廃村を後にして、村へー
ベルはゆっくりと右手を持ち上げた。
その先には。
水晶玉を抱えたまま硬直するキンサシャ。
震える唇。
揺れる瞳。
水晶玉を持つ指先まで小刻みに震えていた。
ベルは静かな声で告げる。
「消されたくなければ、このまま帰ってハーブに伝えなさい」
赤い瞳が真っ直ぐキンサシャを射抜く。
「2度と私たちに関わらないでって」
その言葉を聞いた瞬間。
キンサシャの肩が大きく跳ねた。
何度も。
何度も。
壊れた人形のように首を縦へ振る。
水晶玉を胸へ抱き締め。
踵を返した。
転びそうになりながら。
足をもつれさせながら。
振り返ることもなく。
逃げるように廃村の奥へ消えていく。
その背中を。
ベルは黙って見送っていた。
やがて。
ふらりと身体が揺れる。
「う…あっ..」
頭を押さえる。
両手で。
苦しそうに。
その場で膝が折れた。
銀色だった長い髪が。
ゆっくりと縮んでいく。
床を覆っていた髪が。
腰まで。
肩まで。
元の長さへ。
同時に。
月光のような銀は黒へ染まり始める。
一本ずつ。
静かに。
何事もなかったかのように。
赤く輝いていた瞳も。
光を失い。
いつもの色へ戻っていく。
ベルは何かを掴もうとするように空へ手を伸ばした。
だが。
その指先は虚しく震えるだけだった。
次の瞬間。
力が抜ける。
そのまま前へ倒れ込む。
乾いた土の上へ。
静かに。
音もなく。
意識は闇へ沈んでいった。
廃村には風だけが吹いていた。
倒れたベル。
眠るミリィ。
眠るウルフ。
そして。
三人を乗せてきた馬車だけが。
何も知らないまま静かに佇んでいた。
ゆっくりと。
重たい瞼が開く。
最初に見えたのは見慣れない天井だった。
木目の走る梁。
白い漆喰。
窓から差し込む柔らかな陽の光。
ベルはぼんやりと瞬きを繰り返す。
身体を起こそうとして。
頭に鈍い痛みが走った。
「……あ」
思わず小さく声が漏れる。
その音に反応するように。
ベッドの横へ置かれた椅子から人影が勢いよく立ち上がった。
金色の髪が揺れる。
水色の瞳が潤む。
「ベルさん…よかったぁ…」
ミリィだった。
安堵したように胸へ手を当てる。
その目には涙が浮かんでいる。
ベルはしばらく呆然とミリィを見つめた。
そして。
恐る恐る口を開く。
「……ミリィ?」
「はい!」
返事はすぐだった。
生きている。
ちゃんと。
目の前で笑っている。
ベルの張り詰めていたものが一気にほどけた。
肩の力が抜ける。
「よかった……」
その一言だけだった。
ミリィは何度も頷く。
「私もウルフさんも無事です」
「怪我もありません」
「ただ眠らされていただけみたいで……」
少し間を置いて、困ったように笑う。
「ウルフさんも私も変な夢を見た話になったんです。現実とは思えなくて、幻覚だったんじゃないかって」
そこで言葉を切り。
さらに表情を曇らせた。
「でもベルさんだけ、三日も目を覚まさなくて……」
ベルは目を丸くした。
「三日……?」
ミリィは静かに頷く。
「はい」
「ずっと眠ったままでした」
部屋の中は静かだった。
窓の外から小鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。
ベルは自分の両手を見る。
黒い髪が肩へ落ちる。
赤い瞳も。
銀の長い髪も。
もうどこにもない。
あれは夢だったのか。
幻覚だったのか。
それとも。
ベルは胸元へそっと手を当てた。
何かを思い出しかける。
白銀の神殿。
涙を流す女神。
黒髪の少年。
世界を覆う光。
どれも霧がかかったように曖昧で。
掴もうとすると指の隙間から零れ落ちていく。
「……夢、なのかな」
小さく呟いた。
その声は、自分でも信じ切れていないように震えていた。
ベルは恐る恐る口を開いた。
「ミリィは…どんな夢、見たの?」
その一言に。
ミリィの肩がびくりと震える。
水色の瞳が揺れ。
行き場を失ったように視線が泳いだ。
ベルは慌てて両手を振る。
「あ!ごめん!言いたくなければー」
言葉を最後まで言い切る前に。
ミリィはワンピースの裾をぎゅっと握り締めた。
小さな指先が白くなる。
「…奴隷として売られた時の…それから…その後の夢、でした」
その言葉を聞いた瞬間。
ベルは勢いよく身体を起こした。
そのまま何も言わず。
ミリィを強く抱きしめる。
「ごめん…嫌なこと思い出させて!」
腕の中で。
ミリィは静かに目を閉じた。
ベルの胸へ顔を埋める。
少しの間だけ黙っていたが。
やがて小さく呟いた。
「いいんです…久々に見て…本当に辛かった…でも…」
ゆっくりと両手を伸ばす。
ベルの胸を優しく押し返し。
少しだけ距離を取る。
そして顔を上げた。
真っ直ぐ。
ベルの目を見る。
「最後はあなたに助けてもらうシーンでしたから」
にっこりと笑う。
その笑顔は。
さっきまで震えていた少女とは思えないほど穏やかだった。
ベルはその笑顔を見つめたまま。
言葉を失う。
「…ミリィ…」
短く名前を呼ぶことしかできなかった。
ミリィは照れくさそうに微笑み返し。
そっとベルの手を握った。
ミリィは少しだけ目を伏せた。
それでも穏やかに微笑む。
「本当に辛くて悲しくて…また感情を殺してしまいそうになったけど…最後はまた、これまでの人生で最高の瞬間を体験できて感動しましたから」
その笑顔に。
ベルも少しだけ表情を和らげた。
「ウルフは?どんな夢か聞いた?」
ミリィは静かに頷く。
「…私の父と出会う前、1人で彷徨っていた時の話、だそうです」
少し間を置いて。
「そして私の屋敷に来たところまで」
ベルは考え込むように呟く。
「なんか…」
ミリィも同じことを考えていたのだろう。
小さく頷いた。
「そうなんです。私とウルフさんの夢には共通点があって、人生で一番辛い時と、そこから助けてもらった時」
ベルはその言葉を繰り返すように口にする。
「始まりは一番辛い時…そして最後は助けられた時…」
ミリィが頷く。
「ウルフさんと私で話し合った結論はそうでした。ベルさんはどんな夢を?」
ベルは視線を窓の外へ向けた。
揺れる木々。
柔らかな陽射し。
しばらく眺めてから、ぽつりと呟く。
「…私は2人とは違うかも」
「え?」
「私の夢は私の話じゃなかったから」
ミリィが首を傾げる。
「そう…なんですか?」
「うん、なんか、女神様?の話で」
そこまで言った瞬間。
胸の奥で何かが引っ掛かった。
白銀の神殿。
涙を流す女神。
黒髪の少年。
世界を覆う光。
そして――。
「あれ…でも最後は…」
ベルの瞳が揺れる。
最後に見た景色。
風に揺れる草原。
懐かしい匂い。
聞き慣れた声。
ジット村。
シスターと出会い。
手を差し伸べられ。
村へ連れて帰ってもらった、あの日。
唇が自然と動く。
「…最後は、助けてもらうシーン…」
「ベルさん?」
ミリィの声が遠く聞こえる。
世界がぐらりと揺れた。
視界が歪む。
頭の奥が軋む。
胸の奥が締め付けられる。
ベルは思わず両手で顔を覆った。
「うっ…」
痛い。
頭が。
胸の奥が。
何かを思い出そうとするたび。
鋭い痛みが走る。
ミリィは慌ててベッドへ身を乗り出した。
「ベルさん!無理しないでください!」
その声で我に返る。
ベルは荒くなった呼吸を整えながら、ゆっくりと目を閉じた。
数回深呼吸を繰り返す。
胸の奥を締め付けていた痛みも。
頭を割るような痛みも。
少しずつ遠のいていく。
「……大丈夫」
そう言ったものの。
声には力がなかった。
ミリィは心配そうにベルの顔を覗き込む。
「本当にですか?」
「うん」
無理に笑ってみせる。
その笑顔を見ても、ミリィの表情は晴れなかった。
部屋に沈黙が落ちる。
窓の外では風が木々を揺らしていた。
しばらくして。
こんこん、と扉が叩かれる。
「起きたか?」
聞き慣れた低い声。
ミリィが振り返る。
「ウルフさん!」
扉が開く。
そこには、いつものレザージャケット姿のウルフが立っていた。
ベルの顔を見るなり。
口元を少しだけ緩める。
「よう」
「ずいぶん寝坊したな」
ベルも少しだけ笑った。
「ごめん」
ウルフは肩を竦める。
「謝るこたぁねぇよ」
部屋へ入り。
ベッドの脇まで歩いてくる。
そしてベルの顔をじっと見つめた。
「……まだ顔色悪ぃな」
ベルは首を横に振る。
「平気」
「その台詞を本当に平気な奴が言うとこ、俺ぁ見たことねぇ」
ぼそりと呟く。
ミリィが思わず吹き出した。
張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
ウルフは窓の外へ目を向けたまま言った。
「ま、目ぇ覚ましたならよかった」
「それだけだ」
短く言って踵を返す。
その背中を見送りながら。
ベルはふと胸に手を当てた。
女神。
黒髪の少年。
七色の剣。
世界を覆う光。
思い出そうとすると。
また胸の奥が微かに疼く。
けれど今度は無理に掴もうとはしなかった。
ただ静かに目を閉じる。
風が窓から吹き込み。
カーテンを優しく揺らしていた。




