交渉の行方ー
使者は返答を待つこともなく一礼した。
「返答期限は本日中に」
それだけを告げる。
そして踵を返した。
重い扉が閉じる。
謁見室に静寂が落ちた。
誰も言葉を発しない。
サナトリアの要求。
王女一人と引き換えに戦争を終わらせるという提案。
それが本当かどうかは別として。
確実にルグレシアの心を揺さぶるには十分だった。
やがて。
再び扉が開く。
国境線から戻ったディーノス達だった。
黒獅子の顔は険しい。
ノーギスも。
アイゼンも。
他の将軍達も同じだった。
彼らも既に空を見ている。
あの光景を。
見てしまっている。
ディーノスは席へ着くなり口を開いた。
「状況を整理する」
誰も反論しない。
巨大な作戦卓が広げられる。
地図の上には無数の駒。
その数は先程までとは比べものにならない。
アルティシアも席へ着いた。
顔色は悪い。
だが誰も休めとは言わなかった。
今はそれどころではない。
参謀が報告する。
「飛空艇三百二十七隻確認」
「飛竜二万」
「空挺魔導師団三万以上」
「さらに後方より連合軍本隊七十五万が進軍中」
重い沈黙。
ディーノスが地図を見る。
「つまり」
指先で空挺部隊の駒を弾く。
「こいつらが先に防衛線を潰す」
参謀が頷く。
「その後、本隊が侵攻」
「はい」
ノーギスが腕を組む。
「厄介なのは飛空艇ではないな」
全員の視線が向く。
老将は地図を睨んだ。
「飛空艇は所詮空を飛ぶ船だ」
「問題は空挺魔導師団」
「こやつらがどこへでも降りられることだ」
誰も反論しない。
関所。
城塞。
防壁。
要害。
全てを無視できる。
軍略の根底を覆す戦力だった。
アイゼンが苦々しく笑う。
「防衛線の意味がなくなりますな」
「その通りだ」
ノーギスが頷く。
「普通の戦なら殿下の策で十分戦える」
地図の七十五万へ視線を向ける。
「だが空から来られては話が変わる」
再び沈黙。
アルティシアは地図を見つめていた。
視線は動く。
考えている。
だが。
答えが見えない。
ディーノスがそれを見ていた。
娘の様子を。
そして静かに尋ねる。
「アルティシア」
全員の視線が集まる。
「今のお前から見て」
黒獅子の声が響く。
「我らの勝率はどれほどだ」
謁見室が静まり返った。
全員の視線が集まる。
アルティシアは答えなかった。
答えられなかった。
固く目を閉じる。
胸が苦しい。
冷たい汗が頬を伝う。
謁見室には誰一人として声を発する者はいない。
皆。
待っている。
ルグレシア最高の知略家の答えを。
王女はゆっくり息を吸った。
そして瞳を開く。
逃げない。
王女として。
軍略家として。
今だけは。
真実を告げなければならない。
アルティシアは口を開いた。
「申し訳ございません」
その声は小さかった。
だが。
静まり返った謁見室にはよく響いた。
「勝率は……」
拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
それでも言葉は変わらない。
「限りなく0かと……」
誰も動かなかった。
誰も。
言葉を失っていた。
それはアルティシアが弱音を吐いたからではない。
彼女は今まで一度も諦めなかった。
兵力差が十倍でも。
世論が敵でも。
世界中を敵に回しても。
戦う方法を探し続けた。
そのアルティシアが。
初めて。
勝てないと言った。
ノーギスが目を閉じる。
アイゼンも俯く。
宰相も何も言えない。
ディーノスだけが娘を見ていた。
アルティシアは続ける。
「敵本軍七十五万」
「これだけであれば……まだ方法はございました」
誰も否定しない。
バラキア軍を退けたのだ。
事実だった。
「補給線を叩く」
「進軍速度を落とす」
「地形を利用する」
「防衛線で時間を稼ぐ」
一つずつ挙げる。
だが。
アルティシアは首を振った。
「空挺魔導師団が全てを破綻させます」
苦しそうな声だった。
「彼らは防衛線を無視します」
「補給線の後方へ降下します」
「城塞を飛び越えます」
「どこへでも現れます」
そして。
作戦卓へ視線を落とす。
「私には」
唇が震える。
「これを止める方法が思い付きません」
初めてだった。
アルティシアが。
自分の無力を認めたのは。
重い沈黙が落ちる。
誰も責めない。
責められない。
彼女は十分すぎるほど戦った。
誰よりも考えた。
誰よりも苦しんだ。
その上で。
出た答えだった。
やがて。
ディーノスがゆっくりと立ち上がる。
そして娘の肩へ手を置いた。
「そうか」
短い言葉。
責める色はない。
失望もない。
ただ。
父として。
王として。
現実を受け入れた声だった。
アルティシアは俯く。
その時だった。
謁見室の扉の外で。
再び伝令の足音が響いた。
謁見室が静まり返る。
誰も次の言葉を予想していなかった。
ディーノスはゆっくりとアイザックへ視線を向けた。
「アイザックよ」
白髪の宮廷侍従長が一歩前へ出る。
そして深く傅いた。
「ここに」
ディーノスはしばし沈黙した。
王としてではない。
父として言葉を探しているようだった。
やがて小さく息を吐く。
「わがままを一つ、聞いてはくれまいか」
アイザックは顔を上げない。
ただ静かに答える。
「御意に」
即答だった。
内容すら聞かない。
主君の願いだから。
それだけだった。
ディーノスは僅かに微笑む。
そして頷いた。
その後。
集まった将校達を見渡す。
ノーギス。
アイゼン。
宰相。
近衛騎士達。
長年共に国を支えてきた者達。
その全員へ向けて。
王は告げた。
「皆の者」
低く。
だがよく通る声だった。
「これまで戦ってくれたところ」
一度言葉を切る。
「大変に申し訳ないが」
そして。
王は言った。
「我が子達を連れて逃げて欲しい」
空気が凍った。
誰も理解できない。
いや。
理解したくなかった。
最初に反応したのはアルティシアだった。
目を見開く。
「お父様……?」
ディーノスは娘を見ない。
王として話していた。
「プラミスも」
「ナリスタも」
「サリオンも」
そして。
ゆっくりとアルティシアを見る。
「お前もだ」
アルティシアが立ち上がる。
「何を仰って――」
だが。
ディーノスは続ける。
「王家が全滅すれば終わりだ」
誰も口を挟めない。
「国は滅ぶ」
「民は絶望する」
「再興の旗印すら失う」
黒獅子の瞳が真っ直ぐ前を向く。
「だから生きろ」
その言葉は娘へ向けたものだった。
「逃げ延びろ」
「そしていつの日か」
拳を握る。
「ルグレシアを取り戻せ」
アルティシアの唇が震える。
言葉が出ない。
ディーノスは静かに笑った。
不思議なほど穏やかに。
「安心せよ」
そして将軍達を見る。
「我は残る」
ノーギスも笑った。
「当然ですな」
アイゼンも肩を竦める。
「王だけ置いて逃げれば後世の笑い者です」
あちこちから笑い声が漏れる。
重苦しい空気の中。
それでも。
彼らは笑った。
ディーノスは満足そうに頷く。
そして最後に。
アイザックを見る。
「頼んだぞ」
白髪の侍従長は深く頭を下げた。
「必ず」
短い返答。
だが。
その声は震えていた。
騎士団隊長ラインが一歩前へ出た。
その表情はいつもと変わらない。
穏やかで。
爽やかな笑み。
まるで戦争など存在しないかのように。
そして静かに頭を下げる。
「私もお供します」
謁見室が静まり返る。
ディーノスが眉を上げた。
「ライン」
短く呼ぶ。
だがラインは微笑んだままだった。
国王は首を振る。
「貴様は駄目だ」
はっきりと言い切る。
「ルグレシアの再興にはお前達、若い世代の力が必要になる」
そしてアルティシアを見る。
「アルティシアと共に行け」
命令だった。
王命だった。
だが。
ラインはやはり笑みを崩さない。
ゆっくり首を横に振る。
「出来ません」
空気が張り詰める。
ディーノスの目が細まる。
「勅命だ」
王の声が響く。
「逃げろ」
だが。
ラインは再び首を横に振った。
笑顔のまま。
いつもの柔らかな笑顔のまま。
「それだけは、聞けません」
沈黙。
誰も息をしない。
王命への拒絶。
本来なら許されない。
だが。
ディーノスは怒らなかった。
むしろ。
口元がゆっくり吊り上がる。
「勅命を拒否するとは……」
黒獅子が笑う。
「強情なやつめ」
ラインも笑った。
まるで昔話でもするように。
そして胸へ手を当てる。
「私達は王国の剣」
静かな声だった。
だが。
誰の胸にも届く声だった。
「そして王の剣です」
ラインは真っ直ぐディーノスを見る。
「最後まで、共に」
ディーノスはしばらく何も言わなかった。
ただ。
目の前の若き騎士を見つめる。
幼い頃から知っている。
忠義深く。
真っ直ぐで。
融通の利かない男。
やがて。
王は大きく息を吐いた。
「まったく」
苦笑する。
「アルティシアの周りには頑固者しかおらんのか」
その言葉に。
ノーギスが笑う。
アイゼンも笑う。
将軍達も肩を揺らした。
重苦しかった空気が少しだけ和らぐ。
だが。
アルティシアだけは笑えなかった。
目の前で。
皆が。
残る覚悟を決めている。
それが分かってしまったから。
震える唇を噛む。
何か言わなければならない。
そう思うのに。
言葉が出てこなかった。




