私の過去は汚れているのだからー
ミリィは少し俯いたまま、小さく口を開いた。
「ベルさん……シスターアリス様の話、聞きたいですか?」
その一言に、ベルの目がすっと細まる。
「シスターの……?」
思わず身を乗り出した。
ミリィは静かに頷く。
「はい。今日の昼間、教会本部で聞いてきたんです」
その瞬間、ベルの表情がぱっと明るくなった。
「あぁ! そういやそのために来たんだった! そんで?」
興味津々といった様子で先を促す。
ミリィはゆっくりと言葉を選びながら、昼間に教会本部で聞いた話を一つずつ説明していく。
シスターアリスがベルを拾った経緯。
教会に残されていた記録。
当時を知る者の証言。
そして、そこから自分が考えたこと。
部屋の中にはミリィの声だけが静かに響いていた。
話を聞くにつれ、ベルの表情から少しずつ笑みが消えていく。
腕を組み、黙ったまま視線を床へ落とした。
やがて説明が終わると、ミリィは小さく息をつく。
「……だから、本当はシスターアリス様は、ベルさんのことを知ってて……拾って育てたのかも……と」
その言葉は、重く静かに部屋へ落ちた。
ベルはすぐには何も答えない。
視線だけが宙を彷徨い、何かを探すように揺れる。
窓の外では、夜の帳が完全に街を包み込み始めていた。
ミリィの話を最後まで聞き終えたベルは、腕を組んだまま小さく息を吐いた。
「なるほどな……あいつが落ち込んでる理由はそれか」
ミリィはすぐに頷く。
「そうなんです! もう本当に落ち込んでて……見てるのも可哀想で、だから――」
その言葉を遮るように、ベルが声を張った。
「問題ねぇよ!」
部屋の空気がぴたりと止まる。
ミリィは目を丸くした。
「え……はい?」
ベルはもう一度、大きく頷く。
「問題ねぇって言ったんだよ」
その声には迷いがなかった。
「シスターアリスはそんな人じゃねぇから」
ミリィは戸惑ったように瞬きを繰り返す。
「……えっと、私の話、聞いてました?」
ベルは力強く頷いた。
「ミリィは会ったことねぇもんな!そう思うのもわかるぜ! でもなぁ」
そう言って窓際へ歩み寄る。
夜空を見上げると、静かな月明かりが街を照らしていた。
その光を眺めながら、どこか懐かしむように口を開く。
「シスターアリスはそんなんじゃねぇんだ」
短い言葉だった。
けれど、その一言に揺るぎない確信が込められていた。
やがてベルは振り返り、ミリィへ笑いかける。
「明日、あいつにも伝えておいてくれよ」
ミリィは首を傾げた。
「……?」
ベルは照れくさそうに頭を掻きながら笑う。
「シスターアリスは俺たちのこと知ってても知ってなくても、きっと変わらないって、さ!」
その笑顔はあまりにも真っ直ぐだった。
昼のベルが抱え込んだ疑念も、悲しみも知らない。
ただ、自分が知るシスターアリスだけを信じ切っている。
その眩しいほどの迷いのなさに、ミリィは何も言えず、ただ静かにベルを見つめていた。
ミリィの顔から、すっと感情が消えた。
先ほどまで浮かんでいた困惑も、照れも、申し訳なさもない。
ただ虚ろな瞳だけが、ベルを映している。
「なんで……」
ぽつりと漏れる。
「なんでそんなに……信じられるのさ」
ベルは小さく首を傾げた。
「ミリィ?」
返事はない。
ミリィは焦点の定まらない目を見開いたまま、一歩、また一歩とベルへ近づいていく。
足音だけが静かな部屋に響く。
「なんで……?」
掠れた声。
「どうして……?」
さらに一歩。
「なんで他人なんか、信じられるのさ」
ベルは怪訝そうに眉をひそめた。
「おまえ、やっぱおかしいぞ?」
そして、少し考えるように顎へ手を当てる。
「大体さー、俺は別に誰のことも信じちゃいないさ」
その言葉に、ミリィの動きが止まった。
「へ? そ、それじゃ……」
ベルは自分の胸へ親指を向ける。
「俺はただ、俺の直感を信じてるだけだ」
「……直感……?」
聞き返す声は震えていた。
ベルは当然のことのように頷く。
「あぁ、俺は俺を信じてる」
迷いのない口調だった。
「だから俺が大丈夫と思った相手は、大丈夫! だろ?」
その理屈に、ミリィは目を見開いたまま固まる。
口だけが小さく動く。
「な……なんだいそりゃ……そんなめちゃくちゃな……」
ベルは逆に不思議そうな顔をした。
少しだけ眉を寄せ、首を傾げる。
「めちゃくちゃかぁ?」
そして、にっと笑った。
「めちゃくちゃスッキリしねぇか?」
ミリィの虚ろな瞳が、わずかに揺れた。
「もしかしたら……もしかしたら……」
掠れた声が部屋の静寂を裂く。
「あたしがあんたを騙してるかも……そうは思わないのかい!?」
ベルは腕を組み、その場で首を傾げた。
「ミリィが? 俺を? うーん」
本気で考え込むように視線を天井へ向ける。
しばらく唸ったあと、あっさりと口を開いた。
「まぁ、それも絶対ないとは言い切れねぇけどなぁ」
その返答に、ミリィの目が大きく見開かれる。
「だろ? そうだろう?」
声が少しだけ強くなる。
「かわいいふりして、被害者のふりして、弱者のふりして、本当は……あんたの力を盾に、利用してるだけかもしれないよ!?」
ベルは肩をすくめた。
「うん、でもまぁ、それはそれで、いいんじゃねぇか?」
あまりにもあっさりした返事だった。
ミリィは思わず一歩踏み出す。
「な……何言ってんのさ!? いいように利用されてんだよ!? 悔しくは……ないのかい!?」
ベルは不思議そうな顔をした。
「悔しい? なんで?」
問い返され、ミリィの口が止まる。
「なんでって……そんなの……」
言葉が続かない。
ベルは静かに笑った。
「べつにー、もし仮に、おまえが俺の力を利用してるとしても」
そう言って、真正面からミリィの目を見る。
虚ろなまま、どこにも焦点の合わないその瞳を。
少しも逸らさずに。
「それでおまえが幸せなら、俺は構わねぇよ?」
その言葉は、驚くほど穏やかだった。
見返りも、疑いも、怒りもない。
ただ当たり前のことを口にしただけのような声音。
ミリィは何も言えなかった。
虚ろな瞳だけが、目の前の少年を映している。
理解できない。
計算できない。
利用されるかもしれないと知りながら、それでも構わないと言い切る相手など、これまで一度も見たことがなかった。
部屋には、静かな沈黙だけが落ちていた。
ミリィの肩が、小さく震えた。
「……かなわない」
掠れた声が漏れる。
「かなわないねぇ……」
ベルは首を傾げた。
「本当、今夜のおまえは変だなぁ?」
その言葉にも、ミリィはすぐには返事をしない。
俯いたまま、ぽつりと呟く。
「……あたしも、最初にあんたみたいな男に出会っていたら……こんな人生じゃなかったのかもね」
ベルは眉を寄せた。
「あー……奴隷だった時の話か?」
静かに頷く。
「あたしの人生は……奴隷になってから変わってしまった」
一つ言葉を置く。
「騙されて、利用されて、使い捨てられ……今だって……」
そこまで言ったところで、不意にベルが立ち上がった。
そして迷いなく、一歩前へ出る。
そのまま両腕を伸ばし、ミリィをそっと抱きしめた。
突然の温もりに、ミリィの目が大きく見開かれる。
ベルは静かな声で言った。
「今は俺がいるだろ? そんな過去なんて忘れちまえ」
ミリィは胸に顔を埋めたまま、小さく首を横に振る。
「そんな簡単に……言わないでおくれよ……」
震える声。
「なにも……何も知らないくせに……」
ベルはあっさりと答えた。
「知らないさ」
迷いはない。
「知りたくもねぇ。おまえが聞いて欲しいなら聞いてやるが」
その一言に、ミリィの瞳から涙が溢れた。
ぽろり、と一粒。
頬を伝い落ちる。
「私が……どんな目に、あってきたかも……知らないくせに」
ベルは優しく笑う。
「知らねぇよ」
抱きしめる腕は、そのままだった。
「俺は今のおまえしか知らない。でも、過去があるから今のおまえがいるのも間違いじゃねぇ」
その言葉を聞きながら、ミリィはおそるおそる腕を持ち上げる。
そして、そっとベルの背中へ回した。
震える指先が、服を掴む。
「それが……どんなに汚れた過去でも?」
問いかけは、泣き声のようにか細かった。
ベルは何一つ考え直すことなく答える。
「関係ねぇ」
即答だった。
「その過去ごと受け止めてやるよ」
部屋の中は静まり返っていた。
月明かりだけが二人を照らし、その温もりを誰にも告げることなく、夜は静かに更けていった。




