アルティシア帰還ー
ルグレシア王都上空。
戦場へ向かう兵士たちが城壁を埋め尽くしていた。
誰もが北の空を見上げている。
王都のはるか上空。
雲を切り裂きながら、一つの巨大な影が現れた。
「――あれは!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、城壁のあちこちから歓声が上がった。
「ベル様だ!」
「ベル様だぞ!!」
「戻ってきた!!」
蒼い空を駆けるのは、一頭の巨大な竜。
かつての飛竜とは比べ物にならない。
白銀の鱗。
空そのものを支配するような巨大な翼。
一度羽ばたくたびに雲が吹き飛び、空気が震える。
新たな竜へと生まれ変わったリューナだった。
その頭上。
二本の角を掴みながら立つ銀髪の少年。
風を受けながら前方を見据える姿を見て、兵士たちの歓声はさらに大きくなる。
「魔王殺しだ!」
「ベル様!」
「頼みます!!」
「勝ってください!!」
兵士たちは剣を掲げ、槍を振り上げた。
絶望的だった戦況。
圧倒的兵力を誇るサナトリア連合本隊。
その大軍へ向かうのは、たった一人。
だが誰も無謀だとは思わなかった。
あの少年なら。
あの英雄なら。
必ず何かを成し遂げる。
そんな確信があった。
リューナが大きく咆哮する。
その声は雷鳴のように王都を揺らした。
兵士たちの歓声が爆発する。
「行けえええええ!!」
「ベル様ああああ!!」
「ルグレシアを頼みます!!」
ベルは振り返らない。
ただ前を見る。
その先にあるのは、地平線を埋め尽くすサナトリア連合本隊。
数十万の軍勢。
無数の飛竜。
そして聖女を掲げる巨大な旗。
リューナはさらに高度を上げた。
王都の歓声が遠ざかっていく。
やがて巨大な翼が一度だけ羽ばたく。
轟音。
爆風。
次の瞬間には、その姿は遥か彼方へ消えていた。
残された兵士たちは空を見上げたまま叫ぶ。
「勝てえええええ!!」
「ベル様あああああ!!」
その声はいつまでも王都に響き続けていた。
薄暗い塔の螺旋階段を、一行はゆっくりと降りていた。
応急処置を終えたとはいえ、アルティシアの右肩はまだ痛々しい。
外れた肩はアイザックがはめ直し、布で固定している。歩くのは難しいため、今は彼の背に負われていた。
先頭を行くのはバロム。
その後ろにマリーナとアンジュ。
さらにマークスとリックスが続く。
久しぶりに見る仲間たちの姿に、アルティシアは胸が熱くなった。
「皆さん、本当にありがとうございます」
アイザックの背中から頭を下げる。
「いえ、遅くなって大変申し訳ございません」
マリーナが深く頭を下げた。
「我々ももっと早く動きたかったのですがー」
アンジュが困ったように笑う。
「王城内が思った以上に混乱しておりましてねー」
「それでも助けに来てくださったじゃないですか」
アルティシアは微笑んだ。
「私はそれだけで十分です」
「殿下は本当にお優しい方ですね」
マリーナが静かに言う。
「だから皆が命を懸けるんですよー」
アンジュも頷いた。
後方からため息が聞こえる。
「まったく、王女殿下救出なんて一生に一度の大仕事だと思ってたんですがね」
マークスだった。
「思ったより命がいくつあっても足りませんよ」
「お前の場合は口が災いを呼ぶ」
リックスが呆れたように言う。
「違いねえ」
珍しく素直に認めるマークスに、一同から小さな笑いが漏れた。
だが、その空気を引き締めるようにバロムが口を開く。
「まだ終わっておらん」
全員の表情が引き締まる。
「ベル殿は今も戦場へ向かっている」
アルティシアも小窓へ視線を向けた。
そこには夜空しかない。
もうベルの姿は見えなかった。
だが脳裏には、巨大な白銀の竜と共に飛び立っていった背中が焼き付いている。
(ベル様……)
胸の前でそっと手を握る。
その様子に気付いたアンジュがにやりと笑った。
「心配ですかー?」
「えっ?」
「顔に書いてありますよー」
アルティシアの頬が赤くなる。
「そ、そんなことありません!」
「ほう」
マリーナが意味ありげに頷く。
「そうですか」
「本当です!」
慌てて否定する姿に、再び笑いが起こった。
その時だった。
塔の外から大歓声が響いてきた。
まるで王都全体が震えているかのような声。
全員が足を止める。
理由は聞くまでもなかった。
ベルが飛び立ったのだ。
ルグレシアの希望を背負って。
アルティシアは目を閉じ、小さく呟く。
「お気をつけて……ベル様」
その声は誰にも聞こえなかった。
塔の出口へ続く扉が開いた。
夜風が吹き込む。
アルティシア達が外へ出ると、そこには数人の人影が待っていた。
ディーノス。
宰相クラウス。
近衛騎士団長ガレス。
そして数名の近衛騎士。
それだけだった。
王都は未だ戦時下にある。
余計な人員を集めている場合ではない。
「お父様……」
アルティシアが呟く。
ディーノスの顔を見た瞬間、その声は小さくなった。
国王の顔は烈火の如き怒りに染まっていた。
アルティシアが今まで見たこともないほどの怒りだった。
アイザックが静かに前へ出る。
そして片膝をついた。
「王よ」
深く頭を垂れる。
「大役を賜りましたのに、このアイザック一生の不覚」
誰も口を挟まない。
「殿下に傷まで負わせてしまい……」
悔恨に満ちた声だった。
「如何なる処分をも――」
「違います!」
アルティシアが慌てて叫ぶ。
「お父様! これは私が――」
だが。
ディーノスが前へ出る。
そして。
その場に片膝をついた。
全員が目を見開いた。
「お父様!?」
アルティシアが絶句する。
ディーノスは深く頭を下げた。
「処分など、とんでもないこと」
重い声が響く。
「我が娘が多大な迷惑をかけて大変申し訳ない!」
アルティシアが言葉を失う。
アイザックも固まっていた。
「王よ……」
「そして感謝する!」
ディーノスが顔を上げる。
「この状況でこの程度の被害で済んだのは暁光と言える」
その視線が順番に向けられる。
アイザック。
マリーナ。
アンジュ。
マークス。
リックス。
バロム。
「皆に感謝を!」
誰も返事ができなかった。
王の謝罪も。
王の感謝も。
あまりにも重かった。
アルティシアが震える声で言う。
「お父様……私が……」
するとディーノスが立ち上がる。
そして娘を見た。
「そうだ! アルティシア!」
怒号が響く。
アルティシアがびくりと身をすくませた。
「は、はい!」
「後で皆に謝罪しろ!」
「はいっ!」
「王女が勝手に飛び出し! 攫われ! どれだけの者に心配をかけたと思っている!」
「申し訳ありません……」
「反省しろ!」
「はい……」
完全にしょんぼりするアルティシアに、マークスが視線を逸らした。
笑うのを堪えているのが丸分かりだった。
しかし。
ディーノスはそこで声を落とした。
先ほどまでの怒りが消える。
残ったのは父親の顔だった。
「だが今は」
アルティシアが顔を上げる。
「帰ってきてくれたことに、感謝を」
アルティシアの瞳から涙が零れた。
「お父様……」
ディーノスは娘の無事な姿を見つめる。
傷はある。
痛々しい。
だが生きている。
それだけでよかった。
「よく帰ってきてくれた」
アルティシアは堪えきれず、ぽろぽろと涙を流した。
その時だった。
通信装置を確認していたマークスが突然顔色を変えた。
「マリーナ警部! 緊急事態です!」
その声に全員の視線が集まる。
マリーナが鋭く振り返った。
「どうした!?」
マークスの顔は青ざめていた。
通信装置を握る手がわずかに震えている。
「サナトリア連合の別働隊が……」
その言葉に空気が変わった。
アルティシアが即座に反応する。
「数は!? どこから来ます!?」
マークスは通信内容を確認しながら答えた。
「それが……」
一度言葉を詰まらせる。
そして。
「海上に艦隊多数!」
その場の全員が息を呑んだ。
「さらにルグレシア後方より大隊規模の軍勢を確認!」
ガレスの表情が険しくなる。
「数は!」
「およそ十万!」
沈黙。
誰もが言葉を失った。
現在、ルグレシア軍主力はサナトリア連合本隊との決戦に備えて展開している。
そこへ後方から十万。
さらに海上から艦隊。
完全な挟撃だった。
「馬鹿な……」
クラウスが呟く。
「そんな兵力をどこに隠していた……」
「潜伏していたのでしょうな」
バロムの声は重い。
「本隊に意識を向けさせ、その隙に後方へ回り込ませた」
「海上部隊も同じですか」
リックスが眉をひそめる。
「恐らくな」
最悪だった。
ルグレシアは三方向から包囲されようとしている。
マリーナが即座に命令を飛ばす。
「詳細を集めろ!」
「はっ!」
「海軍との連絡は!」
「まだです!」
「急げ!」
緊張が一気に高まる。
だが。
その中でアルティシアだけが違う反応を見せていた。
青ざめている。
恐怖ではない。
別のことを考えていた。
「ベル様……」
小さな呟き。
もしこの情報が事実なら。
ベルが向かった先にはサナトリア連合本隊。
そして今現れたのは別働隊。
つまり。
「本隊は囮……?」
誰も返事をしない。
だがその可能性を否定できる者もいなかった。
ディーノスの顔からも血の気が引いていく。
もしそうなら。
サナトリアの狙いは最初からルグレシア王都。
ベルが向かった決戦場ではなかった。
夜風が吹く。
誰もが理解していた。
事態はまだ終わっていない。
むしろ――今からが本番だった。




