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【World Wide Love ― 2人で1人の逃走譚 ―】  作者: KK
【第2部】第6章ーシスターアリスの秘密ー

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そんなに偉いなんて思わなくってー

ベルは混乱したまま、老神官を見つめた。


「で……でも、教皇になるには、シスターアリスは若すぎませんか?」


その問いに、老神官は静かに頷いた。


「その通りです」


「通常、教皇に選ばれるのは長年教会へ尽くし、多くの実績を積んだ者」


「四十代、五十代でも若いと言われます」


「二十代でその座に就いた例など、教会の歴史上ほとんどありません」


ミリィが驚いたように目を見開く。


「では、なぜ……」


老神官は少しだけ遠くを見るような目になった。


「アリス様は、特別だったのです」


「聖職者としての人格」


「知識」


「指導力」


「そして何より、人を惹きつける力」


「どれを取っても、誰も及びませんでした」


「当時の枢機卿たちが満場一致で推薦し、前教皇も自ら後継者に指名されたほどです」


ベルは首を横に振る。


信じられない。


自分の知っているシスターは、そんな人ではない。


朝は寝坊した子どもを起こしに走り回り。


夕方には夕飯の味付けに悩み。


洗濯物を畳みながら鼻歌を歌う。


そんな普通の人だった。


思わず口をついて出る。


「私には……全然そんな風に見えなかった」


老神官は穏やかに笑った。


「それでよかったのでしょう」


「アリス様が望まれたのは、教皇として見られることではありませんでしたから」


「一人のシスターとして、人と接すること」


「それが、あのお方の選んだ生き方でした」


ベルは台帳へ視線を落とす。


そこに刻まれた『第百二十七代教皇』という文字と、記憶の中で笑うシスターの姿が、どうしても重ならない。


ミリィも静かに呟いた。


「ベルさんのお話を聞いている限り……」


「私には、とても世界の頂点に立つ方には思えません」


老神官は小さく笑った。


「教会の者も皆、同じことを申します」


「だからこそ、今でもアリス様を尊敬しているのです」


「肩書きを捨てても変わらず、人として在り続けた方でしたから」


その言葉を聞いたベルは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


少なくとも一つだけ、確かなことがある。


ジット村で笑っていたシスターアリスは、演じていたわけではなかった。


老神官は静かに台帳を閉じた。


重い革表紙が音を立て、部屋に再び静寂が満ちる。


そして、不意にベルへ視線を向けた。


「ベル・ジット殿」


「あなたにとって、アリス様はどのようなお方でしたか?」


突然の問いだった。


ベルは少し驚いたように目を瞬かせる。


それから、ゆっくりと瞳を閉じた。


浮かぶのは、豪奢な衣装を纏う教皇ではない。


小さな教会の庭で洗濯物を干す姿。


泣けば抱きしめてくれた腕。


悪いことをすれば本気で叱ってくれた顔。


夜になれば、みんなで囲んだ食卓。


胸の奥から、自然と言葉が零れた。


「……優しくて、強くて……」


少しだけ息をつく。


「正しくて、そして……暖かかった……です」


その答えを聞いた老神官は、静かに目を細めた。


「そうですか……」


穏やかな笑みが、その顔に浮かぶ。


「あの方らしい」


その一言には、どこか安堵が滲んでいた。


教皇としての偉業でも。


神託を受けた聖人としてでもない。


一人の少女が思い出すのは、ただ暖かなシスターの姿だった。


老神官は小さく頷く。


「我々は教皇としてのアリス様しか知りません」


「ですが、あなたは違う」


「あなたは、シスターとして生きたアリス様を知っている」


ベルはゆっくりと目を開けた。


老神官は窓の外へ視線を向ける。


「それを聞けただけで、今日お会いした意味がありました」


「教会が誇る教皇であったことよりも」


「一人の子どもに、そのように思われていたことの方が」


「きっと、あの方は喜ばれるでしょう」


ベルは、ふと何かを思い出したように顔を上げた。


「ミーファは……このことを?」


口にした瞬間、自分で首を傾げる。


いや、そんなはずはない。


教会総本部の大神官が、辺境の小さな村にいる一人のシスターのことまで把握しているわけがない。


そう思った。


だが。


老神官は何の迷いもなく頷いた。


「ミーファ・レンレンですか……」


ベルは思わず身を乗り出す。


「ご存知なのですか?」


「はい」


老神官は穏やかな表情のまま答えた。


「アリス様に連なる者なれば」


「彼女もまた、シスターになった折、ここでこうして、あなたと同じように話を聞いていましたよ」


ベルとミリィは同時に目を見開く。


「ミーファが……ここに?」


「ええ」


老神官は懐かしむように目を細めた。


「アリス様の名を口にし、驚き、戸惑い、信じられないという顔をしていました」


「まるで、今のあなたと同じように」


思わずベルは苦笑する。


「そっか……ミーファも」


老神官は小さく頷いた。


「そして最後に、私へこう尋ねました」


『アリス先生は、最後まで笑っていましたか?』


その言葉を聞いた瞬間、ベルの胸が締めつけられる。


あまりにもミーファらしい問いだった。


老神官は静かに続ける。


「私は答えました」


「ええ、と」


「アリス様は最後まで穏やかで、誰よりも優しい笑顔の方でした、と」


しばらく沈黙が流れる。


やがてベルは、小さく笑った。


「……そうだよね」


「シスターは、いつも笑ってた」


老神官もまた、その言葉に静かに頷いた。


「ええ」


「だからこそ、ミーファ・レンレン殿も安心したように笑われました」


「そして帰り際に、私へこう仰ったのです」


『やっぱり、先生は先生ですね』


その一言だけを残して、彼女は聖都を後にしました。


部屋に静かな空気が流れる。


ベルの脳裏には、ジット村の小さな教会で笑うシスターと、その隣で少し照れくさそうに笑うミーファの姿が重なっていた。


そうして話は終わりを迎えた。


ベルとミリィは立ち上がり、深く頭を下げる。


「ありがとうございました」


老神官もまた、静かに一礼した。


「こちらこそ」


重い扉が開かれる。


廊下へ出ると、いつの間にか数人の神官やシスターたちが並んでいた。


誰一人として言葉は発さない。


ただ、穏やかな表情で二人を見送っている。


ベルとミリィは、その間をゆっくりと歩いた。


教会の大きな正門をくぐり、石畳へ足を踏み出す。


そこでベルは足を止めた。


振り返る。


白い建物の前には、まだ老神官たちが立っていた。


ベルは少しだけ迷い、それでも口を開く。


「シスターアリスは、幸せだったのでしょうか?」


風が静かに吹き抜ける。


老神官はその問いを聞くと、ゆっくりと微笑んだ。


そして穏やかな声で答える。


「あなたがここに来て、今そう聞いたことが、答えかと」


その言葉に、ベルは小さく頷く。


だが大神官は、そのまま静かに続けた。


「……一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」


「本来、外部の方へ語ることはありません」


「ですが、アリス様が命を懸けて守られた方であれば、お聞かせするべきなのでしょう」


ベルもミリィも、自然と息を呑む。


大神官は遠い昔を思い返すように目を細めた。


「アリス様が教皇の座を退かれた理由」


「それは神託とお答えしましたが」


「その神託の内容は――」


静かな声が、廊下に響く。


『ジット村へ向かえ』


『そこで出会う二人の子を育てよ』


『その子らが歩む道を、最後まで見届けよ』


それだけだった。


ベルの表情から、ゆっくりと色が消えていく。


「……二人の子」


誰に聞かせるでもなく、呟く。


大神官は何も言わない。


否定も、補足も、しなかった。


ベルは俯いたまま、震える声で続ける。


「じゃあ……」


「シスターは、最初から」


「私たちを育てるために」


その先は言葉にならなかった。


長い沈黙が流れる。


やがてベルは小さく頭を下げた。


「教えてくださって、ありがとうございました」


大神官も静かに礼を返す。


ミリィも静かに頭を下げる。


老神官をはじめ、神官やシスターたちも一斉に礼を返した。


誰も引き留めない。


誰も多くを語らない。


ただ一人のシスターを想う者同士として、その場に穏やかな時間だけが流れていた。


ベルはもう一度だけ教会を見上げる。


そして前を向いた。


「行こう、ミリィ」


「はい、ベルさん」


二人は並んで歩き出す。


その背中を、聖都エンブラハンの鐘の音が静かに送り出していた。



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