だってもう笑うしかないじゃないかー
そしてミリィは、その夜、子どものように泣いた。
堪えていたものが決壊したように。
嗚咽を隠そうとすることもなく、わんわんと声を上げて泣きじゃくる。
ベルの胸に顔を押しつけ、小さな身体を震わせながら、ただ泣き続けた。
甘えるように服を掴み、離すまいと腕へしがみつく。
その姿は、誰よりも弱く、誰よりも幼かった。
これまで歩いてきた人生の苦しみを。
胸の奥へ押し込めてきた悲しみを。
誰にも言えず抱え続けた痛みを。
その涙と一緒に、すべて吐き出そうとするかのように。
ベルは何も聞かなかった。
慰めの言葉も。
励ましの言葉も。
過去を尋ねることも。
ただ黙って、その小さな身体を抱きしめ続ける。
泣き声だけが、静かな部屋に響いていた。
やがて夜は更け、窓の外の月もゆっくりと傾いていく。
それでもベルは腕を緩めなかった。
泣き疲れても。
嗚咽が小さくなっても。
時折しゃくり上げるたびに背中をそっと支え、何も言わず寄り添い続ける。
朝焼けの淡い光が窓から差し込み始めても、その姿勢は変わらない。
ベルはただ静かに、眠ることもなく。
腕の中の少女を抱きしめたまま、夜が終わるのを待っていた。
そして――ベルたちが泊まる宿の、その向かいに建つ宿。
その一室にもまた、子どものように泣きじゃくる女がいた。
部屋に灯りはない。
閉ざされた窓から差し込む月明かりだけが、暗闇の中を淡く照らしている。
ベッドの上で膝を抱え、小さく身体を丸めたその女は、紫色のローブを頭から深く被り、目元から下を薄いヴェールで覆っていた。
露わになった褐色の肌は涙で濡れ、目元を飾る小さな宝石だけが月光を受けてかすかに瞬いている。
乱れた黒髪がローブの隙間から零れ落ち、肩や頬へ張り付いていた。
ローブの裾から覗く素足には幾つもの金のリング。
細い腕にも同じように金の輪がはめられ、その身体は嗚咽のたびに小刻みに震えている。
普段なら人を惑わせる妖しい占い師の姿。
その面影は残っていても、今そこにいるのは、ただ泣くことしかできない一人の女だった。
両手で抱き締めているのは、水晶玉だけだった。
誰かの手ではない。
誰かの温もりでもない。
透明な球体を壊れそうなほど強く胸へ押し当て、まるでそれだけが自分を繋ぎ止めてくれる唯一の存在であるかのように。
キンサシャは泣いていた。
誰に見られることもなく。
誰に慰められることもなく。
声を押し殺そうとしても抑えきれず、子どものようにわんわんと泣き続ける。
水晶玉の表面へ涙がぽたぽたと落ち、その雫は静かに流れ落ちていく。
向かいの宿では、一人の少年が少女を抱きしめている。
その温もりは、この部屋には届かない。
月明かりだけが静かに彼女を照らし、ヴェールの下から零れ落ちる涙を銀色に染めていた。
その夜、誰よりも泣いていたのは、キンサシャだった。
涙は拭わなかった。
頬を伝う雫も、ヴェールを濡らす涙も、そのままに。
キンサシャはゆっくりと立ち上がる。
膝はまだ震えていた。
それでも足を引きずるように窓辺まで歩き、静かにガラスへ手を添えた。
月明かりの向こう。
向かいの宿の一室。
そこには、寄り添う少年と少女の姿があった。
互いの温もりを確かめ合うように、静かに抱き合っている。
その光景を見つめたまま、キンサシャの指先が水晶玉を強く握り締めた。
爪が食い込む。
涙で濡れた瞳が、ゆっくりと怨嗟の色へ染まっていく。
「許さない……」
掠れた声が漏れる。
「許さないよ……ベル……ベル・ジットォォォォォォッ!!」
叫びは誰にも届かない。
暗い部屋の中で反響し、静かに消えていくだけだった。
その目は、窓の向こうの少年を呪うように睨みつけている。
「このあたしに……こんな気持ちを思い出させるなんて……絶対に……許さないっ!」
震える声は怒りなのか、悲しみなのか。
本人にももう分からなかった。
水晶玉を胸へ抱き寄せたまま、肩を震わせる。
「無茶苦茶にしてやる! 無茶苦茶にしてやるからっ!」
その叫びの裏で、また涙が零れ落ちた。
「あぁ……そうさ……」
ヴェールの下から嗚咽が漏れる。
「あたしゃ所詮は汚れた女なのさ……」
窓ガラスに映る自分の姿を見る。
紫のローブも。
宝石で飾られた目元も。
褐色の肌も。
そのすべてが、今は酷く醜く見えた。
「それを……それをぉぉぉぁぁっ!」
言葉にならない叫びが夜へ溶ける。
向かいでは、少年が少女を抱きしめ続けている。
その光景が優しければ優しいほど、キンサシャの胸を抉った。
だから憎んだ。
だから壊したかった。
その夜、涙を流しながら憎悪を育てていたのは、キンサシャだった。
窓の向こうで、少年と少女は静かに寄り添っている。
その光景から目を逸らすことなく、キンサシャは水晶玉を抱き締めた。
涙に濡れたヴェールの奥から、震える声が漏れる。
「あんたたちは……キレイだねぇ……」
憎しみとも羨望ともつかない声音。
「ムカつくほどに……反吐が出るほどに!」
歯を食いしばり、水晶玉を握る指へさらに力が籠もる。
「壊したい……壊してやりたいよぉ……」
ぽたり、とまた一粒。
涙が水晶玉を濡らした。
「ぜったいに……絶対に……」
唇がゆっくりと吊り上がる。
ふふっ、と小さな笑いが漏れた。
それは次第に抑えきれなくなり。
「ふはは……ふははははははははははっ!」
肩を震わせながら笑う。
泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からない。
「ふははははははははははははっ!」
狂ったような笑い声だけが、暗い部屋へ響き渡った。
その背後。
いつの間にか部屋の扉には、一人の女が背を預けて立っていた。
銀髪のツインテールを揺らし、鋭く細めた瞳で窓辺のキンサシャを見つめている。
黒を基調としたゴスロリボンテージには、紫や桃色、黄緑の毒々しい差し色が踊り、幾重にも重なったフリルとベルト、拘束具めいた装飾が身体を飾っていた。
左右で色の違うボーダーニーハイに包まれた脚は厚底ブーツへと続き、その手には派手な色彩の鞭がぶら下がっている。
長く舌を覗かせた挑発的な笑みを浮かべながら、その姿を眺めていた。
「ん〜いいじゃな〜い♪」
口元がさらに歪む。
「いい感じにー仕上がってるじゃな〜い♪」
返事はない。
窓辺ではなお、キンサシャが笑い続けている。
泣きながら。
壊れながら。
憎しみだけを胸に抱いて。
その姿を見て、デッドエンドは満足そうに喉を鳴らした。
「キャハッ♪」
くすり、と笑った次の瞬間。
「キャハハハハッ! キャハハハハハハハハハッ!」
甲高い笑い声が部屋中へ弾ける。
狂気に染まった笑いと。
その狂気を面白がる笑い。
二つの笑い声だけが夜の闇に溶けていく。
そして窓の向こうでは、何も知らない少年が、ただ一人の少女を抱きしめ続けていた。




