戦いの始まりー
東の空が白み始めていた。
王城地下。
臨時司令室。
徹夜で続いていた軍議も、なお終わる気配はない。
机の上には無数の報告書。
地図には新たな駒が増え続けている。
伝令達が慌ただしく出入りし、各地の情報を運んでいた。
その中心で。
アルティシアは地図を見つめている。
眠気などとうに通り越していた。
「報告!」
伝令兵が駆け込んでくる。
「バラキア軍先鋒、国境線より二十キロ地点を通過!」
参謀が地図へ駒を置く。
「予測通りです」
続いて別の伝令が入る。
「西方街道にて連合軍補給部隊を確認!」
「規模は」
「推定一万!」
司令室がざわつく。
アルティシアは黙ったまま地図へ視線を落としていた。
八十万。
その数字は変わらない。
敵は圧倒的。
正面から戦えば終わる。
だからこそ。
正面から戦わない方法を考えなければならない。
ディーノスが腕を組む。
「何か見えたか」
アルティシアは答えない。
代わりに地図の上へ駒を置いた。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに別の場所へ動かす。
参謀達は意味を理解できない。
だが誰も口を挟まない。
アルティシアの思考を妨げたくなかった。
やがて。
小さく息を吐く。
「……なるほど」
司令室の空気が変わる。
ディーノスがニヤリと笑った。
「見つけたか」
アルティシアがゆっくり顔を上げる。
疲労の色は濃い。
それでも瞳だけは鋭く輝いていた。
「お父様」
「うむ」
「敵は八十万です」
「そうだな」
アルティシアは地図へ指を置く。
「ならば八十万であることを利用いたしましょう」
参謀達が顔を上げる。
アルティシアは地図上の補給路をなぞった。
「大軍には大軍の弱点があります」
その口元が僅かに上がる。
徹夜の末。
ようやく見つけた。
八十万を相手にするための最初の糸口を。
「まずはそこから崩しますわ」
夜明け。
ルグレシア王国北方国境。
冷えた空気の中、兵士達が無言で武器を握っていた。
誰もが北を見ている。
その先。
地平線の彼方から土煙が上がっていた。
バラキア軍。
二万五千。
黒い波のような軍勢が国境へ迫っている。
最前列に立つディーノスは静かにそれを見つめていた。
風が黒髪を揺らす。
隣にはノーギス。
その後方にはアイゼンを始めとする将達。
誰も口数は少ない。
やがて。
遠くから角笛が響いた。
バラキア軍の進軍開始。
地面が震える。
数万の兵が一斉に動く音だった。
「来ますな」
ノーギスが呟く。
ディーノスは鼻を鳴らした。
「うむ」
一方その頃。
王都地下司令室。
アルティシアは地図を見つめていた。
目の下には隠しきれない隈。
徹夜の疲労も残っている。
だが瞳だけは冴えていた。
参謀が報告する。
「敵軍、予定通り中央街道より侵攻」
アルティシアが頷く。
「右翼は」
「動きありません」
「左翼も」
アルティシアは地図へ駒を置いた。
「予測通りですわね」
静かな声。
だが参謀達の表情は明るかった。
予測通り。
その言葉がどれほど心強いか。
今の彼らは知っている。
やがて。
最初の衝突報告が入る。
「前線接敵!」
司令室の空気が張り詰める。
「戦闘開始!」
誰もが地図へ視線を落とした。
数刻後。
新たな報告が飛び込む。
「敵先鋒、予定地点へ侵入!」
アルティシアの指が止まる。
「では始まりましたわね」
参謀達が息を呑む。
昨夜。
アルティシアが組み上げた作戦。
その第一段階だった。
国境付近。
一見すると何の変哲もない丘陵地帯。
だが。
その内部には無数の罠と伏兵が配置されている。
さらに街道沿いには意図的に弱く見せた防衛線。
敵を誘導するための餌。
そして。
敵はそれに食いついた。
「報告!」
「敵軍中央部混乱!」
司令室がざわつく。
続く。
「左翼部隊前進停止!」
さらに。
「後方との連携が取れていません!」
アルティシアは静かに目を閉じた。
成功している。
少なくとも。
今のところは。
参謀達の顔にも希望が戻り始めていた。
二万五千。
対。
一万五千。
本来なら押し潰されて終わる戦い。
だが。
前線から届く報告は違った。
「敵損害増加!」
「我が軍損害は想定以下!」
「敵指揮系統に混乱発生!」
誰かが拳を握る。
誰かが小さく笑う。
まだ勝ったわけではない。
だが。
戦えている。
それだけで奇跡だった。
アルティシアは地図を見つめる。
まだ始まったばかり。
本当の戦いはこれから。
それでも。
王女の口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
昨夜。
何百回と崩れた兵棋台。
何百回とやり直した作戦。
その全てが。
今、戦場で形になり始めていた。
王都地下司令室。
緊張に満ちた空気の中。
誰もが前線からの報告を待っていた。
参謀達は地図を睨み。
伝令達は走り回る。
アルティシアもまた椅子に座ったまま地図へ視線を落としていた。
青白い顔色。
細い肩。
それでも瞳だけは最後まで前線を追っている。
やがて。
司令室の扉が勢いよく開いた。
「報告!」
全員が振り返る。
飛び込んできた伝令兵は興奮で顔を紅潮させていた。
「バラキア軍!」
息を切らしながら叫ぶ。
「後退を開始しました!」
一瞬。
誰も言葉を失った。
「繰り返します!」
「敵軍後退!」
「我が軍優勢!」
「国境線防衛に成功しております!」
次の瞬間。
司令室が歓声に包まれた。
「おおっ!!」
「やったぞ!」
「殿下の策だ!」
「勝った!」
参謀達が立ち上がる。
抱き合う者。
拳を突き上げる者。
涙ぐむ者までいた。
誰もが絶望していた戦いだった。
兵力差一万。
それを覆した。
奇跡だった。
その中心で。
アルティシアは動かなかった。
ただ静かに報告を聞いていた。
そして。
小さく息を吐く。
「……よかった」
誰にも聞こえないほど小さな声。
肩から力が抜ける。
張り詰めていた糸が切れたように。
昨夜から眠っていない。
食事もまともに取っていない。
吐き気を堪えながら軍議を続けた。
ずっと。
ずっと気を張り続けていた。
だから。
勝利を聞いた瞬間。
限界が来た。
アルティシアの身体がぐらりと揺れる。
近くの参謀が目を見開いた。
「殿下?」
アルティシアは何か言おうとした。
だが声にならない。
視界が暗くなる。
身体から力が消えていく。
そして。
椅子から崩れ落ちた。
「殿下!!」
悲鳴が響く。
その瞬間だった。
後方に控えていたアイザックが飛び出す。
老執事とは思えぬ速度だった。
床へ倒れる前にアルティシアの身体を抱き留める。
「殿下!」
返事はない。
瞳は閉じられていた。
アイザックの顔から血の気が引く。
「医師を!」
司令室へ怒鳴る。
「今すぐ医師を呼べ!!」
先程までの勝利の空気は消えていた。
アイザックは震える手でアルティシアの額へ触れる。
熱い。
異常なほど。
それでもアルティシアは眠るような顔をしていた。
アイザックは迷わない。
細い身体を抱き上げる。
まるで壊れ物を扱うように。
「道を開けてください」
低い声だった。
だが誰も逆らえない。
参謀達が慌てて道を空ける。
アイザックは足早に司令室を後にした。
その腕の中。
アルティシアは微かに呟く。
「……よかった……」
夢を見るような声。
国が守られた。
その安堵だけを残して。
王女は深い意識の底へ沈んでいった。
国境線。
ルグレシア軍陣地。
戦いは終わった。
だが兵達に休息はない。
負傷者の搬送。
陣地の修復。
武器の補給。
伝令の整理。
誰もが慌ただしく動いていた。
次が来る。
全員が理解している。
今退けたのは先鋒に過ぎない。
本隊はまだ健在なのだ。
中央の指揮幕舎では将軍達が集まっていた。
ディーノスが地図を眺めながら笑う。
「見事にアルティシアの策がはまったな」
その言葉に将軍達も頷く。
「はい」
「敵軍の動きを完全に誘導しておりました」
「お陰で被害も最低限に収まっております」
別の将軍も感心したように腕を組む。
「敵も味方もなるべく死なせず、後退を選ばせるという殿下の軍略」
小さく息を吐いた。
「恐れ入りました」
ノーギスも笑う。
「まったくですな」
老将は椅子へ腰掛けながら肩を回した。
「昔の軍師共なら勝利のために数千は平気で捨てておりました」
周囲が苦笑する。
それは事実だった。
戦争とはそういうものだ。
だがアルティシアは違う。
兵の命も。
民の命も。
敵兵の命ですら可能な限り守ろうとする。
だからこそ難しい。
だからこそ恐ろしい。
アイゼンが笑う。
「殿下は戦場向きではないと思っておりましたが」
その言葉に将軍達が振り返る。
アイゼンは肩を竦めた。
「撤回しましょう」
ニヤリと笑う。
「戦場に出てこない方が恐ろしい」
幕舎に笑いが広がる。
ディーノスも豪快に笑った。
「違いない!」
だが。
その笑いも長くは続かなかった。
一人の伝令が幕舎へ飛び込んでくる。
「報告!」
全員が振り返る。
伝令兵の表情は硬い。
「サナトリア本隊の進軍を確認!」
幕舎の空気が変わる。
笑顔が消える。
誰もが地図へ視線を落とした。
二万五千を退けた。
だが。
それは始まりに過ぎない。
ディーノスが静かに立ち上がる。
そして北を見る。
その視線の先。
まだ見えぬ敵軍へ向けて。
「さて」
黒獅子の瞳が鋭くなる。
「ここからが本番だな」




