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【World Wide Love ― 2人で1人の逃走譚 ―】  作者: KK
【第2部】第6章ーシスターアリスの秘密ー

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シスターアリスの話が聞きたくてー

翌朝。


聖都エンブラハンの中央にそびえる教会本部は、朝から多くの巡礼者で賑わっていた。


白い大理石の床は磨き上げられ、差し込む陽光を柔らかく反射している。


ベルとミリィは並んで受付へと歩み寄った。


ウルフの姿はない。


「こういうのは、お前らだけで行ってこい」


そう言い残し、一人で街を見て回ると言って別れたのだ。


気を遣ってくれたのだろうと、ベルもミリィも何となく感じていた。


受付には若いシスターが座っていた。


柔らかな笑みを浮かべ、二人へ会釈する。


「どうかなさいましたか?」


ベルは一度だけ息を吸い込む。


「あの、ちょっとお伺いしたいことがあって」


「ジット村の教会にいた、シスターマリアのことでお伺いしたいことが……」


その瞬間だった。


受付のシスターの笑顔が、ぴたりと止まる。


「……今、何とおっしゃいましたか?」


ベルは戸惑いながら繰り返した。


「ジット村の教会の、シスターマリアです」


シスターは瞬きを忘れたようにベルを見つめる。


やがて、震える指先で机の上の呼び鈴に触れた。


軽い音が静かな受付に響く。


奥から現れた年配の神官が事情を聞こうと近づいてきたが、受付のシスターは小声で耳打ちした。


その一言だけで、神官の表情も変わる。


驚愕。


困惑。


そして信じられないものを見るような視線。


神官は改めてベルの前へ立ち、深く一礼した。


「失礼ですが、お名前をお聞かせ願えますでしょうか」


「ベル・ジットです」


「隣はミリィです」


神官は目を閉じ、小さく息を吐いた。


「……少々、お待ちください」


それだけ言い残し、足早に奥へと消えていく。


受付には妙な静寂だけが残った。


事情の分からない巡礼者たちは不思議そうにこちらを眺めている。


ベルは思わずミリィを見る。


ミリィも同じようにベルを見返した。


二人とも、まだ何も知らない。


ただ一つだけ分かったことがある。


シスターマリアという名前は、この教会にとって決して「村にいた一人のシスター」ではなかった。


受付で待つよう告げられてから、それほど時間はかからなかった。


奥の扉が静かに開く。


現れたのは、白髪交じりの老神官だった。


年齢は七十を超えているだろうか。


背筋は真っ直ぐ伸び、その瞳だけは驚くほど力強い。


受付のシスターが慌てて頭を下げる。


「大神官様」


その一言に、周囲の神官たちまで一斉に姿勢を正した。


老神官はベルの前まで歩み寄ると、しばらくその顔を見つめる。


そして静かに口を開いた。


「あなたが……ベル・ジット殿ですか」


「はい」


「そして、ジット村でシスターマリアに育てられた」


ベルは頷いた。


「そうです」


老神官はゆっくりと目を閉じた。


何かを噛み締めるような沈黙。


やがて再び目を開くと、穏やかな声で言う。


「こちらでは立ち話も何です」


「どうぞ、奥へ」


ベルとミリィは顔を見合わせ、小さく頷いた。


案内された先は、来客用とは思えないほど静かな一室だった。


厚い扉が閉まると、外の喧騒は嘘のように消える。


老神官は席に着くことなく、窓辺に立った。


「まず、お詫び申し上げます」


「あなた方が訪れることを、我々は想定しておりませんでした」


ベルは首を傾げる。


「そんなに珍しいことなんですか?」


「ええ」


老神官は振り返る。


「ジット村へ赴任したシスターマリアは、その後一度も教会本部へ戻っておりません」


「連絡も、必要最低限だけでした」


「ですから、彼女を知る者も年々少なくなっています」


ミリィが静かに尋ねる。


「では、シスターマリア様はどんな方だったのでしょうか」


老神官は少しだけ微笑んだ。


「優しい方でした」


「厳しく、真面目で、それでいて誰よりも子ども好きな方でした」


「孤児院を任せれば右に出る者はいないと、皆が口を揃えておりました」


その答えに、ベルは思わず笑う。


「それは...とてもシスターマリアらしいです」


老神官もつられるように笑った。


「そうですか」


「最後まで、変わられなかったのですね」


再び静寂が訪れる。


そして老神官は、慎重に言葉を選ぶように続けた。


「ですが」


「あなた方が知りたいのは、そのような話ではないのでしょう」


ベルの表情が引き締まる。


老神官は真っ直ぐベルを見つめた。


「シスターマリアについて記された記録は、確かに残っています」


「ですが、その多くは閲覧権限が必要です」


「本来であれば、お見せすることはできません」


一拍置き、老神官は静かに息を吐く。


「……しかし」


「ベル・ジット殿」


「あなたが来られたのであれば、話は別です」


ベルは思わず身を乗り出した。


「どういうことですか?」


老神官はすぐには答えず、ゆっくりと机の引き出しから一つの古い鍵を取り出す。


銀色に鈍く輝くその鍵は、長い年月を経ても大切に保管されていたことが一目で分かった。


「こちらへ」


案内された先は、教会本部のさらに奥。


何重もの扉を抜け、一般の神官すら立ち入れない静かな回廊だった。


壁には歴代の教皇や聖職者たちの肖像画が並び、誰も声を発する者はいない。


やがて一枚の重厚な扉の前で足が止まる。


老神官は鍵を差し込み、静かに回した。


軋む音とともに扉が開く。


中は書庫だった。


天井まで届く棚に、古い書物や巻物が整然と並べられている。


老神官は迷うことなく一冊の分厚い台帳を取り出し、机の上へ置いた。


革張りの表紙には、何も書かれていない。


ページをめくる。


そして、ある箇所で手を止めた。


「ここです」


ベルとミリィが覗き込む。


そこに記されていたのは、シスターマリアの履歴だった。


生年月日。


洗礼名。


任地。


そして――。


ベルの目が止まる。


「え……?」


何度見ても、間違いではない。


最終任地。


ジット村教会。


その一つ前の欄には、


教会総本部。


さらに前には、


中央聖教会。


そして、そのさらに前。


肩書きの欄だけが、異様なほど大きな文字で記されていた。


第百二十七代教皇


ベルの思考が止まる。


喉が震え、声にならない。


ミリィも目を見開いたまま、台帳から視線を離せない。


老神官は静かに口を開いた。


「シスターマリアは」


「かつて、この教会の頂点に立たれたお方です」


「その後、自ら教皇の座を退かれ、一切の権限を放棄されました」


「理由は誰にも告げられておりません」


「残された記録も、ごく僅かです」


ベルはようやく声を絞り出した。


「そんな人が……」


「どうして、あんな小さな村に」


老神官は少し逡巡した後で、


「ただ一つ確かなのは」


老人の視線が、静かにベルへ向けられる。


「シスターマリアは、自ら望んでジット村へ赴かれたということだけです」


部屋に沈黙が落ちる。


ベルの脳裏には、質素な教会の台所で笑うシスターの姿しか浮かばない。


洗濯物を干し。


子どもたちを叱り。


夜になれば皆で食卓を囲み。


そんな人が、世界中の教会を束ねる教皇だった。


どうしても結びつかなかった。


そして台帳の最後のページ。


退任理由の欄には、短く一文だけが記されていた。


『神託を受け、自らその座を退く』


それ以上は、何も書かれていなかった。


ベルの喉がひくりと震えた。


台帳に書かれた文字を見つめたまま、信じられないというように呟く。


「きょ……教皇って」


老神官は静かに頷いた。


「教会における最高位の聖職者です」


「世界中の教会を束ね、数百万の信徒を導く存在」


「その責任と権限は、一国の王にも劣りません」


ベルはぱちぱちと瞬きを繰り返す。


頭の中で、知っているシスターアリスの姿と、その説明がどうしても結びつかない。


「でも……」


「シスター、料理してたし」


「畑も耕してたし」


「夜なんて、洗濯物取り込むの忘れたって慌てて走ってたし」


思い出すたびに、ますます分からなくなる。


「あいつなんて風呂覗いて、思いっきり蹴られてたし……」


思わず漏れた言葉に、ミリィが小さく咳払いをした。


老神官は一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと笑みを浮かべる。


「そうでしたか」


「そのようなお姿だったのですね」


その笑顔には、どこか安心したような色があった。


ベルはまだ納得できず、首を振る。


「そんな偉い人が、なんでジット村なんかに……」


「なんで、私たちなんかを育てて……」


問いは宙に消える。


老人は静かに台帳へ手を添える。


「退任を決意された日のことです」


ベルとミリィが顔を上げる。


老神官は遠い昔を思い出すように目を細めた。


「アリス様は私に、こう仰いました」


「『ようやく、本当に私がやりたかったことができます』と」


それだけだった。


教皇の座を惜しむ言葉も。


未練も。


迷いも。


何一つ残さず、穏やかに笑って聖都を去っていったという。


ベルはその言葉を胸の中で何度も繰り返した。


――本当にやりたかったこと。


その答えが、辺境の小さな教会で孤児たちと暮らすことだったのだろうか。


それとも。


まだ、自分の知らない何かがあるのだろうか。

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