マリーナの願いー
部屋の空気が変わった。
穏やかだった時間が。
一瞬で張り詰める。
ウルフは腕を組み、壁にもたれかかったまま口を開いた。
「そんでなーベルが寝込んでる間、この街でいろいろ聞いたんだがー妙な噂を耳にしてな」
ベルは眉をひそめる。
「…噂?」
隣のミリィへ視線を向けた。
だがミリィは小さく首を左右へ振る。
「私はほとんどこの部屋にいましたから..」
ウルフが小さく頷いた。
「詳細はわかんねぇんだけどな?」
少しだけ言葉を切る。
「なんでも…ルグレシア王国がサナトリアに宣戦布告されたらしい」
「え!?」
ベルは思わず声を上げた。
「ルグレシアが!?」
その驚きに重なるように。
ミリィも息を呑む。
「それって…戦争って、ことですか?」
ウルフは静かに頷いた。
「しかもよ、中央大陸のほとんどの国がサナトリアについて、ルグレシアは孤立してるってー話だ」
部屋が静まり返る。
ベルの表情が曇る。
俯きながら、小さく呟いた。
「…もしかして…聖女のことで…」
ミリィも真剣な顔で考え込む。
「…それは、ありえますね」
ウルフはベルを見る。
「どうする?ルグレシアに戻るか?」
ミリィはすぐに首を振った。
「これからルグレシアに向かっても馬車で1週間はかかります」
焦って飛び出しても。
間に合わない。
ベルは唇を噛み締めた。
そして静かに顔を上げる。
「まずは情報が欲しい…」
その言葉に。
ミリィの表情が明るくなった。
「たしか、この街にも大陸警察支部があったはずです!そこでマリーナさんに連絡しては?」
ベルは大きく頷く。
迷いは消えていた。
「うん!そうだね!行こう!」
勢いよくベッドから降りようとして。
ふらりと身体が揺れる。
ミリィとウルフが同時に手を伸ばした。
ベルは苦笑いを浮かべる。
「だ、大丈夫」
そう言いながらも。
二人に支えられる形で立ち上がった。
急がなければならない。
ルグレシアで何が起きているのか。
その答えは。
大陸警察支部にあるはずだった。
三人は大陸警察支部へと足を運んだ。
事情を説明すると。
受付の職員は表情を変え、すぐに奥へ案内する。
通された先は会議室らしき部屋だった。
長い机。
整然と並ぶ椅子。
そして部屋の奥。
壁際には巨大な魔術装置が据え付けられている。
中央には大きな水晶。
磨き上げられた鏡のような透明な面が、淡い光を放っていた。
職員が装置へ魔力を流し込む。
低い駆動音。
水晶の表面が波紋のように揺れる。
やがて映像が浮かび上がった。
最初はぼやけていた輪郭が。
徐々にはっきりと人の姿を結ぶ。
長い金髪を後ろでまとめ。
丸い眼鏡の奥から鋭い視線を向ける女。
腕を組み。
険しい表情のまま画面いっぱいに映っている。
マリーナだった。
映像が安定した瞬間。
彼女の目が大きく見開かれる。
そして。
腕を組んだまま身を乗り出すように叫んだ。
「ベル…お前今、どうしてそんなとこにいるんだ!?」
その剣幕に。
ベルも思わず背筋を伸ばす。
ミリィとウルフも顔を見合わせた。
通信越しとは思えないほど切迫した空気。
マリーナの表情には、いつもの冷静さよりも焦りの色が濃く浮かんでいた。
マリーナの視線がふと動く。
ベルの隣。
腕を組んで立つウルフへ向けられた。
鋭い眼差し。
まるで犯人を尋問する刑事のようだった。
「その男はなんだ?」
一拍置いて。
低い声が続く。
「どういう関係だ?」
ベルは一瞬言葉に詰まった。
「こ、この人はウルフと言って…最近知り合った旅の仲間で」
慌てて説明する。
すると今度はミリィが身を乗り出した。
「だ…大丈夫です!私が小さい頃からの知り合いで…」
二人の必死な様子を見ても。
マリーナの視線は変わらない。
その圧力に。
さすがのウルフも肩を竦めた。
「こいつぁ…COOLだねぇ」
その一言で。
場の空気はさらに妙なものになる。
ベルも。
ミリィも。
狼狽えるばかりだった。
それだけ今のマリーナには凄まじい威圧感があった。
やがて。
マリーナは目頭を指で押さえ。
深く息を吐く。
「いや、すまない」
「今はそんなことはどうでもいい」
ベルはその言葉に飛びつくように前へ出た。
「そ、そうだよ!ルグレシアが侵攻されてるって…本当なの!?」
マリーナはゆっくりと瞳を開いた。
その表情は重い。
「事実だ」
短く言い切る。
「ルグレシア王国は今、サナトリアを中心とした中央大陸連合軍の侵攻を受けている」
ベルの顔から血の気が引いた。
「そんな…どうして…」
マリーナは視線を逸らさない。
「サナトリアは聖女奪還を大義に掲げ、宣戦布告している」
「それに賛同した各国が連合となって押し寄せている」
ミリィが静かに俯いた。
「やっぱり…それじゃ」
マリーナは苦しそうに頷く。
「そうだ」
「義はサナトリアにある」
その言葉を口にするだけで。
彼女の顔が悔しそうに歪んだ。
組んだ腕に力が入る。
指先が制服の袖を強く掴む。
「国家間の問題となると、大陸警察は干渉できない」
わずかな沈黙。
そして。
掠れたような声で続けた。
「ただ…見ていることしか」
重い沈黙の中。
最初に口を開いたのはミリィだった。
震える声。
それでも現実から目を逸らさずに問いかける。
「ルグレシアと…サナトリア連合の戦力差は…?」
水晶越しのマリーナは少しだけ目を伏せた。
慎重に言葉を選ぶように。
「こちらも正確な情報は立場上掴んでいないが…」
そして静かに続ける。
「賛同している国、そしてサナトリアの規模から考えると…おそらく100万」
部屋の空気が凍りついた。
ベルの唇がかすかに震える。
「100…」
その数字の意味を理解した瞬間。
頭の中が真っ白になる。
マリーナはゆっくりと頷いた。
「対するルグレシアは多くて3万ほど」
淡々とした口調。
だが、その声には悔しさが滲んでいた。
「勝負にもならん」
一拍置く。
眼鏡の奥の瞳が細められる。
「ただの蹂躙だ」
その一言が。
重く。
冷たく。
会議室に落ちた。
誰も口を開けない。
ベルは拳を強く握り締める。
爪が掌へ食い込むほどに。
ミリィは俯き。
唇を噛んだ。
ウルフだけが静かに腕を組んだまま、水晶に映るマリーナを見つめている。
窓の外から聞こえる街の喧騒だけが。
この部屋だけ取り残されたような静寂を、かえって際立たせていた。
マリーナはしばらく黙っていた。
組んでいた腕に。
ゆっくりと力が入る。
そして。
低い声で口を開く。
「ここだけの話…私とマークス、それにアンジュたちでルグレシアに侵入するつもりでいる」
「え!?」
ベルが思わず身を乗り出した。
マリーナは静かに頷く。
「わかっている」
「これは違法行為だ」
視線を落とす。
「私の最も忌みする行為…だが何もせず指を咥えて見ているなど…私にはできない」
その声には迷いがあった。
正義を守る者として。
法を守る者として。
越えてはならない一線を、自ら越えようとしている苦しみが滲んでいた。
ミリィが小さく呟く。
「マリーナ警部…」
マリーナは苦笑にも似た表情を浮かべる。
「無論、我々が行ったところで何ができるとも思えんが…」
拳がわずかに震える。
「何かあるはずなんだ」
「何か…」
「何か…」
その言葉は。
自分自身へ言い聞かせているようでもあった。
やがて。
マリーナの視線がベルへ向く。
真っ直ぐに。
迷いなく。
「彼は、ベルはどうしてる?」
「いるのか?」
ベルは一瞬だけ言葉に詰まり。
それでも慌てて答えた。
「い、今はいないけど…でもここにいるよ!だからー」
最後まで言わせなかった。
マリーナは静かに首を振る。
そして。
今まで誰にも見せたことのないような表情で。
口を開く。
「頼む」
「助けてくれ」
その一言だけで。
ベルも。
ミリィも。
息を呑んだ。
マリーナは俯く。
眼鏡の奥の瞳が揺れていた。
「私には何もできない…」
「だが、彼なら」
ゆっくりと顔を上げる。
「魔王殺しなら、きっと…」
言葉はそこで途切れた。
水晶越しに映るその姿は。
いつも冷静で。
誰よりも強く。
誰よりも揺るがないはずの地方特別捜査官ではなかった。
どうにもならない現実を前に。
それでも諦めきれず。
必死に手を伸ばそうとしている、一人の女性だった。
その姿を見て。
ベルもミリィも。
何も言えなかった。




