ウルフがいなくなってもいいの?ー
川面を撫でる風が、草をさわさわと揺らしていた。
食堂を出たウルフは、そのまま人気のない川縁まで歩くと、草むらへ大の字に寝転がる。
青空を見上げ、深く息を吐いた。
「なーんか……引っかかるんだよなー」
独り言は風に溶け、誰の耳にも届かない。
ベルとミリィと旅を始めて半年。
賑やかな毎日だった。
くだらない話をして、飯を食い、喧嘩をして、笑う。
そんな日々を繰り返してきた。
それでも、胸の奥に小さな棘だけはずっと残っている。
最初は気のせいだと思った。
そのうち話してくれるだろう、と。
無理に聞き出すほど野暮でもない。
誰にだって言えない事情くらいある。
だから気付かないふりを続けてきた。
だが、時間が経つほど、その違和感は薄れるどころか輪郭を増していく。
「俺はまだ……信用されてないってことなのかねぇ」
苦笑が漏れる。
それなら、それで仕方ない。
自分が胡散臭い男だという自覚くらいはある。
どこの馬の骨とも知れない流れ者。
素性を聞かれれば煙に巻き、笑って誤魔化す。
信用しろという方が無理な話だ。
それでも。
ベルのことも。
もう一人のベルのことも。
ミリィのことも。
いつの間にか、本当の弟や妹のように思うようになっていた。
だからこそ、その距離が少しだけ寂しい。
ウルフはポケットから煙草を取り出し、口へ咥える。
もう片方の手で、使い慣れた金色のライターを弄んだ。
カチリ。
小さな音と共に火が灯る。
煙草の先端が赤く染まり、ゆっくりと煙が立ち上った。
一服吸い込み、肺いっぱいに満たしてから空へ吐き出す。
白い煙は風に攫われ、形を失っていく。
そのまま、ウルフは火を消したライターを手の中で転がした。
陽の光を受けた金属が鈍く輝く。
長年使い込まれた小さな傷。
角の擦れ。
親指が自然と馴染む窪み。
黙ってそれを眺めているうちに、ふと口元が緩んだ。
川風に乗って、煙がゆっくりと空へ溶けていく。
ウルフは短くなった煙草を指先で弾き、土の上へ落とした。
火種を靴底で踏み消すと、手の中の金色のライターをしばらく見つめる。
磨き抜かれた表面には、自分のぼやけた顔が映っていた。
「ベルへの借金もこないだのギルド依頼の報酬で返したし、ここいらが潮時なのかねぇ」
ぽつりと零した声は、自分に言い聞かせるようでもあった。
ライターを懐へしまい込む。
半年。
長いようで、あっという間だった。
最初はただの縁だった。
金を返すまでの付き合い。
その程度のつもりだったはずなのに、気付けば朝飯を囲み、喧嘩を仲裁し、笑い合う毎日が当たり前になっていた。
だからこそ、胸の奥に引っかかる違和感が重い。
ベルは何かを隠している。
ミリィもまた、それを知っている。
二人で目を合わせ、何でもないように話を逸らす場面を何度見ただろう。
聞こうと思えば聞けた。
問い詰めようと思えば出来た。
それでもしなかったのは、待ちたかったからだ。
いつか自分から話してくれる日を。
だが、その日は来ないのかもしれない。
信用されていないなら、それまでだ。
無理に踏み込む趣味もない。
草の上へ両手を枕代わりに組み、青空を見上げる。
流れていく雲は、何も知らない顔をしていた。
「ま、元々一人が性に合ってるしな」
そう呟いた口元は笑っていた。
けれど、その笑みはどこか寂しげで、風に揺れる草の音だけが静かに応えるのだった。
と、その瞬間だった。
不意に陽射しが遮られ、ウルフの顔へ影が落ちる。
何気なく目を開くと、自分のすぐ頭上に小さな人影が立っていた。
ミリィだった。
逆光の中、じっとこちらを見下ろしている。
風に金色の髪が揺れても、その表情だけはぴくりとも動かない。
ウルフは片眉を上げ、いつもの調子で口笛を吹いた。
「HEY! そんなとこに立って、またパンツでも見せてくれるのかい?」
軽口だった。
いつものように呆れた顔をされるか、赤くなって怒鳴られるか。
そんな返事を想像していた。
けれど。
ミリィは怒りもせず、困りもせず。
ただ、ふわりと微笑んだ。
その笑みに、ウルフは胸の奥で小さな違和感を覚える。
次の瞬間。
ミリィは静かに両手でスカートの裾を摘まんだ。
そして、ゆっくりと持ち上げようとする。
「HEY、HEY!」
反射的に上半身を起こし、ウルフは慌てて顔を背けた。
「そういう冗談はらしくないぜ!?」
思わず両手まで振って制止する。
目線は頑なに川の方へ向けたまま。
苦笑しながら肩を竦める。
「ガキが大人からかうもんじゃねぇよ」
返事はない。
草を揺らす風だけが、二人の間を静かに通り抜けていった。
その沈黙に、ウルフの笑みが少しずつ薄れていく。
いつもなら、もうとっくに「違います!」と慌てているはずだった。
それなのに。
背後から聞こえてくるのは、衣擦れひとつない、不自然な静寂だけだった。
「こんなところでなにをしていたんですか?」
穏やかな声だった。
ウルフは肩越しに振り返り、口の端を吊り上げる。
「見りゃわかるだろ? 暇を潰していたのさ」
さっきまで胸の奥に沈んでいた重たい空気を追い払うように、にかりと笑ってみせる。
ミリィは何も言わなかった。
ゆっくりと歩み寄り、そのまま草の上へ腰を下ろす。
ウルフの隣。
肩が触れるほど近くでもなく、離れすぎてもいない距離。
そのまま膝を抱えることもせず、ただ真っ直ぐに川面を見つめていた。
陽射しを受けた水面が、きらきらと白く瞬く。
風が吹くたび、小さな波紋が広がっては消えていく。
二人の間には、それだけが流れていた。
ウルフは横目でちらりとミリィを見る。
横顔はいつも通りだ。
表情も穏やかで、姿勢も崩れていない。
それなのに、何かが違う。
言葉では説明できないほど小さな違和感。
煙草を吸い終えた指先が、無意識に膝を叩く。
「どうしたんだ? おまえ、なんか今日は変だぞ?」
問いかけられても、すぐには返事がない。
やがて小さく息を吸い込み、ミリィがぽつりと口を開いた。
「……ベルさんと、お話ししたんです」
「へぇ」
気のない相槌を打ちながら、ウルフは草を千切る。
「そのことで、少し考えてしまって」
言葉が途切れる。
何かを迷っているような沈黙だった。
「ウルフさん」
「ん?」
「借金、返しましたよね」
「返したな」
「もう、一緒に旅をする理由はありませんよね」
ウルフの手が止まる。
けれど、すぐに肩を竦めて笑った。
「理由なんざ、後からいくらでも作れるさ」
その軽口にも、ミリィは笑わなかった。
ただ静かに視線を落とす。
「ベルさんは、優しい方です」
「ああ」
「だから、自分からは言えないんです」
風が吹く。
草が揺れ、川面に小さな波紋が広がった。
ミリィは続ける。
「ウルフさんは自由な方ですから」
「一つの場所に縛られるより、ご自分の好きなように生きた方が」
そこで言葉を切る。
それ以上は何も言わない。
まるで、言う必要がないとでも思っているようだった。
ウルフは空を見上げる。
さっき、自分で口にした言葉が頭をよぎる。
――ここいらが潮時なのかねぇ。
誰かに言わされたわけじゃない。
そう思ったのは、自分だ。
ミリィも、ベルも。
誰一人「出て行ってください」とは言っていない。
それでも。
「……そっか」
小さく笑う。
どこか諦めたような、穏やかな笑みだった。
「ベルらしいな」
ぽつりと呟いて、草を風に放る。
白い綿毛のように舞い上がったそれを目で追いながら、ウルフはもう一度だけ息を吐いた。
隣ではミリィが何も答えない。
静かに、ただ静かに、流れる川だけを見つめ続けていた。
ウルフはゆっくりと立ち上がる。
尻についた草を二、三度手で払うと、深く息を吐いた。
川の流れは変わらず穏やかで、さっきまで座っていた場所だけが少しだけ窪んでいる。
「今日はちょっと飲みに行ってくるからさ」
振り返らないまま、軽く片手を上げる。
「その話の返事は明日な」
重たい空気を吹き飛ばすような、いつもの調子だった。
返事を待つこともなく、ウルフはそのまま歩き出す。
革靴が草を踏み、土を鳴らし、やがて石畳へと音を変えていく。
背中はどこまでも自然だった。
迷いを隠すように肩を揺らし、口笛でも吹き出しそうな歩き方で、少しずつ遠ざかっていく。
ミリィは追わない。
呼び止めもしない。
ただ静かに座ったまま、目の前を流れる川だけを見つめていた。
水面に映る陽光が揺れる。
風が吹き、細かな波紋が広がる。
その瞳は、去っていくウルフの背中を一度も追わなかった。
やがて足音が完全に聞こえなくなる。
辺りには川のせせらぎだけが残った。
その時だった。
ミリィの口元が、ほんのわずかに吊り上がる。
誰に見せるでもない、感情のない笑み。
風が吹く。
金色の髪が揺れ、その影が水面を掠めた。
そして少女は何事もなかったように立ち上がると、服についた草を静かに払って歩き始めた。
その足取りは迷いなく、真っ直ぐだった。




