ルグレシアの黒獅子ー
ディーノスは笑みを浮かべたまま娘を見た。
黒獅子の瞳。
そこには長い戦場人生で積み上げた確信が宿っていた。
「アルティシア」
王の声に司令室が静まる。
「忘れるな」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「戦いは数がものをいう」
誰もが頷いた。
それは事実だ。
兵も。
物資も。
金も。
多い方が有利。
それが戦争だった。
「だが数だけでは駄目だ」
ディーノスは続ける。
「軍略知略。それも大切」
アルティシアが静かに聞いている。
「だがそれだけでも駄目だ」
王は拳を握った。
「最後にものを言うのはやはり、人の意思だ」
司令室にいる全員が顔を上げる。
ディーノスの声は力強かった。
「生きる意思」
「守る意思」
「戦う意思」
「帰る意思」
一つ一つを噛み締めるように語る。
「それは時に」
黒獅子の瞳が鋭く光る。
「十倍の兵力をも覆す」
ノーギスが笑う。
「その通りでございますな」
アイゼンも肩を竦める。
「私など、何度もその手の連中に泣かされました」
将軍達から笑いが起きた。
アルティシアは父を見つめる。
その言葉は戦術書にはない。
兵棋台にもない。
数字にもならない。
だが。
目の前の男はそれで幾度も勝ってきた。
ディーノスは娘へ歩み寄る。
そして大きな手をアルティシアの頭へ置いた。
「お前はよくやっている」
静かな声だった。
「だから今は信じろ」
アルティシアの瞳が揺れる。
「お前が知略で戦うなら」
ディーノスは笑った。
「我らは意思で戦う」
司令室にいた全員が頷く。
80万の敵軍。
絶望的な兵力差。
それでも。
誰一人として俯いてはいなかった。
ルグレシアはまだ負けていない。
戦いはこれからだった。
ディーノスは娘の頭から手を離した。
そして静かに立ち上がる。
大柄な身体。
黒髪黒目。
年齢を重ねた今なお、その存在感は圧倒的だった。
司令室の空気が変わる。
誰もが王へ視線を向ける。
ディーノスはゆっくりと笑った。
「アルティシア」
その声はどこか懐かしむようだった。
「我がルグレシアも二十年近く大きな戦もなく、お前に戦場に立つ父を見せた事はなかったな」
アルティシアが顔を上げる。
ディーノスは地図の前へ歩く。
その背中は大きかった。
黒獅子。
その異名を知る者達の表情が自然と引き締まる。
「見せてやろう」
低い声が響く。
司令室の誰もが息を呑む。
ディーノスは振り返った。
その瞳には若き日の獰猛さが宿っていた。
「ルグレシアの黒獅子の戦いを」
ノーギスがニヤリと笑う。
アイゼンも口元を吊り上げる。
将軍達の目にも熱が宿る。
彼らは知っている。
今ここにいるのは国王ディーノスであると同時に。
かつて幾度も絶望的な戦場をひっくり返した男なのだと。
ディーノスは娘を見据える。
「お前はここでこの父の背中を見ているがいい」
アルティシアの瞳が揺れた。
幼い頃から見てきた父。
優しく。
豪快で。
少し不器用な父。
だが今目の前にいるのは違う。
王だった。
戦場を支配する獅子だった。
ディーノスは地図へ手を伸ばす。
そして国境線へ置かれた駒を掴む。
「まずはバラキア二万五千」
駒が動く。
「これを叩く」
声に迷いはない。
「百万だろうが二百万だろうが関係ない」
司令室の空気が熱を帯びる。
「敵が来るなら迎え撃つ」
黒獅子は笑った。
「それだけだ」
その瞬間。
司令室にいた全員の顔から不安が消えた。
理屈ではない。
根拠でもない。
ただ。
彼らは知っている。
この男が前に立つ時。
ルグレシアは最も強いのだと。
ディーノスの視線が司令室の後方へ向く。
「アイザックよ」
老執事が一歩前へ出た。
背筋は真っ直ぐ。
声にも揺らぎはない。
「ここに」
ディーノスは静かに頷く。
そして問うた。
「お前の役目は?」
即答だった。
「殿下をお守りすることです」
その言葉に迷いはなかった。
何十年も変わらない答え。
ディーノスは満足そうに笑う。
「うむ」
そしてアルティシアへ視線を向けた。
「プラミス、ナリスタ、サリオンにはそれぞれ親衛隊がいる」
王子や王女達には専属の騎士団が存在する。
戦場でも宮廷でも彼らを守る盾。
だが。
ディーノスは再びアイザックを見る。
「アルティシアにはお前だけだ」
司令室が静かになる。
アイザックは何も言わない。
ただ黙って聞いていた。
「頼むぞ」
その一言。
国王からの命令。
そして父親からの願いだった。
アイザックはゆっくりと跪く。
老いた膝が床へ着く。
右手を胸へ当てた。
「この命に代えましても」
その声は静かだった。
だが誰よりも力強い。
「必ずや」
アイザックは顔を上げる。
その先にはアルティシアがいた。
生まれた時から見守ってきた少女。
泣き虫だった幼子。
優しい王女。
誇るべき主君。
「アルティシア殿下をお守りいたします」
アルティシアの瞳が僅かに揺れる。
アイザックは笑った。
いつもの穏やかな笑みだった。
「どうかご安心を」
老執事は胸を張る。
「殿下の前に立つ者があれば、まず私を越えていただきます」
ディーノスが満足そうに頷く。
「それでよい」
そして黒獅子は笑った。
「お前ならば安心して娘を任せられる」
司令室の空気が少しだけ和らぐ。
アルティシアはそんな二人を見つめていた。
言葉は出なかった。
ただ。
胸の奥が少しだけ温かくなっていた。
アルティシアは静かに立ち上がった。
青白い顔。
疲労で今にも倒れそうな身体。
それでも瞳には力が戻っていた。
アルティシアは地図へ視線を落とす。
八十万。
圧倒的な数字。
だが。
先ほどまでとは違う。
「一万五千の兵で、十倍の敵を倒したとて……十五万」
静かな声が響く。
誰も口を挟まない。
「八十万には到底及びませんが……」
司令室の空気が張り詰める。
そして。
アルティシアは顔を上げた。
「残りの六十五万」
その瞳に強い光が宿る。
「私の戦略でなんとかしてみせましょう」
一瞬。
誰も言葉を失った。
だが次の瞬間。
ディーノスが豪快に笑う。
「よく言った!」
その声が司令室を揺らす。
「それでこそ我が娘だ!」
ノーギスが大きく頷く。
「ようやく殿下らしいお顔になられましたな」
アイゼンも笑う。
「六十五万ですか」
肩を鳴らした。
「なかなか面白い数字です」
将軍達も次々と声を上げる。
「ならば我らは十五万を削る!」
「残りは殿下へお任せしましょう!」
「獅子の牙、見せてやりますぞ!」
熱気が広がる。
先ほどまでの重苦しさは消えていた。
アルティシアは地図を見つめる。
六十五万。
到底ひっくり返せる数字ではない。
だが。
父がいる。
将軍達がいる。
兵達がいる。
この国がある。
アルティシアは静かに微笑んだ。
そして地図へ指を置く。
「では始めましょう」
王女の瞳が鋭く光る。
「残り六十五万を倒す方法を」
アルティシアは司令室を見渡した。
将軍達。
参謀達。
そして。
後方に控える一人の騎士へ視線を向ける。
「ライン騎士隊長」
呼ばれた男が一歩前へ出た。
銀の鎧が灯りを反射する。
背筋は真っ直ぐ。
揺らぎはない。
「はっ。ここに」
アルティシアは小さく頷く。
そして静かに言った。
「場合によっては、貴方の聖剣スターブレイカー、使っていただくやもしれません」
その言葉に司令室の空気が変わる。
数人の将軍が表情を引き締めた。
ラインもまた黙って聞いている。
アルティシアは目を伏せる。
「今は敵軍とはいえ同じ大陸の人間」
小さな声だった。
「できれば使いたくはないのですが――」
その先は続かなかった。
言わずとも理解できる。
聖剣スターブレイカー。
それが戦場へ持ち出される時。
そこに待つのは通常の戦いではない。
大量の死だ。
ラインは静かに右拳を胸へ当てた。
迷いのない動作だった。
「殿下が気にされる事はございません」
力強い声が響く。
「我が剣が必要とあれば、いつでもご命令ください」
アルティシアが顔を上げる。
ラインの表情は変わらない。
そこにあるのは忠誠だけだった。
「我ら騎士は国を守るためにおります」
静かな言葉。
だが重い。
「それが民を守るためならば」
ラインの瞳が真っ直ぐアルティシアを見据える。
「どのような役目であろうと果たしてみせます」
司令室が静まり返る。
アルティシアはしばらくラインを見つめていた。
そして小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
王女の礼に。
ラインもまた深く一礼した。
司令室の地図には八十万の敵軍。
だが今。
そこにいる誰一人として視線を逸らしてはいなかった。




