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【World Wide Love ― 2人で1人の逃走譚 ―】  作者: KK
【第2部】第6章ーシスターアリスの秘密ー

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人が壊れて行く様は、楽しくって仕方ないー

向かいの宿の一室。


カーテンは閉められ、昼だというのに部屋は薄暗かった。


ベッドへ仰向けに寝転んだキンサシャが、両手で水晶玉を天井へ掲げる。


その舌先が、ゆっくりと透明な球面を這っていく。


紫のヴェールの奥で口元は緩み、瞳には愉悦が滲んでいた。


興奮と。


怒りと。


喜びと。


幾つもの感情が混ざり合い、顔を妖しく染め上げていく。


そして堪えきれなくなったように笑う。


「ふふっ……ふふはははははっ。愉快だねぇ」


水晶玉の向こうに映る景色を愛おしむように見つめながら、喉を震わせた。


「キレイなものが壊れていくのは、汚れていくのは……最高じゃないかねぇ」


笑い声だけが部屋へ響く。


その様子を、壁へ背中を預けたハーブが静かに眺めていた。


腰まで届く銀髪の緩やかなウェーブは両脇で丁寧に編み込まれ、整った美貌には穏やかな微笑みが浮かんでいる。


清楚な印象さえ受けるその姿とは裏腹に、眉だけがわずかにひそめられた。


「ほんと、悪趣味なんだから」


その言葉に、キンサシャは勢いよく上半身を起こした。


「何言ってんのさ! そんな悪趣味な怪人を作ったのは、あんただろ!?」


ハーブは目を丸くしたあと、くすりと笑う。


「あらあら、それを言われてしまうと、確かにそうね」


そのままゆっくりとベッドへ歩み寄る。


寝転ぶキンサシャの真上まで来ると、身体を折り曲げるように前屈みになり、その顔を静かに覗き込んだ。


いつもの穏やかな笑顔はない。


ただ、感情の読めない真顔だけがそこにあった。


「ひっ」


キンサシャの喉から、小さな悲鳴が漏れる。


さっきまでの高揚は消え失せ、身体がわずかに強張った。


ハーブは低い声で告げる。


「あまり、追い詰め過ぎないでね? またアレが出たら、困るわ」


その一言だけで十分だった。


キンサシャは視線を逸らし、震える声で答える。


「わ……わかってるよ……加減はする」


その返事を聞くと、ハーブの表情は再び柔らかな笑みに戻った。


「あらあら、いい子ね。いい子いい子」


子どもをあやすような声音で言いながら、そっと身を起こす。


そして壁際へ戻り、部屋の扉へ手をかけた。


「明日くらいには、持ち帰れそうかしら?」


キンサシャは再び水晶玉を胸へ抱き寄せ、口元を歪める。


「明日と言わずに、今夜には心が折れるだろうさ」


唇の端が吊り上がる。


「そしたらもう、あんたのお得意のお人形さんごっこだって出来るさね」


ハーブは振り返ることなく、小さく微笑んだ。


「そ。いいわね」


そのまま扉を開け、静かに部屋を出ていく。


閉まる扉を見送りながら、キンサシャの笑みはゆっくりと消えた。


そして誰にも聞こえないほど小さく。


「チッ」


舌打ちだけが、静まり返った部屋に落ちた。



そしてベルたちの宿。


その隣の部屋では、ウルフが荷物をまとめ終え、ひと息ついていた。


部屋の隅に置かれた荷物は、いつものダッフルバッグ一つだけ。


忘れ物がないか軽く見回すと、ポケットから一本の煙草を取り出し、口へ咥える。


続けて、使い込まれた金色のライターを取り出した。


火をつけようとして。


その手が止まる。


ウルフは何も言わず、じっとライターを見つめていた。


静かな部屋に、時計の針だけが時を刻む。


やがて、小さく鼻で笑う。


「……禁煙でも、すっかな」


ぽつりと呟くと、咥えていた煙草を指先で真っ二つに折った。


箱ごとゴミ箱へ放り投げる。


乾いた音がして、それきりだった。


ライターだけはポケットへ戻す。


もう一度ダッフルバッグを肩へ担ぐと、迷いなく部屋を出た。


廊下を歩き。


ベルとミリィの部屋の前で、足を止める。


扉の向こうは静まり返っていた。


ノックはしない。


別れも告げない。


ただ、小さく口を開く。


「あばよ」


それだけ残して、また歩き出した。


階段を降り。


宿の入口を抜ける。


外へ出た瞬間、ウルフは空を見上げた。


先ほどまでの青空が嘘のように、厚い雲が空一面を覆っている。


今にも雨が降り出しそうな、重たい色。


その景色を眺めながら、ふっと笑った。


「HEY。代わりに泣いてくれるってのかい?」


風だけが返事をする。


ウルフは肩をすくめた。


「そんなこと頼んじゃいねぇってのによ」


そう言って前を向く。


振り返らない。


立ち止まりもしない。


ただ、いつもの調子で歩き始めた。


その背中だけが、曇天の下へ静かに遠ざかっていった。


宿を出たウルフは、そのまま街外れの乗り合い馬車の停車場へ向かった。


ちょうど出発を控えていた一台へ迷わず乗り込む。


行き先など聞かない。


どこへ向かう馬車でもよかった。


今はただ、この街を離れられればそれでいい。


御者の合図とともに馬が歩き出す。


車輪が石畳を軋ませ、ゆっくりと街並みが後ろへ流れていった。


しばらくして、窓へ小さな雨粒が当たる。


ぽつり。


また一つ。


やがて雨脚は強まり、本降りへと変わっていった。


ウルフは窓の外を眺めながら肩をすくめる。


「歩きじゃなくてよかったぜ。ベル様々だな」


ぽつりと漏れた独り言は、雨音に溶けて消えた。


ベルたちと旅をするようになってから。


ギャンブルはやらなくなった。


飲み歩く回数も、気づけばずいぶん減っていた。


そんな暇がなかった。


いや。


そんなことをしている方が、つまらなく感じるようになっていた。


ベルがどこかへ行く時は、ミリィを守るため宿に残る。


気づけばそれが当たり前になり。


気づけば半年が過ぎていた。


忙しかった。


本当に、忙しい半年だった。


揺れる馬車の中で、ぼんやりと天井を見上げる。


いろいろな出来事が頭を巡り。


その果てに、一つの違和感だけが残った。


「やっぱなんか……変だよな」


小さく呟く。


ベルへの違和感。


そして何より。


ミリィへの違和感。


何がどうおかしいのかは、自分でもわからない。


説明できない。


それでも、どうしても引っかかる。


考えれば考えるほど霧は濃くなるばかりだった。


そういえば。


得意の鼻も、あの時は何も教えてくれなかった。


「……気になるな」


窓際へ肘をつき、ウルフはゆっくりと振り返る。


雨に煙る街。


自分たちが歩いてきた道。


その向こうに残してきた二人の姿を思い浮かべながら、じっと視線を向けていた。





どこか暗い。


灯りもない部屋だった。


壁は冷たく、窓もない。


あるのは外へ通じる扉が一つだけ。


その中央に置かれた椅子へ、ミリィは座らされていた。


両手も両足も拘束具で固定され、身じろぎ一つできない。


昨日から丸一日。


食事はおろか、水すら与えられていなかった。


ただ椅子へ縛りつけられ。


誰も来ず。


何も起こらず。


静寂だけが流れ続ける。


その何もない時間こそが、少しずつミリィの心を削っていた。


頬はやつれ、唇は乾き切っている。


光を失った瞳は、ぼんやりと床を眺めるだけだった。


その時。


重たい扉が軋む音を立てて開く。


細く差し込んだ光へ、ミリィはゆっくりと顔を上げた。


見慣れたミントグリーンのワンピース。


腰まで流れる銀色の髪。


その姿を見た瞬間、乾いた唇がわずかに動く。


「ハーブ……さん」


入ってきた女は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。


まるで友人の家を訪ねてきたかのような柔らかな足取りで近づき、くすくすと喉を鳴らす。


「あらあら」


嬉しそうに目を細めた。


「まださん付けで呼んでくれるのね。うれしいわ」


その声音は優しい。


けれど、その優しさだけが、この部屋では何より恐ろしかった。


ハーブはゆっくりとミリィの前まで歩いてくる。


拘束具に縛られ、身動き一つできない少女の顔を、屈み込むようにして覗き込んだ。


そして穏やかな笑みのまま、口を開く。


「今ね、あなたの偽物を送り込んでみたの」


その言葉に、ミリィの目が大きく見開かれる。


「な……なんで……」


「あら、決まってるじゃない」


ハーブはくすくすと笑った。


「ベルの心を折るためよぉ」


その一言だけで、ミリィの顔から血の気が引く。


「ベルさんは今……傷付いてるのに……」


奥歯を噛み締める。


悔しさと焦りで、拘束された身体が小さく震えた。


するとハーブは目をぱちりと見開き、嬉しそうに身を乗り出す。


「そう! そうなの!」


子どもが宝物を見つけたような無邪気な声だった。


「だからこそ、今なの」


「あ……え……?」


「さすがに普段のあの子なら、なんてことないんでしょうけど」


ハーブは人差し指を唇へ当て、楽しそうに笑う。


「弱ってるあの子には効果てきめんかな、って」


ミリィの喉が震えた。


「何を……したんで、すか?」


その問いを待っていたかのように、ハーブは一本ずつ指を折っていく。


「ウルフがあなた達から離れるようにして」


一本。


「シスターアリス?に裏切られていたことにして」


二本。


「あとはライン? アルティシア? マリーナ? アダラ? ビビ?」


三本、四本、五本。


名前を並べるたび、その笑みは深くなっていく。


「みんなみんな、信じられなくなる様に仕向けたわ」


そこで手を止め、まるで褒めてほしい子どものように首を傾げた。


「すごいでしょ?」


ミリィは何も言えなかった。


見開いた瞳の奥へ、じわりと涙が浮かぶ。


唇が震える。


「ひどい……なんて、ことを」


その声はかすれ、今にも消えてしまいそうだった。


けれどハーブは悲しむどころか、優しく微笑む。


まるで誰かの幸せな報告を聞いているかのように。


その笑顔だけが、この暗い部屋の中でひどく浮いて見えた。


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