きっと私がいけなかったんだねー
ベルはふと顔を上げた。
涙で潤んだ瞳が、部屋の中を見回す。
「そういえば……ウルフは?」
その名前を聞いた瞬間、ミリィは静かにベルから身体を離した。
立ち上がると、ゆっくりと窓際へ歩いていく。
夕焼けが窓から差し込み、その横顔を朱く染めていた。
ミリィは外を眺めたまま、小さく口を開く。
「……さっき話されたんですけど……」
ベルは思わず身を乗り出す。
「ウルフから? なんて?」
少しの沈黙。
ミリィは夕陽へ視線を向けたまま、静かに答えた。
「……一緒に旅するの……やめたいって……」
その言葉は、部屋の空気を凍らせた。
ベルの表情から血の気が引く。
「うそ……なんで?……どうして……」
信じられないというように首を振る。
ミリィは振り返らない。
窓の外を見つめたまま、ぽつりと続ける。
「本当はさっきその話したかったそうなんですけど……ベルさん、落ち込んでたから言い出せなかったって……」
ベルは何も言えなかった。
唇だけが小さく震える。
やがて勢いよく立ち上がる。
「……ウルフ」
次の瞬間には部屋の出口へ向かおうとしていた。
「ウルフを探しに行かないと!」
しかし、その足は途中で止まる。
「でも……もう日が落ちますよ?」
背中越しに聞こえたミリィの声に、ベルははっと窓の外を見る。
夕陽は地平線へ沈みかけ、街には少しずつ夜の色が広がり始めていた。
「うっ……そ、そっか……そうだよね」
握り締めた拳から力が抜ける。
立ち尽くすベルへ、ミリィはゆっくりと歩み寄った。
「その話はまた明日にでも……ね?」
そう言って、そっとベルの手を包み込む。
その温もりに、ベルは視線を落とした。
細い指が震えている。
ぽつりと、自分に問いかけるように呟いた。
「なにか……私……嫌になることしたのかな?」
答えは返ってこない。
ただミリィは、その手を離さず静かに握り続けていた。
夕暮れの赤い光だけが、二人の影を長く床へ伸ばしていた。
ミリィはベルの手を両手で包み込むように握り、そのまま少しだけ力を込めた。
「いいじゃないですか、少し前までは二人で旅していたんですよ」
その言葉に、ベルははっとしたように顔を上げる。
そして寂しそうに微笑んだ。
「……そっか、そうだね」
窓の外へ目を向ける。
夕焼けに染まる街並みをぼんやりと眺めながら、小さく呟いた。
「いつの間にか、ウルフもずっと昔から一緒にいたと思ってたけど……」
半年。
決して長い年月ではない。
それでも、毎日顔を合わせ、食卓を囲み、くだらない話をして、危険を乗り越えてきた。
気付けば、それが当たり前になっていた。
ミリィは静かに頷く。
「きっとウルフさんも、何か新しい目的ができたのかもしれません」
その声は穏やかで、どこまでも優しかった。
ベルは目を閉じ、小さく息を吐く。
「うん……元々成り行きで一緒に旅するようになったんだしね」
出会いは偶然。
別れもまた、そういうものなのかもしれない。
そう思おうとする。
思い込もうとする。
ミリィはそっとベルの手を撫でた。
「そうですよ」
「邪魔したら、可哀想です」
その一言に、ベルの肩がわずかに揺れる。
引き止めることは、自分のわがままなのかもしれない。
相手の望みを縛ることなのかもしれない。
そんな考えが、静かに胸の奥へ染み込んでいく。
ベルはゆっくりと頷いた。
「うん……そっか、そうなのかもね」
どこか無理に自分を納得させるような笑みを浮かべながら。
その手はまだ、ミリィの手に握られたままだった。
窓の外で、最後の夕陽がゆっくりと地平線へ沈んでいく。
部屋の中に夜の気配が満ち始めた、その時だった。
ベルがはっとしたように身体を強張らせる。
「……ごめん。変身しそう」
慌てて身を引こうとする。
だが、その前にミリィがそっとベルを抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
優しく背中を撫でる手は、どこまでも穏やかだった。
ベルは困ったように眉を下げる。
「え……ちょっと、それは全然大丈夫じゃ……」
言葉は途中で止まる。
抱きしめられたまま、その身体が静かに変化を始めた。
長く伸びた黒髪がするすると縮み、銀色へと染まりながら耳にもかからないほど短く整っていく。
華奢な肩は少しずつ幅を増し、細い腕にはしなやかな筋肉が浮かび上がる。
頬の線が変わり、背丈もゆっくりと伸びていく。
服越しに伝わる身体つきまでも、少女のものから少年のものへと自然に置き換わっていった。
変身は音もなく終わる。
ミリィの腕の中には、もう黒髪の少女はいない。
銀髪の少年が、静かに目を瞬かせた。
それでもミリィは腕を離さない。
まるで最初からその姿であったかのように、静かに抱きしめ続ける。
「……ミリィ、おまえ、何してんだ?」
ミリィは何も答えない。
ただ、抱きしめる力をほんの少しだけ強くする。
窓の外では、完全に日が落ちていた。
部屋を包む静寂の中、二人の影だけが寄り添うように重なっていた。
ベルは腕の中の少女を見下ろし、小さく首を傾げた。
「なんかまた、あいつ落ち込んでたのか?」
ミリィは答えず、そっとベルの胸へ顔を埋める。
まるでその温もりを確かめるように。
「いいんです。大丈夫、大丈夫」
囁きながら、抱きしめる腕にさらに力を込めた。
その様子にベルは困ったように眉を下げる。
ゆっくりとミリィの肩へ手を添え、無理のないよう身体を押し離した。
「俺も大丈夫だ。変な真似はやめろって」
引き剥がされたミリィは、不満そうに頬を膨らませる。
じっとベルを見上げ、その瞳を覗き込んだ。
「嫌なんですか? うれしくないんですか?」
一拍置いて、静かに続ける。
「私に抱きつかれて」
その言葉に、ベルは怪訝そうに眉を寄せた。
目の前の少女をじっと見つめる。
いつものミリィなら、こんなことは言わない。
「なんだお前?」
短く呟き、さらに首を傾げる。
「今日ヘンだぞ?」
ベルは眉をひそめたまま、ミリィの顔を覗き込む。
「なんか変なもんでも食ったのか?」
その言葉に、ミリィはくすりと笑った。
どこか楽しそうな、小さな笑み。
「本当はうれしいんでしょう?」
一歩だけ距離を詰める。
「照れてるんですか?」
そう言いながら、そっとベルの頬へ手を伸ばした。
しかし、その手が触れる前に。
ベルは伸ばされた手首を静かに掴み取る。
強くはない。
だが、逃がさないという意思だけははっきりと伝わる力だった。
ミリィは驚いた様子もなく、ただベルを見つめ返す。
ベルはその瞳を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「本当にヘンだぞ? おまえなんか――」
そこで言葉が止まる。
何かが胸の奥で引っかかった。
違和感。
小さな、けれど見過ごせない棘のような感覚。
ベルは眉間に皺を寄せたまま、掴んだ手を離さない。
そして低い声で問いかける。
「なんかヘンだな、おまえ本当にミリィか?」
ミリィの表情が一瞬だけ歪む。
「痛ぃっ!」
その小さな悲鳴に、ベルははっと目を見開いた。
「あっ、わ、悪ぃっ! そんな強く握ったつもりは……」
慌てて手を離す。
自由になったミリィは、掴まれていた手首をもう片方の手でそっと包み込み、そのまま胸元へ引き寄せた。
細い指先で手首をさすりながら、少しだけ眉を下げる。
「痛かった……です」
その声を聞いたベルは、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「悪りぃって、ごめんな」
ミリィは視線を落としたまま、小さく首を振る。
「ベルさんは……力が強いんですから」
責めるような口調ではない。
むしろ、自分に言い聞かせるような穏やかな声音だった。
ベルは居心地が悪そうに肩をすくめる。
「すまねぇ」
短い謝罪だけが、静かな部屋にぽつりと落ちた。




