いざ、ルグレシアへ!ー
マリーナは目を伏せた。
長い沈黙。
その沈黙を破るように、小さく息を吐く。
「本当は嫌なんだ…」
組んでいた腕がゆっくりと解かれる。
「困った時、彼に、彼の力を当てにするような真似は…」
その声は弱々しかった。
いつもの迷いのない口調ではない。
「でも…今回だけは」
その先を。
ベルが遮った。
「わかってる!」
強く。
迷いなく。
「何も言わないで」
そして。
右手を握り締める。
その拳を、水晶へ向けて突き出した。
「すぐに行くから!」
真っ直ぐな瞳。
揺るがない声。
「必ず助ける!」
マリーナの表情がわずかに揺れる。
「ベル…」
ベルは照れくさそうに笑った。
「だって、友達だもん!」
その一言だった。
マリーナの口元がふっと緩む。
固く張り詰めていた表情が。
ほんの少しだけ崩れた。
静かに右手を持ち上げる。
通信越しの水晶へ向けて。
拳を作る。
こつん。
画面を隔てた二人の拳が。
まるで触れ合ったかのように重なった。
誰も言葉を挟まない。
その小さな音だけが部屋に響く。
やがてマリーナは再び真剣な表情へ戻った。
「サナトリアの先行部隊はすでにルグレシアに到着している」
一拍置く。
「本隊も今夜にはー」
ベルは力強く頷いた。
迷いは一つもない。
「間に合わせるよ」
拳はまだ水晶へ向けたまま。
「必ず!」
その瞳に映る決意は揺るがない。
「約束する!」
水晶の向こうで。
マリーナは静かにその言葉を受け止めた。
大陸警察支部を後にした三人は、一度宿へ戻っていた。
部屋へ入るなり。
ベルは振り返る。
真剣な表情のまま、二人を見た。
「ルグレシアには私とあいつの2人で行くから、2人は後から来てね」
その言葉に。
ウルフが眉を上げる。
「おいおい、そうは言っても、ベルの兄ちゃんはどこなんだよ?」
腕を組み。
首を傾げる。
ベルは一瞬だけ言葉に詰まった。
それでもすぐに笑顔を作る。
「それはー…大丈夫!すぐに落ち合うから」
ウルフはじっとベルを見つめた。
何かを探るような目。
だが。
やがて肩を竦める。
「そうかい…それなら、いいんだけどよ」
今度はミリィが不安そうに口を開く。
「でも、どうやって行くんですか?」
窓の外へ目を向ける。
遥か彼方にあるルグレシアを思い浮かべるように。
「今から出ても…」
言葉は最後まで続かなかった。
馬車では一週間。
列車を使ったところで間に合わない。
それは誰もが分かっている。
ベルはそんな二人を見て。
胸の前で拳を軽く握った。
そして。
にっこりと笑う。
「それも考えがあるから、私に任せて!」
その笑顔は。
ついさっきまで戦争の話をしていたとは思えないほど明るかった。
ミリィはまだ心配そうな顔をしている。
ウルフも腕を組んだまま黙っていた。
だが二人とも、それ以上は何も聞かなかった。
ベルがそう言うなら。
きっと何かある。
そう信じるしかなかった。
街を出て。
しばらく歩いた先。
見渡す限りの草原に、ベルは一人立っていた。
風が吹く。
黄金色に染まり始めた草を揺らし。
西の空へ沈みゆく太陽を照らしている。
赤く。
赤く。
今日という日が終わろうとしていた。
ベルは空を見上げる。
両手を胸の前で固く握り締め。
唇を噛む。
焦りが止まらない。
心臓が早鐘を打つ。
一秒。
その一秒さえ惜しい。
「早く…」
震える声が漏れた。
「早く…」
太陽は何も知らないように。
ゆっくりと地平線へ近付いていく。
「早く!」
ベルは一歩前へ踏み出した。
祈るように。
叫ぶように。
西の空へ手を伸ばす。
「沈め…」
声が震える。
涙が滲む。
「沈め…」
風だけが答える。
太陽は変わらず。
ゆっくりと。
あまりにもゆっくりと。
地平線へ沈んでいく。
ベルは歯を食いしばった。
両拳を握り。
空へ向かって叫ぶ。
「早く…早く…早く!沈め…沈め…早く沈んでぇっ!!」
その悲鳴にも似た声が。
夕焼けに染まる草原へ響き渡った。
そして。
地平線の向こうへ。
太陽の最後の光が、静かに消えた。
そして。
ベルの身体が内側からざわりと揺れる感覚。
「来た!」
胸の奥で何かが脈打つ。
全身を駆け巡る熱とともに、腰まで伸びた黒髪がふわりと浮き上がる。
さらさらと揺れながら。
その長い髪は見る間に縮み。
肩を過ぎ。
首筋まで。
そして耳にかかるほどの短い長さへと変わっていく。
同時に色も黒から銀へ。
夕暮れの残光を受けて淡く輝いた。
瞳も静かに赤く染まる。
華奢だった身体はすらりと伸び。
少女の輪郭は青年のものへ。
骨格が変わり。
筋肉が付き。
服の中で自然と体格が変化していく。
やがて変化は止まった。
銀髪の短い髪を風になびかせた青年が、静かに夜空を見上げる。
「よし」
短く呟く。
次の瞬間。
大地を蹴った。
轟音とともに土が爆ぜ。
銀色の影は一直線に空へ舞い上がる。
目指すはルグレシア。
夜の空を切り裂きながら、その姿は瞬く間に彼方へ消えていった。
ベルは大地を蹴った。
轟音とともに土が爆ぜ。
その身体は矢のように夜空へ跳び上がる。
猛烈な風が銀髪を揺らす。
眼下では草原が瞬く間に遠ざかっていく。
上昇の勢いが頂点へ達した、その瞬間。
ベルは両手を前へ掲げた。
十本の指を広げる。
そこにはめられた九つの指輪が、月明かりを受けて静かに輝いた。
「カレン!出てこい!」
呼び声が夜空に響く。
次の瞬間。
轟音。
空の上から一本の稲妻が真っ直ぐ落ちてきた。
白く眩い閃光が天地を貫く。
その光の柱の中から、一人の少女が姿を現す。
白金色のさらさらとした長い髪。
額には七色に輝く一本角。
和装をまとい。
金色の瞳を細めながら、いたずらっぽく笑みを浮かべる。
「妾を呼んだな?主様よ」
稲妻は一瞬で消え去る。
残された鬼の姫神は、落下を始めたベルのすぐ傍らで口元を緩めた。
「こんなに急いでおるとは珍しいのう。何ぞ面白いことでもあるのかえ?」
ベルがニヤリと笑う。
そして遥か彼方を指差した。
ルグレシアのある方角へ。
「カレン!何も言わず、俺をあっちに思いっきり投げてくれ!」
カレンはその指先をちらりと見やると。
すぐにベルの両手を掴んだ。
「あいわかった!思い切りやるから、舌を噛まれるな」
そう言って強く引き寄せる。
互いの距離が一気に縮まる。
そのまま。
近づいたベルの唇へ、そっと口づけた。
ベルが目を見開く。
ゆっくりと唇を離したカレンは、満足そうに微笑んだ。
「褒美は先にいただいたぞ」
ベルは苦笑する。
「まったく…」
その返事を聞くや否や。
カレンはベルの身体を大きく振り始めた。
「それではいくぞ!」
ぐるり。
ぐるり。
夜空を切るように。
数度、勢いよく振り回し。
だんだんと回転が加速して行く。
そうしでベルの姿が残像でも捉えきれない速度になった。
最後の一回で。
全身の力を込めて放つ。
「ルグレシアまで!ぶっとべ!主人様ぁっ!!」
ベルの身体が夜空へ弾丸のように射出された。
「うおっ!うおぉぉぉぁぉぉぉーーーーーーーっ!!」
悲鳴はみるみる遠ざかり。
やがて小さく。
さらに小さく。
銀色の点となって夜空の彼方へ消えていく。
カレンは右手を額にかざし。
その姿を見送った。
「うむ、いい感じじゃ」
満足げな笑みを浮かべたまま。
静かな夜空をいつまでも眺めていた。




