き一つできない少女の顔を、屈み込むようにして覗き込んだ。
そして穏やかな笑みのまま、口を開く。
「今ね、あなたの偽物を送り込んでみたの」
その言葉に、ミリィの目が大きく見開かれる。
「な……なんで……」
「あら、決まってるじゃない」
ハーブはくすくすと笑った。
「ベルの心を折るためよぉ」
その一言だけで、ミリィの顔から血の気が引く。
「ベルさんは今……傷付いてるのに……」
奥歯を噛み締める。
悔しさと焦りで、拘束された身体が小さく震えた。
するとハーブは目をぱちりと見開き、嬉しそうに身を乗り出す。
「そう! そうなの!」
子どもが宝物を見つけたような無邪気な声だった。
「だからこそ、今なの」
「あ……え……?」
「さすがに普段のあの子なら、なんてことないんでしょうけど」
ハーブは人差し指を唇へ当て、楽しそうに笑う。
「弱ってるあの子には効果てきめんかな、って」
ミリィの喉が震えた。
「何を……したんで、すか?」
その問いを待っていたかのように、ハーブは一本ずつ指を折っていく。
「ウルフがあなた達から離れるようにして」
一本。
「シスターアリス?に裏切られていたことにして」
二本。
「あとはライン? アルティシア? マリーナ? アダラ? ビビ?」
三本、四本、五本。
名前を並べるたび、その笑みは深くなっていく。
「みんなみんな、信じられなくなる様に仕向けたわ」
そこで手を止め、まるで褒めてほしい子どものように首を傾げた。
「すごいでしょ?」
ミリィは何も言えなかった。
見開いた瞳の奥へ、じわりと涙が浮かぶ。
唇が震える。
「ひどい……なんて、ことを」
その声はかすれ、今にも消えてしまいそうだった。
けれどハーブは悲しむどころか、優しく微笑む。
まるで誰かの幸せな報告を聞いているかのように。
その笑顔だけが、この暗い部屋の中でひどく浮いて見えた。




