女神と少年ー
女神が胸を押さえる。
苦しそうに。
今にも壊れてしまいそうに。
「私は…こんな気持ちになる自分が嫌い…許せないの」
泣きそうな顔だった。
赤い瞳が揺れている。
マガルフィンはそんな彼女を見つめる。
長い間。
誰よりも近くで見続けてきた存在を。
「あなたは…優しすぎるのです」
女神は首を振った。
銀髪が揺れる。
「そんなんじゃない…」
声が震えていた。
「これは私のわがまま」
「私の罪…」
胸元を掴む指先に力が入る。
「罪は罰しなければ」
マガルフィンは黙る。
その横顔から感情が消えていく。
静かに。
ゆっくりと。
何かが冷えていく。
「それが罪と言うのなら…」
低い声だった。
今までとは違う。
女神が初めて顔を上げる。
マガルフィンは彼女を見つめていた。
真っ直ぐに。
迷いなく。
「あなたを苦しめる世界など…」
神殿の空気が張り詰める。
「人間など…」
女神の瞳が大きく見開かれた。
その続きを聞きたくない。
そう思ったのかもしれない。
だが。
マガルフィンは止まらなかった。
「滅んでしまえばいい」
静寂。
何も聞こえない。
女神は呆然とマガルフィンを見る。
信じられないものを見るように。
マガルフィンは跪いた。
そして頭を垂れる。
「私はあなたの味方です」
「世界の味方ではない」
「人間の味方でもない」
「正義の味方でもない」
静かな声だった。
だが決意だけは揺るがない。
「私はマガルフィン」
「あなたに作られ」
「あなたに救われ」
「あなたに生かされた者」
顔を上げる。
その瞳に迷いはない。
「ならば私は」
「最後まであなたの味方です」
女神の唇が震えた。
何かを言おうとしている。
だが言葉にならない。
ただ。
悲しそうに。
苦しそうに。
そして少しだけ救われたように。
微笑んでいた。
女神は目を伏せた。
長い銀髪が肩から流れ落ちる。
「マガルフィン…」
その声には様々な感情が混じっていた。
感謝。
悲しみ。
申し訳なさ。
そして。
少しだけ救われたような安堵。
マガルフィンは静かに跪いたまま続ける。
「世界をあるべき姿に…正しき姿に…」
女神は首を振った。
まるでその言葉を遮るように。
「ごめんなさい…忘れて」
小さな声だった。
「気の迷いだから」
神殿に静寂が落ちる。
マガルフィンは答えない。
ただ女神を見つめていた。
長い時間。
そしてゆっくりと目を閉じる。
「…私は、いつかまた、あなたが心を痛めるなら、その時は必ず…」
言葉は最後まで続かなかった。
だが。
その続きを聞かなくても分かった。
女神も。
マガルフィンも。
互いに理解していた。
女神は寂しそうに微笑む。
それは今までで一番優しい笑顔だった。
「…ありがとう」
短い言葉。
それだけだった。
けれど。
マガルフィンにとっては十分だった。
神殿へ光が差し込む。
白銀の床。
銀の髪。
赤い瞳。
その全てが光の中へ溶けていく。
景色が揺らぐ。
女神の姿が霞む。
遠ざかる。
ベルの意識もまた引き離されていく。
最後に見えたのは。
玉座の前に立つ女神の微笑みだった。
どこまでも優しく。
どこまでも悲しい。
そんな笑顔だった。
景色が変わる。
白銀の神殿は消えていた。
光もない。
温もりもない。
そこは暗闇だった。
まるで世界の終わりのような場所。
空も。
大地も。
全てが黒く染まっている。
そして。
ベルは再び女神を見た。
銀だった髪が黒く染まっていく姿を。
ゆっくりと。
侵食されるように。
一本ずつ。
美しい銀髪が黒へ変わっていく。
白銀の衣装も同じだった。
袖が。
裾が。
胸元が。
徐々に黒へ染まっていく。
女神は苦しそうに胸を押さえる。
肩が震えていた。
呼吸も荒い。
「もう駄目…このままでは…私は私でいられなくなる…だからもう…」
マガルフィンが目を閉じる。
苦しそうに。
絶望を噛み殺すように。
「女神よ…ついにこの時が…」
静かに剣を抜く。
七色に輝く剣だった。
虹のような光を放つ神々しい刃。
暗闇の中で唯一の光。
女神はその剣を見る。
そして微笑んだ。
優しく。
穏やかに。
「辛い役目をさせて、ごめんなさい」
マガルフィンは首を振る。
「いいのです。女神よ。あなたのためならば」
そして。
ゆっくりと歩み寄る。
女神も逃げない。
ただ見つめていた。
最後まで。
愛する子を見るように。
マガルフィンは剣を差し出す。
まるで手を差し伸べるように。
優しく。
震える手で。
そして。
七色の刃が。
女神の胸を貫いた。
血は流れない。
ただ光が零れる。
女神は小さく息を吐いた。
苦しみから解放されたように。
そして微笑む。
「ありがとう…ごめんね」
涙が頬を伝った。
静かに。
一筋。
また一筋。
マガルフィンも泣いていた。
剣を握る手が震えている。
肩が震えている。
唇を噛み締めている。
それでも。
彼は剣を離さなかった。
だが。
次の言葉は。
女神の予想したものではなかった。
「女神よ…私にあなたは殺せません」
女神の瞳が見開かれる。
「どういう…こと?」
マガルフィンは顔を上げる。
涙を流したまま。
それでも真っ直ぐに。
「これからあなたを封じます。1000個の核に分けて」
女神の顔から血の気が引く。
「待って…違うの」
首を振る。
涙を流しながら。
「私は死にたい…」
「……」
「お願い…」
マガルフィンは答えない。
ただ剣を握り続ける。
女神は理解した。
彼が決して折れないことを。
何があっても。
この時だけは。
自分の願いを聞かないことを。
「…どうして…」
震える声。
掠れた声。
マガルフィンは微笑んだ。
泣きながら。
どうしようもなく悲しそうに。
それでも誇らしげに。
「あなたを愛しているから」
女神の瞳が揺れる。
「世界が」
「人が」
「あなたが必要だから」
七色の光が強くなる。
女神の身体から光が溢れ出す。
銀と黒。
二つの光が混ざり合う。
そして。
世界そのものを揺らすほどの輝きが爆発した。
女神は爆発と共に光へ変わった。
銀色の光。
黒い光。
二つが絡み合いながら砕けていく。
一つ。
また一つ。
無数の光の筋となって世界へ飛び散っていく。
夜空を流れる流星のように。
世界の果てまで。
海を越えて。
山を越えて。
光は散っていく。
女神の欠片。
女神の核。
女神の魂。
その全てが世界へと分かたれていく。
マガルフィンはただ見つめていた。
七色の剣を握ったまま。
最後の光が消えるまで。
ずっと。
長い沈黙。
そして。
彼はゆっくりと空を見上げた。
もう女神はいない。
その事実だけが残されていた。
「女神よ…」
掠れた声だった。
涙はもう流れていない。
流し尽くしていた。
「私はこれからシステムを構築します」
静かな声が闇へ溶ける。
「そのシステムの名は『勇者』」
七色の剣が淡く輝く。
それに呼応するように。
世界中へ散った光が遠くで瞬いた気がした。
マガルフィンは目を閉じる。
女神の笑顔を思い出す。
神殿で微笑んでいた姿を。
泣きながらありがとうと言った姿を。
最後まで世界を愛していた姿を。
「それがあなたを封じ」
「あなたを守る」
風が吹く。
誰もいない世界に。
ただ一人残された男の黒髪を揺らす。
マガルフィンはゆっくりと剣を胸の前へ掲げた。
「あなたが愛した世界のために」
その瞬間。
七色の光が天へ伸びる。
世界そのものへ刻み込むように。
光は無限に広がった。
勇者。
魔王。
核。
封印。
千の欠片。
全てを管理する巨大なシステムが。
今この瞬間。
世界へ組み込まれていく。
そして。
誰も知らない。
遥か未来。
そのシステムが。
一人の少女を。
再び女神へと至らせることになることを。
女神は困ったように微笑んだ。
その姿は朧げだった。
白銀の髪も。
白い衣装も。
輪郭さえ薄れている。
今にも消えてしまいそうだった。
その女神の前に。
黒髪の少年が立っている。
見知らぬ場所。
見知らぬ空間。
少年は混乱していた。
女神はそんな彼を見つめながら口を開く。
「初めまして。私があなたをこの世界に呼んだ女神ーーーです」
少年は目を見開く。
「女神って、この世界って…一体…?」
女神は小さく笑った。
申し訳なさそうに。
「わからないわよね。そうよね」
「でもあまり時間がないから、結論だけ言います」
一度言葉を切る。
そして。
真っ直ぐ少年を見た。
「ごめんなさい。あなたをこの世界に呼んだのは、私を殺して欲しいからなの」
少年は固まる。
理解が追いつかない。
数秒後。
ようやく言葉が出た。
「…嫌だよ。なんでいきなりそんな」
女神は目を伏せた。
長い睫毛が揺れる。
「理由を説明する時間はないの。本当にごめんなさい」
「でもこの世界の存在に私は殺せない。それがわかったから、あなたを、別の世界から呼びました」
少年の顔が歪む。
「そんな!勝手すぎる!」
声が響く。
怒りだった。
当然だった。
知らない場所へ連れて来られた。
知らない相手から。
いきなり殺してくれと言われた。
納得できるはずがない。
女神は否定しなかった。
「本当にそうよね」
弱々しく微笑む。
「わかってる…でもお願い。私はもう、消えたいの」
少年は首を振る。
理解できなかった。
理解したくなかった。
「なんで!?どうして!?」
女神は少しだけ空を見上げた。
遠くを見るように。
何千年もの時間を見るように。
「私はこの世界が好き。人が好き」
静かな声だった。
「だからもう傷付きたくない」
「もう悲しみたくない」
「もう絶望したくない」
そして。
泣きそうな顔になる。
「…嫌いになりたく、ないの」
少年は黙る。
その顔を見ていた。
その言葉を聞いていた。
そして。
ふと周囲を見回す。
広大な空間。
遥か下に広がる世界。
女神はずっとここにいたのだろうか。
そんな考えが浮かぶ。
少年は再び女神を見る。
「…あんた…自分の目で見たのかよ?」
女神は少し驚いたようだった。
「見てきたわ。何千年も、ずっと。この世界が、人が、生まれてからずっと」
少年は眉をひそめる。
「ここから?」
女神は頷いた。
「そう、ここから」
その瞬間。
少年が笑った。
呆れたように。
馬鹿らしいと言うように。
「そんなんで見たなんて言えるかよ!」
女神が目を見開く。
少年は構わず続けた。
「見るってのはさ!」
拳を握る。
真っ直ぐ女神を見据える。
「自分の目で見て、感じて、同じ場所で同じ経験をして!」
「それが見るってことなんじゃないのか!?」
女神は黙る。
少年の声だけが響く。
「…私は何も見てない。そう言いたいの?」
女神が静かに問う。
少年は即答した。
「そうだよ!」
迷いなく。
真っ直ぐに。
「ここから見てるだけで、何も経験してない!」
「そんなの見てるなんて言えるかよ」




