だから、愛して育てくれたんですか?ー
宿へ向かう石畳の道を、ベルとミリィは並んで歩いていた。
人通りは多い。
露店の呼び声も聞こえる。
それなのに、ベルの耳には何も入ってこなかった。
頭の中で、大神官の言葉だけが何度も繰り返される。
『ジット村へ向かえ』
『そこで出会う二人の子を育てよ』
『その子らが歩む道を、最後まで見届けよ』
ベルは俯いたまま、小さく呟く。
「神託……」
「神託があったから、シスターアリスは私たちを育てた?」
答える者はいない。
けれど、その疑問は胸の奥へ沈んでいく。
思い出す。
初めて熱を出した夜。
眠れず泣いていた自分の手を、朝まで握ってくれたこと。
転んで膝を擦りむけば、優しく手当てをしてくれたこと。
夜のあいつが悪戯をして、本気で怒られていたこと。
全部。
全部、神託だったのだろうか。
「……わかんないよ」
ベルは唇を噛む。
もし神託がなかったら。
シスターは自分たちを拾わなかったのだろうか。
抱きしめてはくれなかったのだろうか。
笑いかけてもくれなかったのだろうか。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
隣を歩くミリィは、そんなベルを何度も横目で見た。
だが何も言わない。
今はどんな言葉も届かないと分かっていたからだ。
ベルは空を見上げる。
青く澄んだ空は、あの日ジット村で見上げた空と何も変わらない。
それでも。
心のどこかで、小さな声が囁いていた。
――シスターは、本当に私たちを愛してくれていたの?
その問いだけが、答えのないまま静かに胸に残り続けていた。
宿へ戻ると、ウルフも帰ってきていた。
三人はそのまま宿の食堂へ向かい、少し遅い昼食を取ることにした。
料理が運ばれてきても、ベルはどこか上の空だった。
その様子を見て、ウルフが口を開く。
「で? どうだった?」
ベルは顔を上げ、無理に笑みを作る。
「うん……いろいろ聞けて、よかったかな」
「ふぅん」
短く返し、ウルフはフォークを手に取る。
ミリィも静かに言葉を続けた。
「すごい方……だったんだなって」
「そうね。びっくりしちゃった」
ベルはそう答えたものの、その笑顔はどこか力がない。
ウルフはじっとその顔を見つめる。
「スッキリしねぇ顔してるじゃねぇか」
その一言に、ベルは視線を落とした。
「うん……なんかシスターアリスのこと、わかんなくなっちゃって」
「教皇で、神託を受けて」
「その神託が、『二人の子を育てよ』で」
指先でスプーンをなぞりながら、小さく息をつく。
「私たちを拾ったのも」
「育ててくれたのも」
「全部、その神託があったからなのかなって」
食卓が静かになる。
ミリィは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
ウルフも何も言わない。
しばらくして、料理を一口食べると、それだけで話は終わった。
ベルもそれ以上は口を開かなかった。
目の前のスープから立ち上る湯気を眺めながら、心の中で同じ言葉を繰り返す。
――もし神託がなかったら。
――シスターは、私たちを拾わなかったのだろうか。
その答えは、誰も教えてくれなかった。
ベルが一人、先に部屋へ戻ったあと。
食堂には、ミリィとウルフだけが残っていた。
しばらく静かな時間が流れ、やがてウルフが口を開く。
「どう思う?」
ミリィは顔を上げる。
「シスターアリス様のことですか?」
ウルフは短く頷いた。
「私も……直接お会いしたことがないのでわかりませんが……」
少し言葉を選ぶように視線を落とす。
「お二人から聞いている話だと、とても神託を受けたから育てた……とは」
そこまで言って、口を閉じた。
ウルフはしばらく黙っていたが、小さく頷く。
「そうかい」
そして椅子にもたれ、煙草を一本取り出す。
ミリィは首を傾げた。
「そういうものでしょうか?」
ウルフは懐から黄金のライターを取り出し、親指で蓋を弾いた。
「そういうもんさ」
乾いた金属音が鳴った、その瞬間。
「ここ、禁煙ですよ?」
ミリィの冷静な一言に、ウルフの手が止まる。
数秒の沈黙。
やがて肩をすくめ、ライターの蓋を閉じた。
そのまま立ち上がると、煙草をくわえたまま外へ向かう。
残されたミリィは、その背中を見送りながら小さく息をついた。
「……まったく」
「ほんと、男って嫌よね」
突然、すぐ背後から聞こえた声に、ミリィの思考が止まった。
振り返ることすらできない。
その声を、知っていた。
「……っ」
喉が震える。
恐る恐る視線だけを動かそうとした瞬間、肩越しに銀色の髪が視界へ入り込んだ。
いつの間にそこへ立ったのか。
気配も、足音も、一切なかった。
ハーブはいつもと変わらぬミントグリーンのワンピースを纏い、柔らかな笑みを浮かべている。
昼下がりの食堂に溶け込むような、穏やかな令嬢の姿。
だからこそ、恐ろしい。
くすくす、と鈴を転がすような笑い声が耳元で弾んだ。
「あらあら、声を出さないなんてえらいわ」
白いレース手袋に包まれた手が、そっとミリィの頭へ置かれる。
その瞬間、肩がびくりと跳ねた。
全身から冷や汗が噴き出す。
心臓だけが激しく脈打ち、その音が自分にしか聞こえないほど大きく響いていた。
「そんなに汗を出して、大丈夫? 体調が悪いのかしら?」
まるで本気で心配しているような声音だった。
ハーブは懐からハンカチを取り出すと、ためらいもなくミリィの額へ当てる。
優しく、丁寧に汗を拭う。
乱れた前髪まで指先で整え、満足そうに微笑んだ。
食堂では誰も気付かない。
隣の席では笑い声が上がり、厨房からは皿の触れ合う音が響く。
店員が料理を運び、客たちは談笑を続けている。
この席だけが、静かに世界から切り離されていた。
ミリィは一言も発せない。
逃げたい。
助けを呼びたい。
ウルフはまだ遠くへ行っていないはずだ。
そう思うのに、身体は石像のように固まり、指先ひとつ動かなかった。
ハーブはそんな様子を眺め、また小さく笑う。
「あらあら」
その声はどこまでも穏やかで、優しかった。
けれどミリィには、その一言だけで十分だった。
今、自分の生殺与奪は、この女の機嫌ひとつで決まる。
そんな確信だけが、冷たい刃のように胸の奥へ沈んでいった。
そうしてハーブは、額を拭っていた手をそのまま滑らせるように下ろし、そっとミリィの顎へ添えた。
白いレース手袋越しの指先が、逃がさないと言わんばかりに優しく支える。
「あらあら、おとなしくしてくれて、本当に助かる」
その声音は、幼子を褒める母親のように穏やかだった。
指先から、とろりと透明な粘液が滲み出す。
雫は顎を伝うこともなく、そのままミリィの肌へ吸い込まれるように広がっていった。
次の瞬間。
張り詰めていた身体から一気に力が抜ける。
瞳から光が消え、焦点がぼやけた。
そのまま糸の切れた人形のように前へ傾き、テーブルへ静かに突っ伏す。
皿が小さく鳴った。
周囲の客が何人か顔を上げる。
しかし、そこに映るのは少女が居眠りを始めた光景だけだった。
ハーブは何一つ慌てる様子もなく、くすくすと口元を隠して笑う。
「この子ったら、食事中に寝ちゃうなんて、お行儀の悪いこと」
まるで困った妹を見つめる姉のような声音。
その自然さに疑いを抱く者はいない。
近くの客も、店員も、微笑ましいものを見る目で二人を眺めるだけだった。
「ごめんなさいね。この子、疲れていたみたいで」
そう言いながら、ハーブは眠ったミリィの身体をそっと抱き起こす。
細い腕を自分の肩へ回し、支えるように寄り添わせる。
傍から見れば、眠気に負けた少女を介抱する保護者そのものだった。
店員が勘定を告げると、ハーブは何事もない笑顔で代金を支払う。
受け取った釣り銭を丁寧にしまい、軽く会釈をした。
「ごちそうさまでした」
誰も引き留めない。
誰も疑わない。
昼下がりの穏やかな食堂から、銀髪の令嬢は眠る少女を支えたまま、ゆっくりと扉の向こうへ消えていった。
扉の鈴が、小さく澄んだ音を鳴らした。




