記憶の彼方ー
ベルの表情が険しくなる。
「また…怪人…」
そう言いながら右手を前へ突き出した。
人差し指をダチュラドールへ向ける。
その背後ではミリィも緊張した面持ちで怪人を見つめていた。
ウルフは一歩前へ出る。
ナックルダスターを鳴らしながら。
デッドエンドはそんな三人を見て上機嫌だった。
「おらおらー!」
「はやくやっちゃってぇー♪」
鞭をぶんぶん振り回す。
「クソザコキンサシャー♪」
キンサシャの眉がぴくりと動いた。
ゆっくりとデッドエンドを睨む。
「…わかってるよ」
低く返す。
そして両手に抱えた水晶玉を持ち上げた。
ぺろり。
右。
ぺろり。
左。
水晶玉の表面を舌がなぞる。
その瞬間。
ダチュラドールの身体が小刻みに震え始めた。
びくり。
びくり。
まるで見えない糸で操られる人形のように。
全身を覆う白い花弁が擦れ合う。
さらさら。
さらさら。
乾いた音が響く。
そして。
頭部を形成する巨大なチョウセンアサガオがゆっくりと開いた。
白い花弁が何重にも広がる。
花の中心にある深い紫色が露わになる。
顔の周囲を囲む花弁が震えた。
ぶるり。
ぶるり。
それに合わせるように白い花粉が零れ落ちる。
最初は少量だった。
だが次第に量が増えていく。
雪のように。
霧のように。
白い粒子がホールへ漂い始めた。
ミリィが息を呑む。
「来ます!」
デッドエンドは嬉しそうに飛び跳ねた。
「キャハハハ!」
「いいねいいねぇ!」
「いっぱい撒いちゃえー♪」
ダチュラドールの花がさらに大きく開く。
花弁が震える。
そして。
白い花粉が一気に周囲へ吹き出した。
視界を覆い尽くすほどの白い花粉に、思わずベルは瞳を閉じた。
白。
白。
何も見えない。
耳の奥ではデッドエンドの笑い声が聞こえていた気がする。
ミリィの声も。
ウルフの声も。
しかしそれらは急速に遠ざかっていった。
そして。
ベルは再び目を開く。
「え…?」
思わず声が漏れた。
「なんで…」
そこは遺跡ではなかった。
まして地下でもない。
目の前に広がっていたのは巨大な神殿だった。
白と銀を基調とした荘厳な空間。
天井は遥か高く。
何本もの巨大な白銀の柱が並んでいる。
床は鏡のように磨き上げられた白い石。
壁面には美しい装飾が施されていた。
神聖。
そんな言葉が自然と浮かぶ。
心なしか空気まで違う。
澄んでいる。
冷たい。
肺へ吸い込むだけで心が洗われるような空気だった。
ベルは辺りを見回した。
誰もいない。
ミリィも。
ウルフも。
デッドエンドも。
キンサシャも。
楔兵も。
ダチュラドールも。
誰一人見当たらない。
静寂だけが支配していた。
「なに…ここは?」
返事はない。
神殿の奥。
長い白銀の絨毯が続いている。
その先。
無数の階段を越えた高台に。
何かが見えた。
玉座。
いや。
祭壇。
いや。
神座と呼ぶべきものだった。
白銀の光に包まれている。
輪郭は見える。
だが何故か認識しきれない。
そこに誰かがいるような気もした。
しかし顔が見えない。
男か女かも分からない。
ベルは眉をひそめた。
胸がざわつく。
初めて見るはずなのに。
何故か。
懐かしい気がした。
玉座に座るのは――
白と銀を基調とした衣装。
幾重にも重なる神官服にも、王族の正装にも見える荘厳な装束。
光そのものを織り込んだような白銀の布地が、玉座から階段へ流れるように広がっている。
輝くような銀の長髪。
足元まで届くほど長い髪は床へ溶けるように広がり、神殿の光を反射していた。
赤い瞳。
透き通るような白い肌。
そして。
その顔立ちはどこか――
ベルに似ていた。
「…私?」
思わず声が漏れる。
いや。
違う。
似ている。
だが違う。
少し年上に見える。
十代後半にも。
二十代前半にも見える。
年齢すら曖昧だった。
玉座の少女。
いや。
女性はベルの声にも反応しない。
うっすらと瞳を開いたまま。
ただ自分の手を見つめていた。
白く細い指。
その手を開いて。
閉じる。
また開いて。
閉じる。
何かを考えている。
何かを思い出している。
そんな仕草だった。
神殿は静かだった。
風もない。
音もない。
時間さえ止まったような静寂。
ベルは恐る恐る一歩前へ出る。
すると。
女性の赤い瞳が僅かに動いた。
視線が手から離れる。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
ベルへ向く。
赤い瞳と。
黒い瞳が。
正面からぶつかった。
その瞬間。
ベルの胸が強く脈打った。
理由は分からない。
初めて会ったはずなのに。
その瞳を知っている気がした。
その顔を知っている気がした。
女性はベルを見つめる。
ただ見つめる。
驚きも。
喜びも。
怒りも。
何も浮かべない。
ただ静かに。
長い時間を越えてようやく何かを見つけたように。
ベルを見ていた。
銀髪の女性が優しく微笑む。
その微笑みは温かかった。
慈愛に満ちていた。
世界の全てを許してしまうような優しい笑顔だった。
そして静かに口を開く。
「どうしたの?そんなに浮かない顔をして、嫌なことでもあった?マガルフィン」
愛しむような声だった。
その声を聞いた瞬間。
ベルは無意識に返事をしていた。
いや。
違う。
自分ではない。
誰かだ。
落ち着いた若い男性の声。
ベルの口が動いている訳ではない。
だが確かに聞こえる。
「女神様…私はあなたが心配なのです」
女神は困ったように首を傾げた。
銀髪がさらりと流れる。
「本当にあなたは心配性ね」
そしてまた微笑む。
今度は少しだけ楽しそうに。
少しだけ嬉しそうに。
溢れるような笑顔だった。
その瞬間。
ベルは気付いた。
自分は自分ではない。
身体の感覚がない。
呼吸も。
鼓動も。
まるで夢を見ているようだった。
ただ見ているだけ。
ただ聞いているだけ。
この場所にいるのは自分ではない。
マガルフィン。
女神が見ているのはベルではない。
今こうして会話している男性。
マガルフィンなのだ。
ベルは彼の中にいる。
記憶を見ている。
景色を共有している。
そんな感覚だった。
女神は玉座から静かに立ち上がる。
長い銀髪が流れる。
白銀の衣装が光を受けて揺れた。
そして。
ゆっくりと階段を下りてくる。
一段。
また一段。
その姿を見つめながら。
マガルフィンは静かに言った。
「最近、お顔色が優れません」
「また無理をなさっているのでしょう」
女神は少しだけ目を伏せた。
「そう見える?」
「見えます」
即答だった。
女神は小さく笑う。
だが。
その笑顔の奥に。
ほんの僅かな寂しさが混じった気がした。
「困ったわね」
そう呟いた彼女は。
どこか遠くを見るような目をしていた。
女神は立ち止まった。
白銀の髪が静かに揺れる。
そして振り返る。
赤い瞳がマガルフィンを見つめた。
どこまでも優しく。
どこまでも悲しそうに。
「マガルフィン…私、実は心に決めたことがあるの」
切ない笑顔だった。
マガルフィンは目を細める。
何かを察したように。
何かを恐れるように。
「…お聞きしても?」
女神は少しだけ視線を落とした。
そして静かに答える。
「私..このままいくとこの世界が、人間が…嫌いになってしまいそう」
神殿の空気が止まったようだった。
マガルフィンは目を見開く。
信じられないものを見るように。
「どうしたんですか…あなたらしくもない」
声が震えていた。
「あなたは世界を、人間を…あんなにも愛していたのに」
女神は小さく笑った。
悲しい笑みだった。
「だから…だからよ」
そう呟いて。
ゆっくりと天井を見上げる。
遥か高く。
光に包まれた神殿の天井を。
「愛していたの」
「誰よりも」
「何よりも」
「だから見てしまうの」
赤い瞳が揺れる。
「苦しみも」
「悲しみも」
「裏切りも」
「憎しみも」
「醜さも」
「全部」
静かな声だった。
怒りはない。
恨みもない。
ただ疲れていた。
長い長い年月を歩き続けた者の声だった。
「私は人間を愛しているわ」
「今も」
「きっとこれからも」
女神は微笑む。
けれどその笑顔は酷く儚かった。
「だから傷付くの」
「だから苦しいの」
「だから――」
そこで言葉が止まる。
女神は自分の胸元へ手を当てた。
白い指先が僅かに震えていた。
「最近ね」
「少しだけ思ってしまうの」
風もない神殿で。
銀の髪が揺れた気がした。
「いっそ全部終わってしまえば楽なのにって」
マガルフィンの息が止まる。
その言葉だけは。
聞いてはいけない言葉だった。
女神は寂しそうに微笑んだ。
「私が消えるか…世界が消えるか…どちらかしか、ないのかも」
神殿に静寂が落ちる。
マガルフィンは即座に首を振った。
「話し合いましょう。そして考えましょう」
女神は何も答えない。
ただ悲しそうに見つめている。
「もう一度」
「何度でも」
「方法を探しましょう」
その声には焦りが滲んでいた。
必死だった。
女神は静かに目を伏せる。
「もう何百年もやったじゃない」
その言葉に。
マガルフィンは詰まる。
だが。
それでも言った。
「ならばあと1000年、100年でも」
「私は付き合います」
「他の者達もきっと――」
女神が首を振る。
ゆっくりと。
弱々しく。
その仕草だけで。
胸が締め付けられる。
「もう…無理なの。これ以上は」
初めてだった。
ベルは思う。
この女神が。
こんな顔をするのを。
赤い瞳から光が失われている。
疲れている。
傷付いている。
壊れかけている。
そんな風に見えた。
マガルフィンは拳を握る。
何か言わなければ。
何か。
何か。
しかし言葉が出てこない。
何百年。
その言葉の重みを知っているからだ。
何百年も悩み。
何百年も考え。
何百年も苦しみ。
それでも答えが出なかった。
だから女神は今ここにいる。
そんな気がした。
女神は再び自分の手を見る。
白い指先。
その指を静かに握った。
「ねぇ、マガルフィン」
優しい声だった。
昔と変わらない。
どこまでも優しい声。
「私ね」
少しだけ笑う。
泣きそうな笑顔だった。
「本当は今でもみんなが好きなの」
神殿の光が銀髪を照らす。
「人間も」
「世界も」
「あなた達も」
「だから困っているの」
その言葉が。
酷く苦しかった。
憎いから壊したいのではない。
嫌いだから滅ぼしたいのではない。
好きだから苦しいのだ。
好きだから耐えられないのだ。
女神は静かに目を閉じた。
長い睫毛が震える。
そして。
消え入りそうな声で呟いた。
「どうして愛しているのに、こんな気持ちになってしまうのかしら」




