獅子王の決断ー
アルティシアがキッと瞳を開く。
震えていた瞳に再び意志が宿る。
「王よ」
誰もが息を呑む。
「国と民のことを一番に考えるならば、ここは我が身を――」
「ならんっっっ!!」
怒号が響いた。
謁見室そのものが震えたようだった。
その場の全員が身体をすくませる。
アルティシアですら目を見開く。
ディーノスが歩み寄る。
迷いなく。
真っ直ぐに。
そして娘の両肩へ手を置いた。
黒獅子の瞳が娘を見据える。
「アルティシア」
低い声だった。
先程の怒号とは違う。
父の声だった。
「聖女の代わりにお前を要求してきたということは……」
ディーノスがゆっくり言葉を紡ぐ。
「おそらくはお前でも聖女の代わりになり得るとの判断からだろう」
アルティシアの肩が震える。
ディーノスは続けた。
「サナトリアの聖女システムの話を聞いて、我はどのみちサナトリアに抗議をするつもりでおった」
誰も口を挟まない。
「だからお前が気に病む事はないのだ」
大きな手が肩を強く掴む。
「いずれ、遅かれ早かれ、こうなっていた」
アルティシアの唇が震えた。
「……父上」
ディーノスは微笑む。
優しく。
誇らしげに。
「聖女とされた少女を匿ったこと」
王は言う。
「王として」
一呼吸。
「父として」
そして。
「誇りに思うぞ」
アルティシアの瞳が揺れた。
今にも涙が零れそうになる。
だが。
ディーノスは首を振る。
「そしてお前を」
その声に鋼が宿る。
「同じ目になど合わせる事は断じて許せん」
黒獅子の瞳が燃える。
「聖女システムそのものを」
拳を握る。
「二度と行わせてはならぬ」
沈黙。
誰も言葉を発しない。
だが。
将軍達も。
騎士達も。
皆同じ顔をしていた。
それは覚悟だった。
アルティシアだけが俯いている。
肩が震えている。
今まで。
ずっと。
自分の責任だと思っていた。
だから自分が差し出されるべきだと。
そう思っていた。
だが。
父は違うと言った。
それは間違いだと。
王として。
父として。
はっきり否定した。
ディーノスは娘の肩から手を離す。
そして振り返った。
将軍達を見る。
騎士達を見る。
最後にアイザックを見る。
「よいな」
誰も反論しない。
できない。
王は覚悟を決めている。
その時。
アルティシアはただ俯いたまま。
震える拳を強く握り締めていた。
ディーノスは振り返った。
謁見室に集う全員へ向けて。
将軍達。
騎士達。
家臣達。
そして。
俯くアルティシアへ向けて。
黒獅子の声が響く。
「皆の者にも言おう」
誰も口を開かない。
王の言葉を待つ。
ディーノスは拳を握った。
「自己犠牲など美徳ではない!」
重い声だった。
王として。
一人の父として。
心の底から絞り出した声。
「愚かと言うのは些か気が引けるものの」
静かに続ける。
「誰かの犠牲の上に成り立つ国など」
そして。
力強く言い切った。
「断じてあってはならん!」
謁見室に響き渡る。
誰も目を逸らせない。
ディーノスはアルティシアを見る。
「ゆめゆめ忘れるな!」
アルティシアの肩が震える。
王は続けた。
「王が民を守るのだ!」
「民が王を守るのではない!」
「親が子を守るのだ!」
「子が親を守るのではない!」
その声はもはや叱責ではない。
教えだった。
信念だった。
ディーノス・ルグレシアという男の生き様そのものだった。
「お前は優しい」
アルティシアを見る。
「優しすぎる」
「だから全てを背負おうとする」
王は笑った。
少し困ったように。
「誰も頼まぬというのにな」
謁見室のあちこちから小さな笑いが漏れる。
アルティシアは唇を噛んだ。
涙を堪えるように。
だが。
ディーノスは許さない。
「聞け、アルティシア」
王の声が静かになる。
「お前は王女だ」
「だが」
一歩近づく。
「その前に」
大きな手が娘の頭へ置かれる。
「我が娘だ」
アルティシアの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
「父上……」
ディーノスは笑う。
いつものように。
豪快に。
「父を信じろ」
そう言った。
まるで。
目の前の絶望など大したことではないと言わんばかりに。
ディーノスはマントを翻した。
重々しい空気など吹き飛ばすように。
堂々と。
王らしく。
黒獅子らしく。
「さぁ、話はまとまった!」
その声に全員の視線が集まる。
「去るものはすぐに去れ!」
そして豪快に笑った。
「戦うものは共に行こうぞ!」
将軍達が笑う。
騎士達が笑う。
誰も俯いていない。
誰も絶望していない。
まるでこれから宴にでも向かうかのようだった。
だが。
アルティシアだけは違った。
「お待ちください!」
思わず声を上げる。
皆の視線が集まる。
アルティシアは震える声で続けた。
「それでは……」
唇を噛む。
「それでは先程、父上の言った自己犠牲では……」
その言葉に。
ディーノスが振り返った。
そして。
笑った。
力強く。
誇らしく。
「何を言う」
即答だった。
「我が国の未来のために戦うのだ」
王の瞳に迷いはない。
「何が自己犠牲か」
一歩踏み出す。
「これは未来のための礎である」
静寂。
その言葉が。
その場の全員の胸へ落ちる。
ノーギスが笑った。
「違いない」
アイゼンも笑う。
「まったくですな」
将軍達も頷く。
騎士達も笑う。
誰一人として死にに行く顔ではなかった。
自分達が守るものを知る者達の顔だった。
アルティシアは呆然と見つめる。
理解できなかった。
怖くないはずがない。
死にたくないはずがない。
なのに。
皆が笑っている。
その中で。
ラインも笑っていた。
いつもと変わらない。
穏やかな笑顔。
春の日差しのような笑顔だった。
アルティシアと目が合う。
ラインは小さく頷いた。
何も言わない。
けれど。
その表情だけで十分だった。
大丈夫です。
そう言っているようだった。
アルティシアの瞳が揺れる。
胸の奥が苦しい。
涙が込み上げる。
だが。
誰も泣いていない。
だから。
アルティシアも必死に堪えた。
目の前には。
父がいる。
家臣達がいる。
騎士達がいる。
皆。
ルグレシアのために立っている。
そして今。
誰よりも守られているのは。
自分なのだと。
ようやく理解した。
夕刻。
本来ならば沈み始めるはずの太陽は、その役目を奪われていた。
空を埋め尽くす飛竜。
巨大な飛空艇群。
そして暗くなり始めた頃。
飛空艇の各所から強烈な光が放たれた。
無数の光柱。
それらは地上を昼のように照らし続ける。
夜を許さぬかのように。
ルグレシア全土が白く染まっていた。
兵達は空を見上げる。
民達も見上げる。
逃げ惑う者。
祈る者。
家族を抱き締める者。
光そのものに害はない。
だが。
それが空を支配されている現実を突き付け続けていた。
誰の心にも重くのしかかる。
逃げ場のない圧迫感。
絶望。
それこそがサナトリアの狙いだった。
既に避難はほぼ終わっていた。
村も。
町も。
都市も。
人々は王都から離れ始めている。
王城前には長い馬車列が並んでいた。
王族。
貴族。
侍女。
文官。
非戦闘員達。
未来へ繋ぐ者達。
アイザックは馬車の前で待っていた。
周囲には侍女達の姿もある。
誰もが不安そうな顔をしている。
やがて。
一人の少女が現れた。
頭から布を被り。
白を基調とした装い。
見慣れた姿。
アルティシアだった。
ゆっくり。
俯いたまま歩いてくる。
アイザックは安堵したように一礼した。
「殿下。お早く」
手を差し出す。
いつもなら。
アルティシアは微笑みながらその手を取る。
だが。
今日は違った。
アルティシアは顔を上げない。
差し出された手も見ない。
そのまま馬車へ近付き。
静かに乗り込む。
何も言わずに。
アイザックは伸ばしたままの手を見つめた。
僅かな違和感。
ほんの僅か。
だが。
今のアルティシアなら不思議ではない。
父と別れたのだ。
王都も失うかもしれない。
無理もない。
アイザックはそう自分へ言い聞かせた。
そして御者席へ腰を下ろす。
「出発」
号令が響く。
馬達が動き出す。
王城の門が開く。
長い馬車列がゆっくりと進み始めた。
誰も振り返らない。
振り返れば。
残していくものを見てしまうから。
王城。
王都。
家族。
仲間。
故郷。
馬車は進む。
夕焼けの中を。
いや。
昼のように明るい異様な空の下を。
その頃。
王城の高台では。
ディーノスが遠ざかる馬車列を見つめていた。
隣にはライン。
ノーギス。
アイゼン。
そして数多の兵士達。
誰も声を発しない。
ただ。
去っていく未来を見送っていた。
やがて。
馬車列は街道の先へ消えていく。
ディーノスは静かに目を細めた。
「行ったか」
誰も答えない。
だが。
その場にいる全員が同じことを思っていた。
これでいい。
これで。
未来だけは守れたのだと。




