さよなら、ウルフと呼ばれた男ー
翌朝。
宿の食堂には、焼きたてのパンの香りと温かなスープの匂いが漂っていた。
朝食を取る客たちの話し声が響く中、階段からゆっくりと三人が降りてくる。
先頭を歩くベルは、どこか元気がなかった。
黒髪を揺らしながら席へ向かう足取りも重く、椅子へ腰を下ろすと、小さくため息をつく。
その隣へミリィが静かに座り、向かいにはウルフがどかりと腰を下ろした。
店員が水を置いていく。
ベルはぼんやりとそのコップを眺めたまま、しばらく手をつけない。
「おいおい」
ウルフが頬杖をついた。
「朝から景気悪ぃ顔してんなぁ」
ベルは顔を上げ、無理に笑顔を作ろうとした。
「ご、ごめん」
けれど、その笑顔はすぐに消えてしまう。
「ちょっと……考えごと」
それ以上は続かなかった。
ミリィは何も言わず、そんなベルの横顔を見つめる。
ベルは窓の外へ目を向けた。
朝の光は眩しいはずなのに、心の中だけが晴れない。
シスターアリスは、本当は自分のことを知っていて育てたのだろうか。
アルティシアも、本当は何か知っていたのだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥が苦しくなる。
そしてもう一つ。
ウルフは本当に、自分たちと別れるつもりなのだろうか。
昨夜、ミリィから聞かされた言葉が何度も頭の中を巡る。
パンが運ばれてきても、ベルは手を伸ばさなかった。
「食わねぇのか?」
ウルフの声に、はっと我に返る。
「あ……うん」
そう返事をしながらも、指先でパンを小さくちぎるだけだった。
その様子を見て、ミリィはそっと目を伏せる。
食堂にはいつも通りの朝が流れている。
笑い声が聞こえ、食器が触れ合う音が響く。
その中で、ベルだけが一人、取り残されたように静かだった。
ベルは意を決したように、小さく息を吸った。
「あの、ウルフ……」
「ちょいまち」
言い終えるより早く、ウルフが右手を上げて制する。
ベルは口を閉じ、小さく頷いた。
「う……うん」
ウルフは一度咳払いをすると、天井を見上げるようにして言葉を探した。
「いろいろ考えたんだけどな」
そして、真っ直ぐベルを見る。
「俺、ここらでお別れさせてもらおうと思ってな」
その瞬間。
ベルの瞳が大きく見開かれた。
信じられないというように、ゆっくりと隣のミリィへ視線を向ける。
ミリィは静かに目を伏せ、それからそっと頷いた。
――やっぱり、本当だった。
胸の奥が、音もなく沈んでいく。
「なんかよ、成り行きでここまで来ちまったけど……いや、お前らとの旅が楽しくて、ついつい」
「だったら――」
思わず身を乗り出しかけたベルの手に、ミリィの小さな手が重なった。
「ベルさん。ウルフさんも、よく考えた結果と思いますから」
その言葉に、ベルは唇を噛む。
「あ……うん……でも」
最後までは言えなかった。
ウルフはいつものようにニカリと笑う。
「楽しかったぜ! この半年は俺の人生でもオリコン1位って感じだぜ!」
ベルはきょとんと首を傾げた。
「オリコ……? 何?」
「おっと、気にすんなって」
肩をすくめる。
「とにかく、今までありがとな!」
そう言うと、まるで重たい話は終わりだと言わんばかりに、並べられた料理へ手を伸ばした。
焼きたてのパンをちぎり、何事もないように口へ運ぶ。
その姿を、ベルは黙って見つめていた。
言葉が出てこない。
引き留めたい。
聞きたいことも、伝えたいことも山ほどある。
それなのに、何一つ口にできなかった。
胸の中で、昨日から積み重なっていた不安が静かに形を変えていく。
シスターアリス。
アルティシア。
そして、ウルフ。
信頼していた人が、また一人、自分の前からいなくなる。
私は、やっぱり規格外だから。
誰からも、本当の意味で愛されたりなんて、しなかったのかもしれない。
そう思った瞬間、目の前の朝食が急に色を失ったように見えた。
ベルは俯いたまま、小さく息を吐いた。
「……わかった。うん、わかったよ」
ウルフはそんな空気など気にも留めないように、パンをちぎって口へ放り込む。
「俺ぁ辛気臭いのは苦手だからよ。朝メシ食べたら、適当に荷物まとめて出てくからよ」
ベルが顔を上げた。
「そんなに早く?」
「思い立ったら吉日ってな」
軽い口調だった。
いつものウルフらしい、どこか飄々とした笑い混じりの声。
ベルは勇気を振り絞るように口を開く。
「それじゃ見送りは――」
「やめてくれ」
即答だった。
「そういうの苦手なんだ。サヨナラもなしだ」
「……え?」
ベルの声が小さく漏れる。
ウルフはスープを一口飲み、それから肩をすくめた。
「朝メシ食って、立ち上がったら、それで、な?」
その言葉に、ベルは何も返せなかった。
ただ、力なく微笑む。
「……うん」
その笑顔は、自分でも驚くほどぎこちなかった。
胸の奥がじわりと痛む。
隣ではミリィが静かに食事を続けている。
向かいではウルフがいつも通り豪快にパンを頬張っている。
なのに、自分だけが世界から置いていかれたようだった。
――きっと、何か嫌われることをしたんだ。
心の中で、小さな声が囁く。
サヨナラすら言わせてもらえない。
見送りもいらないと言われた。
それはきっと、自分と関わりたくないということなのだ。
ふと、シスターアリスの言葉が頭をよぎる。
出会いも。
別れも。
朝も昼も夜も。
必ず言葉は交わさないといけない。
だからこそ、人と人は繋がっていられるのだと。
それすら許してもらえないのなら。
――私が、嫌われたんだ。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
ベルは何事もない顔を作ろうと、小さくパンをちぎって口へ運ぶ。
噛む。
飲み込む。
けれど、何の味もしなかった。
温かなはずの料理は、まるで砂を食べているようだった。
でも、シスターアリスの言葉に意味なんてあるんだろうか。
ふと、そんな考えが胸をよぎる。
パンを握る指先に、力が入らない。
もし。
もし本当に、シスターアリスが自分を特別だから拾っただけだったなら。
もし本当に、愛情なんて最初からなかったのだとしたら。
あの優しい笑顔も。
頭を撫でてくれた手も。
眠れない夜に聞かせてくれた昔話も。
全部、ただの役目だったのだろうか。
そんな人の言葉に。
意味なんて、あるんだろうか。
出会いを大切にしなさい。
別れを大切にしなさい。
朝も昼も夜も、ちゃんと言葉を交わしなさい。
そう教えてくれた人は、本当に自分のことを想って言ってくれていたのだろうか。
それとも。
ただ孤児院の子どもに教えるべきことを、教えていただけなのだろうか。
ベルは小さく俯いた。
胸の奥で、大切に抱えていた思い出が、一つ、また一つと色褪せていく。
料理を口へ運ぶ。
温かいはずなのに。
何も感じない。
味もしない。
隣ではミリィが静かに食事を続け、向かいではウルフがいつものようにパンを頬張っている。
その賑やかな朝の中で。
ベルだけが、自分のいた世界から少しずつ切り離されていくような気がしていた。
やがて、ウルフは最後の一口を飲み込み、椅子を引いた。
いつものように。
誰よりも先に立ち上がる。
何も変わらない。
そんな顔で腰を伸ばし、軽く肩を回す。
「じゃーな」
たった、それだけだった。
別れを惜しむでもなく。
振り返るでもなく。
鼻歌混じりに、階段へ向かって歩き出す。
コツ、コツ、とブーツの音が食堂に響く。
その背中はいつもと何一つ変わらない。
だからこそ、ベルには余計につらかった。
引き留める言葉は喉まで込み上げている。
それでも、約束してしまった。
「朝メシ食って、立ち上がったら、それで」
その言葉を、自分で受け入れてしまったから。
ただ黙って、その背中を見送る。
ミリィもまた、何も言わない。
静かに座ったまま、階段を上っていくウルフを見つめていた。
やがて鼻歌も遠ざかり、足音も消える。
食堂には再び朝の喧騒だけが戻ってきた。
客たちの笑い声。
食器の触れ合う音。
店員の呼び声。
世界は何も変わらず動き続けている。
その中で、ベルだけが取り残されたような気がした。
ただ。
これが別れなんだと。
そう思うことしか、できなかった。




