夜を取り戻せー
月明かりのはずだった。
けれど今夜の空は違う。
飛空艇から降り注ぐ魔術光が夜を塗り潰し。
世界を白く染め上げていた。
その光の中で。
アルティシアは涙に濡れた瞳をゆっくりと開く。
真っ先に目に入ったのは銀髪だった。
風に揺れる短い銀髪。
そして。
赤い瞳。
燃えるような。
けれど今は怒りを宿した瞳。
首には見慣れた赤いスカーフ。
少年は当たり前のようにアルティシアを抱き上げたまま。
小さく息を吐いた。
それから。
眉をひそめる。
少しだけ。
本当に少しだけ。
怒った顔で。
「なんでもっと早く言わねぇんだよ!」
アルティシアの肩が震えた。
ぽろり。
涙が零れる。
一粒。
また一粒。
止まらない。
怖かったからではない。
痛かったからでもない。
目の前の少年が。
来てしまったから。
来てほしかった人が。
来てしまったから。
「あ……」
声にならない。
喉が震える。
ベルはそんなアルティシアを見下ろし。
もう一度大きく息を吐いた。
呆れたように。
困ったように。
怒ったように。
そして何より。
心配したように。
「マリーナが教えてくれなかったら、間に合わないところだったんだぞ!」
ベルの声が響く。
怒っている。
本当に怒っていた。
アルティシアは何も言えない。
ただ。
その言葉を受け止めるように。
小さく頷いた。
ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
ベルはそんな姿を見て。
少しだけ視線を逸らした。
「あぁ、悪い」
頭を掻く。
「俺が怒ることでもねぇな……だけど」
そう言って。
再びアルティシアを見る。
真っ直ぐに。
赤い瞳で。
「やっぱりピンチの時はすぐに言え!」
アルティシアの肩が震える。
言葉は出ない。
出せない。
代わりに。
何度も。
何度も頷いた。
子供のように。
叱られた子供のように。
涙を流しながら。
ベルは困ったように息を吐く。
そして。
抱き上げたままのアルティシアを少しだけ抱え直した。
落とさないように。
壊さないように。
傷付いた右腕にも触れないように。
慎重に。
丁寧に。
まるで当たり前のように。
「謝りながら……怒ってるじゃない、ですか」
涙声だった。
けれど。
その口元は少しだけ笑っていた。
ベルは即座に言い返す。
「そりゃ怒るさ!当然だろ!」
そして。
抱き上げたままのアルティシアへ顔を向ける。
「困ってる時に気軽に助けてと言えなくて、何が婚約者だよ!」
アルティシアの瞳が大きく見開かれた。
「そんな……助けてほしくて婚約したわけじゃ……」
するとベルは呆れたように眉をひそめた。
「バカヤロー!」
その声に。
アルティシアの肩がぴくりと震える。
「そんなことどうだっていいんだよ!」
迷いなく言い切る。
「困ったら頼れ!仲間だろ!」
その言葉に。
アルティシアはとうとう泣き笑いの顔になった。
涙は止まらない。
なのに。
笑みも止まらない。
「む……無茶苦茶です……」
震える声でそう言って。
少しだけ目を伏せる。
そして。
そっと見上げた。
「ベル様に叱られたのは……初めてですね」
「そうか?」
ベルは本当に分かっていないようだった。
アルティシアは知っている。
彼はいつだって自分のためには怒らない。
どれだけ理不尽な目に遭っても。
どれだけ傷付いても。
自分のことなら笑って済ませる。
けれど。
仲間のことになると違う。
大切な誰かが傷付けば怒る。
誰かが泣けば怒る。
理不尽を押し付けられれば怒る。
そして今。
彼は怒っていた。
自分のためではなく。
アルティシアのために。
それが分かるから。
嬉しかった。
どうしようもなく。
胸が熱くなる。
だからアルティシアは。
涙を流しながら。
心の底から幸せそうに笑った。
そして。
「オホン」
わざとらしい咳払いが響いた。
二人が同時に振り返る。
そこには。
いつの間に現れたのか。
アイザックが立っていた。
腕を組み。
じっと二人を見ている。
アイザックは静かに口を開く。
「殿下、いちゃつきたい気持ちはわかりますが、今はそのような時ではございません」
アルティシアの顔が一瞬で赤くなった。
「いちゃ……」
そしてようやく別のことに気付く。
「て、アイザック!どうしてここに!?」
「それはこちらのセリフです!」
即座に怒鳴り返された。
「何をしているのですか!何を!」
アルティシアがびくりと肩を震わせる。
ベルの腕の中で小さくなる。
「ご……ごめんなさい」
しゅん。
という音が聞こえそうだった。
アイザックは額を押さえた。
言いたいことは山ほどある。
本当に山ほどある。
だが。
今は違う。
一度咳払いをする。
「言いたい事はたくさんありますが、それはまた後で」
そう言うと。
アイザックはベルの前へ進み出た。
そして。
その場に片膝をつく。
深く。
深く頭を下げる。
アルティシアが目を見開いた。
アイザックが誰かに頭を下げる。
それは滅多に見られる光景ではない。
「ベル様」
静かな声だった。
だが。
その一言に全てが込められていた。
「この生い先短い老人の、最期の願いと思って聞いてください」
ベルは即座に返す。
「いやーあんたはそうそう死なねぇだろ?」
アイザックは聞かなかったことにした。
「どうか、殿下を、そしてルグレシアをお救いください」
さらに頭を下げる。
「――どうか」
長い沈黙。
そして。
ベルは笑った。
迷いなく。
当たり前のように。
「おう!」
即答だった。
「そのために来たんだ!」
赤い瞳が真っ直ぐ前を向く。
「任せとけ!」
ニカリ。
と。
いつもの笑顔を浮かべた。
ベルはアルティシアをアイザックへ預けた。
「頼む」
短い一言。
アイザックはしっかりとアルティシアの身体を抱き止める。
その拍子に。
変色した右腕が目に入った。
紫色に腫れ上がった腕。
外れた肩。
アイザックの眉が深く寄る。
「殿下、まずは治療を」
だが。
アルティシアは首を振った。
「それは後で。それよりベル様は――」
振り返る。
その時にはもう。
ベルは駆け出していた。
風を切るように。
迷いなく。
一直線に。
塔の頂上へ。
そして。
勢いのまま塔の縁へ立つ。
夜空を見上げる。
空を埋め尽くす飛竜。
飛空艇。
照射される無数の光。
侵略軍。
圧倒的な軍勢。
それら全てを視界に収めながら。
ベルは両手を広げた。
月光を受けて。
九つの指輪が輝く。
ベルの力。
ベルと共にある姫神達の証。
赤い瞳が夜空を見据える。
そして。
口元が吊り上がった。
戦場を前にした少年の笑み。
「さーて、誰でいく!?」
九つの指輪へ向けて叫ぶ。
「誰がやりたい!?」
風が吹く。
銀髪が揺れる。
飛空艇の光が照らす。
そして。
ベルは楽しそうに笑った。
「今夜は思いっきり、暴れてやろうぜ!」
その時だった。
背後から声が飛ぶ。
「ベル様!できるだけ!殺さないでくださいまし!」
アルティシアだった。
アイザックに支えられながら。
痛みに顔を歪めながらも。
必死に叫ぶ。
ベルが肩越しに振り返る。
そして苦笑した。
「あいつみたいなこと言うんだな」
黒髪の少女の顔が頭に浮かぶ。
右手をひらりと上げる。
「わかったよ!」
そして笑う。
「なるべくな!」
そう言うと。
そのまま右手を夜空へ伸ばした。
九つの指輪が輝く。
風が吹く。
ベルの口元が吊り上がった。
「そういうわけだ!」
夜空へ向かって叫ぶ。
「リューナ!」
赤い瞳が輝く。
「おまえの出番だ!」
その瞬間。
指輪の一つが眩く光った。
空間が軋む。
まるで硝子に亀裂が走るように。
夜空そのものへ。
一本の裂け目が生まれた。
パキッ。
パキパキパキッ――。
亀裂が広がる。
そこから。
まず小さな足が現れた。
続いて手。
身体。
翼。
そして最後に頭。
空間を割って現れたのは。
頭に二対の角。
背中に竜の翼。
後ろで束ねられた桃色の髪。
赤と青のオッドアイ。
黒いゴスロリ風のドレスを纏った少女だった。
白いニーハイ。
黒いハイヒール。
小柄な身体。
だが。
その存在感は空を埋め尽くす艦隊にも負けていない。
少女は空中へ降り立つ。
まるで地面でもあるかのように。
顎を上げ。
腕を組み。
高飛車に胸を張った。
そして。
ベルを見る。
「主様」
不敵に笑う。
「ようやくわたくしの出番ですのね」
夜空の向こう。
無数の飛竜。
飛空艇艦隊。
侵略軍。
それら全てを見渡し。
リューナは楽しそうに口元を吊り上げた。




