後方、そして海上から迫る敵軍ー
空を埋め尽くすサナトリア連合軍。
大地を覆う兵士達の列は地平線の彼方まで続いていた。
七十五万。
人類史上でも類を見ない大軍勢。
その頭上を、一頭の神竜が飛ぶ。
白銀の巨体。
雲海を裂く巨大な翼。
そしてその頭上には銀髪の少年。
ベル・ジット。
「――落ちろ」
ベルが呟く。
次の瞬間。
神竜リューナを中心に、目に見えない波動が解き放たれた。
轟音。
大地そのものが悲鳴を上げる。
「なっ!?」
「ぐああああっ!?」
「身体が――!」
兵士達が次々と地面へ叩き伏せられる。
膝をつく。
いや、違う。
強制的に押し潰されているのだ。
神竜から放たれる重力波。
人間などでは抗うことすらできない圧倒的な質量の暴力だった。
馬が倒れる。
飛竜が墜落する。
巨大な投石機が軋みながら崩壊する。
攻城塔が根元から砕け散る。
兵士達は為す術もなく地面へ這いつくばった。
わずか数分。
それだけだった。
七十五万の大軍の一割近くが戦闘不能となる。
軍の進軍速度も完全に止まっていた。
混乱。
悲鳴。
怒号。
全てを見下ろしながらベルは腕を組む。
「効いてるな」
楽しそうですらあった。
その横でリューナが鼻を鳴らす。
「当然ですわ」
巨大な瞳が遠くを見る。
「主人様」
「あ?」
「反対側と、海からも沢山の人間の気配がありますわ」
ベルが眉を上げる。
「てことは……別働隊か?」
「恐らく」
リューナは即座に答えた。
「どうなさいます?」
その巨大な翼が夜空を打つ。
「今から飛べば、どちらかは潰せるかと」
普通なら迷う。
王都への脅威。
海上艦隊。
後方から迫る十万の軍勢。
どちらも放置できない。
だが。
ベルは考えることすらしなかった。
「いや、いい」
あっさりと返す。
リューナが首を傾げる。
「いいんですの?」
「あぁ」
ベルは眼下の大軍を見下ろした。
「向こうは向こうで任せる」
その声に迷いはない。
「こっちは俺たちが潰さないとな」
リューナの口元が僅かに吊り上がる。
「ふふっ」
楽しそうだった。
「承知いたしましたわ」
神竜が翼を広げる。
その瞬間。
空が震えた。
重力波が再び放たれる。
大地が沈み。
兵士達が悲鳴を上げる。
七十五万の軍勢を前にして。
ベルはただ笑った。
「さて」
姫神の力が身体を巡る。
「どこまで耐えられるかな」
その姿はもはや一人の人間ではなかった。
空を支配する神竜と。
その頭上に立つ魔王殺し。
二つの災厄が、サナトリア連合軍へ降り立とうとしていた。
その頃、海上から大艦隊がルグレシア本土へ迫っていた。
ルグレシアは海に面している。
しかし海軍は存在しない。
保有するのは沿岸警備用の哨戒艇が数隻のみ。
この規模の艦隊を相手取れる戦力ではなかった。
迎え撃つなら陸軍しかない。
だが、その陸軍も今は動けない。
七十五万の本隊。
そして後方から迫る十万の別働隊。
ルグレシア軍は両面への対応に追われていた。
今から増援を回そうにも間に合わない。
海上戦力は皆無。
上陸を許せば沿岸部は蹂躙される。
旗艦の艦橋。
海上司令官は満足げに海を眺めていた。
「ふふ」
口元が緩む。
「このまま上陸してルグレシアを制圧すれば、戦後の利権は我が国が強く主張できる」
周囲の幕僚達も笑みを浮かべる。
今回の作戦は理想的だった。
本隊が正面から圧力をかける。
別働隊が後方を突く。
そして自分達が海から上陸する。
三方向からの同時侵攻。
どこか一つでも突破されれば国家は崩壊する。
「上陸までどれほどだ」
「このまま順調に進めば二時間ほどです」
「結構」
司令官は満足そうに頷いた。
「上陸後は港を確保しろ。補給線の確立を優先する」
「はっ」
「王都方面への進軍はその後だ」
海は穏やかだった。
夜風も悪くない。
進路にも問題はない。
敵影なし。
全て予定通り。
司令官は再び笑みを浮かべる。
「ルグレシアに残された時間もあと僅かか」
誰も反論しなかった。
海上司令官はワインを口に運んだ。
「上陸後は港湾施設を優先的に確保しろ」
「はっ」
「王都へ続く街道も押さえる。ルグレシア軍主力は本隊との戦闘に追われている。まともな抵抗はできまい」
幕僚達が頷く。
異論はない。
誰の目にも勝利は目前だった。
艦隊は夜の海を進む。
無数の帆が風を受ける。
船体が波を切る音だけが響いていた。
「上陸までおよそ二時間です」
「結構」
司令官は満足そうに笑う。
「陸の別働隊も予定通り進軍中か」
「既にルグレシア後方へ到達したとの報告です」
「よろしい」
七十五万の本隊。
十万の別働隊。
そしてこの大艦隊。
三方向からの同時攻撃。
どれか一つでも対処に失敗すれば国家は崩壊する。
「ルグレシアも終わりだな」
司令官の言葉に周囲から笑いが漏れた。
その時。
艦橋の扉が勢いよく開かれる。
「報告!」
息を切らした伝令だった。
司令官が眉をひそめる。
「何事だ」
「本隊より緊急通信!」
艦橋の空気が僅かに変わる。
「内容は」
伝令は唾を飲み込んだ。
そして震える声で告げる。
「本隊が正体不明の攻撃を受けています!」
「何?」
「重力系統と思われる広域攻撃!」
幕僚達が顔を見合わせる。
「被害は!?」
「確認中ですが……既に数万規模の損害とのこと!」
艦橋が静まり返る。
司令官の顔から笑みが消えた。
「馬鹿な……」
七十五万の本隊。
その大軍が。
開戦から間もなく数万単位の被害を出したというのか。
「攻撃主体は」
「神竜一頭」
伝令が答える。
「その頭上にベル・ジットを確認」
誰も言葉を発しなかった。
海の向こう。
遥か内陸で始まった戦いの報告に。
初めて艦隊司令部の空気が重くなった。
海上司令官は口元を歪めた。
「本隊が大打撃を与えているからこそだ」
艦橋の窓から前方の海を眺める。
「ルグレシアの目は全て本隊へ向いている」
幕僚達が頷く。
「七十五万もの大軍を相手にしているのだ。海など見ている余裕はあるまい」
「その通りです」
副官が笑みを浮かべる。
「さらに後方からは十万の別働隊も迫っております」
「ふふ」
司令官は満足そうに頷いた。
「だからこそ先に上陸して制圧するのだ」
その目には欲望が滲んでいた。
「王都を落とした者が最大の功績を得る」
「本隊がどれだけ敵を倒そうと関係ない」
「我らが先にルグレシアを制圧してしまえば――」
そこで言葉を切る。
幕僚達も理解していた。
戦後の領土。
交易権。
港湾利権。
復興事業。
その全てにおいて優先権を主張できる。
「歴史書には我が国の名が刻まれるでしょうな」
副官の言葉に艦橋の空気が和む。
「当然だ」
司令官は胸を張った。
「この戦争の勝者はサナトリアではない」
「我らだ」
夜の海を、大艦隊は悠然と進み続けていた。
そしてー
その頃。
ルグレシア後方。
険しい山岳地帯を越えた先を、十万の軍勢が進軍していた。
サナトリア正規軍ではない。
各地から集められた傭兵達。
金で雇われた戦士達だった。
統一された軍装などない。
鎧も武器も旗もばらばら。
だが、その分だけ実戦経験は豊富だった。
略奪。
侵攻。
都市攻略。
彼らはそうした戦いで生きてきた者達である。
先頭を進む巨大な軍馬の上。
別働隊司令官は上機嫌だった。
「くくっ」
双眼鏡を下ろす。
その先にはルグレシアの平原が広がっていた。
「この三方攻撃陣に死角なし」
周囲の幹部達も笑みを浮かべる。
「本隊が正面を押さえる」
「海上艦隊が海岸を制圧する」
「そして我々が後方から王都へ迫る」
司令官は両手を広げた。
「完璧だ!」
歓声が上がる。
「ここで王都を落とせば」
司令官の目が輝く。
「サナトリアにも恩が売れる」
「ルグレシアの資産も手に入る」
「最高だ!」
周囲から下卑た笑いが漏れた。
彼らは忠義で戦っているわけではない。
金だ。
利益だ。
報酬だ。
それだけだった。
「王都には貴族も多い」
「財宝も山ほどあるでしょうな」
「女もな」
再び笑い声が響く。
司令官は満足そうに頷いた。
「焦るな」
「王都は逃げん」
夜の山道を十万の軍勢が進む。
誰も疑っていなかった。
勝利は目前だと。
ルグレシアは既に袋の鼠だと。
そして自分達が、その勝者になるのだと。
「ここを下れば平地になる!」
別働隊司令官が軍馬の上で叫んだ。
十万の傭兵達から歓声が上がる。
眼下にはルグレシアの平原。
その先には街道。
さらに先には王都がある。
「そこからは蹂躙だ!」
歓声。
「略奪だ!」
さらに歓声が大きくなる。
「我々の自由だ!」
兵士達が武器を掲げた。
司令官は満足そうに両腕を広げる。
「サナトリアから許可ももらっている!」
その言葉に兵達の士気は最高潮に達した。
「遠慮はいらん!」
剣が振り上げられる。
槍が天を突く。
「潰せ!」
怒号。
「壊せ!」
歓声。
「叩け!」
十万の軍勢が吠える。
まるで獣の群れだった。
秩序ある軍隊ではない。
利益を求める傭兵達。
だからこそ恐ろしい。
彼らは勝利の後を考えない。
目の前の利益しか見ない。
「進め!」
司令官が号令を下す。
「ルグレシアは我らのものだ!」
山道を埋め尽くす十万の軍勢が一斉に動き出す。
誰もが勝利を疑っていなかった。
正面には七十五万の本隊。
海からは大艦隊。
そして自分達。
三方向から包囲されたルグレシアに、もはや抵抗する力など残っていない。
そう信じていた。




