使者の帰還ー
一週間。
アルティシアは落ち着かない日々を過ごしていた。
執務をしていても。
食事をしていても。
眠ろうとしても。
意識のどこかが常に返答を待っていた。
その日の午後だった。
執務室の扉が叩かれる。
「失礼します!」
近衛騎士が飛び込んできた。
アルティシアが顔を上げる。
「どうしましたか?」
騎士は興奮を抑えきれない様子だった。
「使者が帰還しました!」
アルティシアの手からペンが落ちた。
「……帰還?」
「はっ!」
「先ほど王都へ到着!現在、王城へ向かっております!」
アルティシアは勢いよく立ち上がった。
「お父様には!?」
「既に連絡しております!」
それだけ聞くと、アルティシアは執務室を飛び出した。
長い廊下を歩く。
落ち着かなければならない。
王女なのだから。
だが足は自然と速くなる。
歩幅が大きくなる。
胸の鼓動も速くなる。
一週間。
長かった。
返答はどうなったのか。
停戦は受け入れられたのか。
無事だったのか。
様々な思いが頭を巡る。
そして。
アルティシアはついに我慢できなくなった。
廊下を駆け出す。
「アルティシア殿下!」
聞き慣れた声が飛んだ。
曲がり角の先。
アイザックだった。
「王城の中で走るなど!」
額に青筋を浮かべる。
「はしたないっ!」
アルティシアは一瞬だけ振り返る。
そして。
アルティシアは振り返る。
そして片目を閉じると、舌をぺろりと出した。
ほんの一瞬。
年相応の悪戯っ子のような表情。
「なっ――」
アイザックが絶句する。
アルティシアはそのまま走った。
「で、殿下ぁぁぁぁ!?」
普段なら絶対に見せない姿。
だが今は止まれない。
裾を押さえながら廊下を駆け抜ける。
後ろではアイザックが慌てて追いかけてくる。
「待ちなさい!」
「待ちません!」
「王女がそのような返事をするものではありません!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃありません!」
「大いにあります!」
城内に騒がしい声が響く。
近衛騎士達が呆気に取られて見送る中。
アルティシアは真っ直ぐ前だけを見て走り続けた。
帰ってきた。
ついに帰ってきたのだ。
使者が。
ルグレシア王城は広い。
初めて訪れた者なら迷うほどに。
だが。
アルティシアにとっては幼い頃から歩き続けた城だった。
自室を飛び出し。
長い回廊を駆ける。
柱の位置も。
曲がり角も。
全て知っている。
途中で回廊を外れ、中庭へ飛び出した。
本来なら遠回りになる。
だが王城を知り尽くした彼女には最短経路だった。
芝生を駆け抜ける。
噴水の脇を抜ける。
花壇の横を走る。
そして再び回廊へ。
途中で出会う侍女達が目を丸くした。
「で、殿下!?」
騎士達も思わず振り返る。
「アルティシア殿下が走っている……?」
兵士達も足を止めた。
将校達も目を疑う。
誰もが驚く。
それも当然だった。
ルグレシア第一王女。
誰よりも礼儀正しく。
誰よりも品位を重んじる少女。
そのアルティシアが。
今。
ドレスの裾を両手で摘み上げ。
白い足を覗かせながら全力で駆けているのだから。
だが。
彼女は気付いていない。
いや。
気付いていても止められない。
顔が綻ぶ。
笑顔が止まらない。
胸が高鳴る。
心が弾む。
足も止まらない。
廊下を曲がる。
また走る。
さらに走る。
息が上がる。
それでも止まらない。
まるで幼い少女が父親の帰宅を待ちきれずに飛び出していくように。
王女らしさも。
淑女らしさも。
今だけはどこかへ置いてきてしまったかのようだった。
そして。
その後ろから。
「アルティシア殿下ぁぁぁぁ!!」
アイザックの悲鳴にも似た声が王城中へ響き渡った。
長い回廊の先。
謁見室の大扉が見える。
あと少し。
本当にあと少しだった。
アルティシアはさらに速度を上げる。
その瞬間。
嫌な感触が足元から伝わった。
「きゃっ――」
ぐらり。
身体が傾く。
石畳にヒールが引っ掛かった。
いや。
違う。
高いヒールの根元が折れたのだ。
前のめりになる。
転ぶ。
そう思った瞬間。
後ろから腕が伸びた。
しっかりと腰を支えられる。
「殿下!」
アイザックだった。
息を切らすことなく、寸前で追いついていた。
アルティシアは一瞬だけ目を丸くした。
そして。
満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう!」
その笑顔に。
アイザックの怒りが一瞬だけ吹き飛ぶ。
だが。
次の瞬間だった。
アルティシアは折れた靴を脱ぐ。
反対側も迷いなく脱ぐ。
そして両方まとめてアイザックへ押し付けた。
「ついでにこれも!」
「は?」
アイザックが固まる。
アルティシアは裸足になった足で床へ降り立つ。
そして再び走り出そうとする。
額に青筋が浮かんだ。
一本。
二本。
三本。
「殿下」
低い声。
だがアルティシアは既に走り出している。
「殿下ぁぁぁぁ!!」
怒号が回廊に響いた。
「もう! いいかげんにしろっ!!」
だが当の本人は振り返りもしない。
裸足のまま回廊を駆ける。
ぱたぱたと軽い足音。
ドレスの裾が揺れる。
侍女達は目を剥き。
騎士達は呆然とし。
兵士達は唖然とする。
誰も見たことがなかった。
ルグレシア第一王女。
あのアルティシアが。
笑顔で。
裸足で。
全力疾走している姿など。
そしてアルティシアは止まらない。
ただひたすらに。
まっすぐ。
謁見室へ向かって走り続けた。
裸足のまま回廊を駆ける。
ぱたぱたと軽い足音が石床へ響いた。
謁見室はもう目の前だった。
長い回廊の先。
大扉が大きく見えている。
あと少し。
本当にあと少し。
その途中だった。
ちょうど反対側から人影が現れる。
ライン。
マリーナとマークス。
アンジュとリックス。
そしてバロム。
使者到着の知らせを聞き、謁見室へ向かっていたのだ。
そして全員が足を止めた。
裸足。
乱れた髪。
乱れたドレス。
息を切らしながら全力で走ってくるアルティシア。
普段の彼女からは想像もつかない姿だった。
だが。
誰も驚いた顔はしなかった。
むしろ。
ラインが笑う。
マリーナも笑う。
マークスも。
アンジュも。
リックスも。
そしてバロムも。
皆が自然に笑顔を浮かべた。
アルティシアも思わず笑う。
走りながら。
皆へ向かって。
にっこりと。
言葉はない。
だがそれで十分だった。
ラインが大扉の左へ向かう。
バロムが右へ向かう。
二人は互いに頷いた。
そして同時に手を掛ける。
重厚な大扉がゆっくりと動いた。
ギギギギギ――――。
開いていく。
広大な謁見室がその向こうに姿を現す。
アルティシアは止まらない。
速度も落とさない。
ラインとバロムの間を駆け抜ける。
開き切るよりも早く。
その勢いのまま。
アルティシアは謁見室へ飛び込んだ。
謁見室に裸足で飛び込む彼女に、その場にいる誰もが驚愕する。
左右に並び立つ家臣や騎士達が驚きの声をあげた。
「で、殿下!?」
「なっ――」
「裸足だと!?」
だがアルティシアは気にしない。
赤いカーペットの先。
玉座に座る国王の前。
大役を終え帰還した使者が立っている。
その姿しか目に入らない。
そして勢いのまま。
その使者の胸へ飛び込んだ。
「わっ!?」
突然の衝撃にベルが目を丸くする。
慌ててアルティシアを抱き止めた。
よろめく。
だが倒れない。
「ア、アルティシア!?」
黒い瞳が大きく見開かれる。
アルティシアは答えない。
ただ強く抱きついた。
ベルの服をぎゅっと掴む。
まるで本当にそこにいることを確かめるように。
ベルは困ったように周囲を見回した。
家臣達は呆然。
騎士達も絶句している。
マリーナも。
マークスも。
アンジュも。
リックスも。
何が起きているのか理解できていない。
ベルは視線を玉座へ向ける。
そして慌てて頭を下げた。
「た、ただいま戻りました、陛下」
ディーノスは静かに頷く。
「うむ」
短い返答。
だがその声には安堵が滲んでいた。
ベルもほっと息を吐く。
「ご心配をおかけしました」
しかし。
アルティシアは離れない。
ベルは少し困った顔になる。
「アルティシア……?」
返事はない。
顔も見えない。
ただ抱きつく力だけが少し強くなった。
ベルはますます困った顔になった。
どうしたらいいのか分からない。
とりあえず背中をぽんぽんと軽く叩いてみる。
それでも離れない。
謁見室の誰もが黙ってその光景を見守っていた。




