あなたが誰かに愛されたことなんてないんですよー
食事を終えたベルは、ミリィに手を引かれるまま部屋へ戻った。
言われるがままベッドへ腰を下ろし、その後ろへミリィが座る。
さらり、と櫛が黒髪を梳いた。
静かな音だけが部屋に響く。
「ウルフ……行っちゃったね……」
ぽつりと零れたベルの声は、どこか遠くを見ているようだった。
「はい……悲しい……寂しいですね」
そう答えながら、ミリィは丁寧に髪を梳かし続ける。
その口元には、誰にも見えない小さな笑みが浮かんでいた。
やがて思い出したように口を開く。
「そうでした……昨夜、夜のベルさんにシスターアリス様の話をしてみたのですが……」
「え!?」
ベルが勢いよく振り返ろうとする。
しかし、その肩をミリィがそっと押さえた。
「じっとしててくださいねー」
櫛は止まらない。
黒髪を優しく梳きながら、一定の調子で動き続ける。
ベルは前を向き直り、小さく息を飲んだ。
「……それで、あいつはなんて?」
ミリィは答えるまで、わざと少しだけ間を空けた。
「悲しんでました……とても、とても」
その一言だけで十分だった。
ベルの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「あいつ……私よりずっと、シスターが好きだったもの……そうだよね」
力なく呟いた声は、自分に言い聞かせるようでもあった。
後ろでは櫛が静かに髪を梳いている。
規則正しいその音だけが、部屋の静寂を埋めていた。
「みんな……みんな……私の元を去っていく……」
ベルの声はかすれていた。
俯いたまま、小さく肩を震わせる。
「誰も私のことなんて、愛してくれてないのかな……」
その言葉を聞いた瞬間、ミリィの瞳が細くなる。
櫛を動かしていた手が止まった。
静かにベルの両肩へ手を置き、そのままゆっくりと身を寄せる。
耳元へ唇を近づけ、囁くように言った。
「アルティシアさんが知っていたとなると……ラインさんは、どうなんでしょうね?」
その一言で。
ベルの心臓が大きく跳ねた。
爽やかな笑顔。
真っ直ぐな瞳。
好きだと。
愛していると。
そう伝えてくれた、あの日のことが鮮明によみがえる。
自分も応えたいと思っていた。
もし、普通の身体だったなら。
もし、この身体じゃなかったなら。
震える唇が、ゆっくりと開く。
「……ラインさん……も……知って、いる?」
ミリィは耳元から離れない。
吐息がかかるほど近い距離で、静かに答えた。
「わかりません……でも、もしかしたら……と」
その言葉は、疑いという種を落とすには十分だった。
ベルは目を閉じる。
確かに、そうだ。
アルティシアが知っているなら。
ラインが知っていても、おかしくはない。
もしかしたら最初から。
私たちのことを知っていて。
この身体の秘密も。
夜のあいつの力も。
全部知った上で近づいてきたのだとしたら。
好きだと言った言葉も。
愛していると言った笑顔も。
全部。
全部、利用するためだったのだろうか。
胸の奥で、何かが音を立てて軋む。
信じたい気持ちと。
疑う気持ちが。
互いを引き裂くようにぶつかり合っていた。
その様子を見つめながら、ミリィは何も言わない。
ただ静かにベルの髪へ櫛を通す。
さらり。
さらり。
規則正しいその音だけが、崩れ始めたベルの心を包み込むように、部屋の中へ静かに響いていた。
震える手で、ベルはゆっくりと自分の顔を覆った。
指の隙間から漏れる息は浅く、小刻みに震えている。
「いやだ……」
声にならない声が零れる。
「いやだよぉ……」
肩が小さく揺れた。
「ぜんぶ……何もかも……全部うそ、だった……なんて」
その言葉は、自分自身へ言い聞かせるようでもあり、必死に否定しようとする祈りのようでもあった。
シスターアリスの笑顔。
アルティシアの優しさ。
ラインの真っ直ぐな眼差し。
ウルフと笑い合った旅の日々。
思い出が頭の中を駆け巡るたび、それらすべてに薄い疑いの影が落ちていく。
もし、全部演技だったら。
もし、全部利用するためだったら。
自分が信じてきたものは、一体何だったのだろう。
顔を覆う指先がさらに強く食い込む。
涙はまだ流れない。
泣いてしまえば、本当に認めてしまう気がしたから。
後ろに座るミリィは何も言わない。
ただ静かにベルの背中を見つめ、その沈黙を崩さない。
部屋には、さっきまで髪を梳いていた櫛だけが、ぽつりとベッドの上へ置かれていた。
ベルはそのまま、小さく身体を丸める。
誰にも顔を見られたくない。
誰の言葉も聞きたくない。
信じたい。
でも、信じるのが怖い。
そんな相反する思いだけが胸の中で渦を巻き、行き場を失っていた。
その小さく震える背中を。
いつの間にかベッドの上へ立ったミリィが、静かに見下ろしていた。
口元だけが、ゆっくりと歪む。
その笑みは優しさではない。
愉悦だった。
壊れていく心を眺める者だけが浮かべる、静かな歓喜。
ベルは気づかない。
顔を覆ったまま、自分の世界へ閉じこもっている。
ミリィはそっと口を開いた。
「あなたは誰からも必要とされていないんです」
その言葉が落ちる。
ぴくり、とベルの肩が震えた。
「あなたは誰からも愛されてなどいないのです」
震えは少しだけ大きくなる。
「あなたは誰からも愛されたことなんてないんです」
呼吸が浅くなる。
「あなたを好きになる人なんていません」
指先が強く顔へ食い込み、爪が白くなる。
「あなたを大切と思う人なんていないんです」
一つ。
また一つ。
言葉が胸へ沈んでいくたびに、ベルの身体は小さく揺れた。
やがて。
その震えさえ止まった。
まるで心まで凍りついてしまったかのように。
その瞬間、ミリィはゆっくりと腰を下ろす。
後ろから腕を回し、そっとベルを抱きしめた。
温かな体温だけが背中へ伝わる。
耳元へ顔を寄せる。
そして、囁く。
「私だけ」
「このミリィだけが、ベルさんを愛しています」
「必要としています」
「大切にしています」
腕に少しだけ力が入る。
逃がさないように。
包み込むように。
「だから」
吐息が耳へ触れる。
「私だけを信じてくださいねー」
ベルは何も答えなかった。
ただ、その腕の中で静かに俯いたまま。
涙だけが、指の隙間からぽたりと零れ落ちた。
ベルは、糸が切れたような声で呟いた。
「マリーナさんはー……」
ミリィは間を置くことなく答える。
「大陸警察ですよ? 魔王殺しを警戒して近付いただけでしょう」
その言葉は、あまりにも自然だった。
疑う余地すら与えない口調。
ベルの瞳が揺れる。
「アンジュ……たちは」
「中央教会ですよ? きっとシスターアリスの指示です」
胸の奥で、何かがまた一つ崩れ落ちる。
ベルは震える唇を噛み締めた。
「アダラやビビ……」
ミリィは小さくため息を吐く。
「西大陸の人は皆、魔王殺しの力を求めていたじゃないですか」
言われてしまえば、その通りにも思えた。
誰もが夜のベルの力を目にしていた。
誰もが驚き、頼り、期待していた。
それだけなのかもしれない。
それだけだったのかもしれない。
ベルの視線は、どこにも定まらない。
「……ジット村のみんな……ミーファは」
その名前を聞いた瞬間。
ミリィの口元が、大きく歪んだ。
「ジット村こそ、シスターアリスの息のかかった人しかいませんよ」
その一言が、とどめだった。
ベルの中で、最後まで残っていた小さな拠り所が、音もなく砕け散る。
震える声で問いかける。
「私……何を……誰を信じたら……」
抱きしめる腕が、少しだけ強くなる。
「私です」
耳元で、優しく囁く。
「このミリィだけを信じて、ミリィの言葉だけを聞いて、いいですね?」
その声は甘く。
逃げ場を塞ぐように。
「私だけですよ? あなたなんかを愛しているのは」
ベルはゆっくりと目を閉じた。
涙が頬を伝う。
「……ミリィは私から離れていかない?」
まるで幼い子どもが、捨てられないことを確かめるような問い。
ミリィは迷うことなく答えた。
「はい。私だけはずっとずっと、あなたのそばにいます」
その言葉に。
ベルは小さく、小さく頷いた。
「……うん」
その返事はあまりにも弱く。
壊れかけた心が、最後にしがみついた一本の糸のようだった。
そしてその糸が、本物ではないことを知る者は、この部屋にはミリィただ一人しかいなかった。




