どうしてそんなこと言うの?ー
ベルはあれからずっと宿の自分の部屋で、ベッドに横になったままだった。
窓から差し込む夕暮れの光が天井を赤く染めている。
それをぼんやりと眺めながら、何度目かも分からないため息をついた。
落ち込んでいる。
誰の目にも分かるほど、はっきりと。
不意に、部屋の扉が音を立てて開いた。
ノックはない。
ベルははっと目を見開き、慌てて上半身を起こす。
しまった。
鍵を掛け忘れていた。
そんな後悔と共に視線を向けると、開いた扉の向こうには小柄な少女が立っていた。
「なんだ……ミリィか」
張り詰めていた肩から力が抜ける。
胸を撫で下ろし、小さく笑う。
ミリィは返事をせず、静かに部屋へ入ってきた。
その足取りはいつもと変わらず控えめで、扉も後ろ手にゆっくりと閉める。
かちゃり、と小さな音が部屋に響いた。
ベルはベッドの端に座り直し、少しだけ困ったように笑う。
「ごめんね。心配かけちゃった?」
ミリィは何も答えない。
ただベルの前まで歩み寄り、じっとその顔を見つめていた。
夕陽を受けた金色の髪が、静かに揺れる。
その視線に気付いたベルは、どこか照れくさそうに頬を掻いた。
「そんな顔しなくても平気だよ」
「ちょっと落ち込んでるだけだから」
部屋は静まり返っていた。
窓の外から聞こえる街の喧騒だけが、遠くに流れている。
その中で、ミリィはなおも一言も発しないまま、ベルを見つめ続けていた。
「ミリィ? どうしたの?」
ミリィは答えることなく、静かに部屋へ入ってきた。
足音も立てずにベッドの端へ腰を下ろすと、そのまま床へ視線を落とす。
重苦しい沈黙が流れた。
やがて、小さく口を開く。
「ベルさん……私、あれからいろいろ考えてみたんですけど……」
ベルは不思議そうに首を傾げた。
「?」
ミリィは膝の上で手を重ね、躊躇うように唇を結ぶ。
それでも意を決したように続けた。
「もしかしたら……シスターアリス様はベルさんが特別だと知って、育てたんじゃないかって……」
その言葉に、ベルの表情が固まる。
「え……? ちょっとミリィ、さっきと言ってることが……」
言い終わる前に、ミリィは静かに首を横へ振った。
「……実は教会でお話を聞いた時からそう思っていたんです。でもベルさんの落ち込む姿を見たら……言えなくて」
ベルは目を伏せた。
肩が小さく落ちる。
「ごめんね……気を遣わせてしまって……」
弱々しく笑おうとしたが、その笑みはすぐに消えた。
しばらく黙り込んだ末、ぽつりと呟く。
「でも」
「やっぱりそう、なのかな?」
部屋の空気がさらに重くなる。
ミリィはすぐには答えなかった。
視線を落としたまま、小さく息を吸う。
「私はシスターアリス様にお会いした事がないので確信は持てません……でも」
そこで言葉を切り、静寂が落ちる。
窓の外から聞こえる街の喧騒だけが、やけに遠く感じられた。
ベルは自分の膝を見つめたまま、小さく笑った。
その笑みは力なく、今にも崩れそうだった。
「私も少しだけ、やっぱりそうじゃないかなって気持ちがあって……」
ぽつりと零れた声は、ひどく弱々しい。
「でも、そんなわけがないって気持ちの方がまだ強かったんだけど……」
言葉の最後は、ほとんど呟きになっていた。
ミリィは静かに頷く。
「わかります」
少し間を置いて、優しく続けた。
「信じたい気持ちになりますよね」
その一言が、ベルの胸を締めつける。
ベルは唇を噛み、俯いたまま指先を握りしめた。
部屋の中は静まり返り、窓の外を吹き抜ける風の音だけが微かに聞こえてくる。
やがてベルは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は迷いに揺れている。
「……でも」
「ミリィもそう思うなら……やっぱりそうなのかなって」
その言葉を口にした瞬間、自分自身で傷口を抉ってしまったように、ベルの肩が小さく震えた。
ミリィは何も否定しない。
励ますこともしない。
ただ静かにベルの隣へ座り、視線を床へ落としたまま、長い沈黙を受け入れていた。
その沈黙が、ベルの心の中に芽生えた疑念を、ゆっくりと根付かせていくようだった。
ベルは力なく笑った。
その笑みは今にも崩れそうで、瞳の奥には消えない迷いが残っている。
「……愛されてたと……思ってたんだけどな……」
ぽつりと零れた言葉は、静かな部屋の中へ沈んでいった。
ミリィはゆっくりとベルの方へ身体を向ける。
そして何も言わず、両手をそっとベルの肩へ置いた。
その温もりに、ベルは顔を上げる。
「ベルさん……私がいます」
真っ直ぐな瞳で見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。
「ベルさんのこと、誰も愛さなかったとしても、私は愛してますから」
ベルは目を瞬かせた。
「……誰もって……それはさすがに――」
言葉が最後まで続くことはなかった。
不意にミリィの腕が伸び、そのままベルの身体を強く抱き締める。
予想もしなかった行動に、ベルの目が大きく見開かれた。
「ちょ……ミリィ」
耳元で、小さな声が囁く。
「私がいますから……私を信じてください」
ベルの身体から少しずつ力が抜けていく。
震えていた指先も、ゆっくりと動きを止めた。
「……ミリィ」
抱き締める腕は離れない。
その代わり、さらに少しだけ力が込められる。
「私じゃ……だめですか?」
その問いに、ベルは静かに首を横へ振った。
「ううん……そんなことない」
震える声のまま、小さく笑う。
「ありがとう」
そして、おずおずとミリィの背中へ腕を回した。
抱き返す力は弱い。
それでも確かに、そこには縋るような温もりがあった。
「そうだよね……」
ベルは目を閉じ、肩に顔を預ける。
「私にはミリィがいるから」
その言葉を聞いたミリィは、何も答えなかった。
ただ静かにベルを抱き締め続け、誰にも見えない位置で、その瞳だけがゆっくりと細められた。
ミリィはベルを抱きしめたまま、ぽつりと呟いた。
「こんなこと考えたくもないのですが……」
ベルはゆっくりと顔を上げる。
涙の跡が残る瞳で、隣の少女を見つめた。
「なに?」
ミリィは少しだけ言い淀む。
迷うように唇を結び、それから静かに口を開いた。
「以前、アルティシア様がシスターアリス様の事、話していたじゃないですか……」
ベルはその言葉に記憶を辿る。
そして小さく頷いた。
「あー……結局あの話、聞かずじまいだったもんね」
あの時、アルティシアは何かを知っているような口ぶりだった。
けれど最後まで聞くことはできなかった。
ミリィは俯いたまま、声をさらに落とす。
「もしかしたら……アルティシアさんも本当は……」
その先を聞いた瞬間、ベルは反射的に首を振った。
「え……そんな……それはさすがに」
否定したかった。
否定しなければ、自分の中の何かが壊れてしまいそうだった。
しかしミリィは静かに続ける。
「だって……それならどうして、何も言ってくれなかったんでしょう」
その問いに、ベルの言葉が詰まる。
「……それは……でも……」
口を開いては閉じる。
理由を探そうとしても、思い当たるものが見つからない。
アルティシアなら知っていたのかもしれない。
知っていて、それでも何も言わなかったのかもしれない。
そんな考えが、一度胸に浮かぶと消えてくれない。
ベルは俯き、ぎゅっとシーツを握りしめた。
部屋には重たい沈黙だけが落ちる。
その隣でミリィは何も急かさず、ただ静かにベルの答えを待っていた。
ベルは震える唇をゆっくりと動かした。
「もし……もしそうだとしたら……」
その先の言葉が続かない。
考えたくない。
けれど、一度浮かんでしまった疑念は、頭の中から離れてくれなかった。
ミリィも静かに目を伏せる。
「……もしそうなら……」
短い言葉だけが部屋に落ちる。
その続きを、二人とも口にできない。
長い沈黙の末、ベルは力なく呟いた。
「もう……もう誰を信じたら、いいのか……」
声は震えていた。
今にも泣き出しそうなほど細く、弱々しい。
ミリィは何も言わず、抱きしめる腕にそっと力を込める。
ベルの身体は小さく震え、その温もりに縋るように額を預けた。
その時。
ベルからは見えない位置で、ミリィの口元がゆっくりと緩む。
誰にも気付かれないほど僅かな笑み。
すぐにその表情は消え、穏やかな声音だけが耳元へ落ちた。
「ベルさん、私がいます」
優しく、繰り返す。
「私がいますから」
ベルは何度も小さく頷いた。
「うん……」
喉の奥から絞り出すような声。
「うん……」
その返事だけが、静かな部屋に何度も響いていた。




