聖都エンブラハンに来たのにはー
一週間に及ぶ馬車の旅を終えた朝。
丘を越えた先に、その街は姿を現した。
白。
視界いっぱいに広がる建物のほとんどが白い石で造られ、朝日に照らされて淡く輝いている。
無数の尖塔が天を突き、街の中心には他を圧倒する巨大な大聖堂がそびえ立っていた。
その鐘楼は雲を突き抜けるほど高く、遠く離れた街道からでも存在感を放っている。
ベルは思わず息を呑んだ。
「……大きい」
隣でミリィも静かに目を見開く。
「これが、聖都エンブラハン……」
御者が苦笑する。
「初めて来た人は皆そう言うよ」
「世界中から人が集まる街だからな」
馬車がゆっくりと門をくぐる。
そこには各国の旗が翻り、巡礼者、商人、神官、旅人が絶え間なく行き交っていた。
白い法衣を纏ったシスターが孤児たちと手を繋ぎ歩き、露店では焼き菓子の香りが漂う。
どこか厳かな空気はあるのに、不思議と息苦しさはない。
人々の表情は穏やかだった。
「教会の総本部って、もっと怖いところかと思ってました」
ミリィが小さく呟く。
「意外と普通だな」
ウルフも街並みを眺めながら肩を竦めた。
ベルだけは黙ったまま、大聖堂を見上げている。
あのどこか懐かしいような白い建物を。
胸の奥が、少しだけざわついた。
理由は分からない。
ただ、シスターアリスの面影を思い出していた。
白い修道服。
柔らかな笑顔。
優しく頭を撫でてくれた手。
「まずは宿を取りましょう」
ミリィの言葉にベルは我に返る。
「うん」
三人は人波へ紛れ、石畳の大通りを歩き始めた。
その途中、道案内をしていた若い神官の前を通り過ぎる。
神官は何気なくベルへ視線を向け、一瞬だけ首を傾げた。
まるでどこかで見た顔を思い出そうとするように。
だがすぐに首を振り、再び巡礼者の案内へ戻っていく。
ベルは気付かない。
ミリィも気付かない。
ウルフだけがその様子を横目で見て、小さく鼻を鳴らした。
「……面倒な匂いがするな」
誰にも聞こえないほど小さな独り言は、賑わう聖都の喧騒に溶けて消えた。
宿へ着いた頃には、長旅の疲れもあって陽は大きく西へ傾いていた。
部屋へ荷物を運び込み、一息ついたベルは、窓際へ置いた鞄から手を離して振り返る。
その表情には、ここへ着いてから初めて見るほどの落ち着かない色が浮かんでいた。
「それじゃ教会に行ってくるね!」
荷物を整理していたミリィが、慌てて振り向く。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ベルは足を止め、きょとんと首を傾げた。
「?」
ミリィは苦笑しながら窓の外を指差す。
「今日はもう遅いです。明日にしませんか?」
ベルが視線を向けると、窓の向こうでは夕焼けが白い街並みを茜色に染めていた。
大通りを歩く人影も少しずつ減り始め、商店は店じまいの準備を始めている。
しばらく黙って眺めていたベルは、小さく肩を落とした。
「そっか……そうだよね」
それから照れ隠しのように笑う。
「ごめんね、焦ってるみたい」
ミリィは静かに首を振った。
「お気持ちは分かります」
「ですが、一週間かけて来たのです」
「あと一晩待っても、何も変わりません」
その言葉に、ベルはゆっくりとうなずいた。
「うん」
部屋に穏やかな静けさが戻る。
窓の外からは、遠く鐘の音が聞こえてきた。
夕暮れを告げる音色が、聖都エンブラハンの空へゆっくりと広がっていく。
ベルはその音に耳を傾けながら、静かにベッドへ腰を下ろした。
焦る必要なんてない。
明日になれば、教会へ行ける。
シスターアリスのことを知る手掛かりが、きっと見つかる。
そう自分に言い聞かせるように、小さく息を吐いた。
夕暮れの光が窓から差し込み、部屋の床を赤く染めていた。
荷物の整理を終えたミリィが椅子へ腰を下ろすと、窓辺に立つベルがぽつりと呟く。
「ねぇ、ミリィ。私、実は怖いの」
ミリィは静かに顔を上げた。
ベルは窓の外を見つめたまま続ける。
「前にアルティシアも言ってたけど、シスターアリスには何か……」
少しだけ言葉を選び、
「私たちの知らない秘密があるみたい」
「秘密……?」
ミリィが小さく聞き返す。
ベルは頷いた。
「それが何か、わからなくて、そして、それを知るのが怖い……」
「だから、これまで気づかないふりしてたのかも」
「だけどもう、そうも言ってられない」
少しだけ自嘲するように笑う。
「だって、気になってしまったから」
部屋に静寂が落ちた。
ミリィはすぐには答えない。
自分が知っているシスターアリスは、ベルから聞いた思い出の中の人だけだった。
優しくて、強くて正しくて、時には厳しい。
それ以上のことは何も知らない。
だからこそ、静かに口を開いた。
「ベルさん」
「私はシスターアリス様にお会いしたことはありません」
「ベルさんから聞いたお話しか知りません」
「ですから、秘密があるのかも、その秘密が何なのかも分かりません」
ベルは何も言わず耳を傾ける。
「でも」
ミリィは穏やかに微笑んだ。
「ベルさんが知りたいと思ったのなら、それはきっと、知る時が来たということなのだと思います」
「怖くても、一人ではありません」
「私も、一緒にいますから」
ベルはゆっくりと振り向いた。
その表情はまだ不安を抱えたままだったが、少しだけ力が抜けている。
「……ありがとう」
小さく笑うと、再び窓の外へ目を向けた。
明日、何を知るのかは分からない。
けれど、もう目を逸らすつもりはなかった。
ベルは窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「シスターはもしかしたら……私たちのことも何か、知っていたのかもしれない」
ミリィはその横顔を静かに見つめる。
「もし、本当にそうだったら」
そう口にしかけて、言葉を飲み込んだ。
ベルは自分の考えを整理するように続ける。
「もし最初から全部知っていて、それでも私たちを拾ってくれたんだとしたら」
少しだけ苦笑した。
「シスター、私にはすごい優しかったけど」
「あいつはいつも迷惑ばっかりかけてた」
思い出したように肩を揺らす。
「木に吊るされたり、怒られたり、それでも全然懲りなくて」
その光景を想像したのか、ミリィも思わず口元を緩めた。
「ベルさんのお話を聞く限り、当然です」
「うん。ほんとに」
ベルも笑う。
けれど、その笑顔はすぐに静かに消えた。
「でも、もし全部知ってたなら」
「シスターは、そのたびに何を思ってたんだろう」
問いかけても、答える人はいない。
部屋に沈黙が落ちる。
ミリィは窓の外へ視線を向けたまま、ぽつりと言った。
「明日、聞いてみましょう」
「知っている人が、いるかもしれません」
ベルはゆっくりとうなずく。
「うん」
「もう逃げない」
その言葉だけが、小さな部屋に静かに残った。




