アルティシアの戦いー
深夜。
静まり返った王城の廊下を、一人の侍女が夜廻りしていた。
窓の外では月が高く昇っている。
人々が眠る時間。
王城もまた静寂に包まれていた。
だからこそ。
小さな音が聞こえた。
カチャ。
何かを動かす音。
侍女は足を止める。
こんな時間に誰か起きているのだろうか。
耳を澄ます。
カチャ。
また音がした。
微かな音を辿り、侍女は廊下を進む。
やがて足が止まった。
「殿下……?」
そこはアルティシアの私室だった。
扉が少しだけ開いている。
その隙間から淡い灯りが漏れ出していた。
侍女は首を傾げる。
医師からは絶対安静と言われていたはずだ。
不安を覚えながら、そっと隙間から中を覗き込む。
そして。
「……殿下!?」
思わず声を上げた。
部屋の中央。
そこには兵棋台が置かれていた。
その前にいるのはアルティシア。
しかし椅子には座っていない。
立ってもいない。
床に這いつくばるような姿勢だった。
すでに身体が限界なのだろう。
両腕で身体を支え。
ようやく顔と手だけを兵棋台へ届かせている。
それでも。
アルティシアは駒を動かしていた。
一つ置く。
考える。
首を振る。
崩す。
また置く。
また考える。
また崩す。
その繰り返し。
何十回。
何百回。
続けてきたのか。
兵棋台の周囲には散らばった駒が無数に転がっていた。
アルティシアの顔には強い焦燥が浮かんでいる。
王女の顔ではない。
答えを探し続ける一人の少女の顔だった。
侍女は慌てて駆け寄る。
そして肩を押さえた。
「殿下……そんな身体で……こんな時間まで……なんて無茶を!」
アルティシアの手が止まる。
だが視線は兵棋台から離れない。
震える指先で駒を一つ動かす。
そして。
また崩した。
「駄目ですわ……」
掠れた声だった。
侍女は息を呑む。
アルティシアは兵棋台を見つめ続ける。
「これでも駄目……」
駒を動かす。
「こちらも……」
崩す。
「間に合わない……」
また崩す。
侍女の胸が締め付けられる。
王女は泣いていない。
弱音も吐いていない。
だが。
その姿は誰よりも追い詰められていた。
アルティシアは震える手で再び駒を掴む。
しかし力が入らない。
駒が指先から零れ落ちた。
小さな音を立てて床を転がる。
それでも手を伸ばそうとする。
侍女は思わずその手を握った。
驚くほど冷たかった。
アルティシアは兵棋台から目を離さない。
ただ前だけを見ていた。
「見つからないのです……」
小さく呟く。
「勝てる形が……」
駒を見つめる。
「生き残れる形が……」
唇が震える。
「誰も死なない形が……」
部屋に沈黙が落ちる。
月明かりと灯火だけが揺れていた。
アルティシアは兵棋台を見つめたまま、弱々しく首を振る。
「時間がありませんのに……」
その声には隠しきれない焦りが滲んでいた。
「サナトリアは待ってくれませんのに……」
そして再び。
震える手が駒へ伸びる。
王女はまだ諦めていなかった。
たとえ身体が先に壊れようとも。
「殿下! おやめください!」
侍女がアルティシアの伸ばした手を掴む。
その瞬間だった。
アルティシアがようやく兵棋台から視線を離した。
虚ろな瞳が侍女を映す。
そして。
不思議そうに首を傾げた。
「……あら、カナン……こんな時間にどうしたのですか?」
カナンの顔が歪む。
胸が痛かった。
目の前にいるのは王女だ。
だが今のアルティシアは、どこか現実から離れてしまっているように見えた。
「おやめ……ください……」
声が震える。
「死んでしまいます……」
アルティシアはゆっくり首を横に振った。
まるで子供を諭すように。
「駄目ですわ……」
掠れた声だった。
「朝までに作戦を立てなければ……」
再び兵棋台へ手を伸ばす。
「相手は待っては、くれませんもの」
その言葉にカナンは唇を噛む。
数時間前。
軍議は突然中断された。
サナトリアを中心とした連合軍が既に出兵したという報告。
会議室は騒然となった。
即座に迎撃準備が開始された。
そして判明した現実。
連合軍に参加した国家の中で、最もルグレシアに近い国の軍勢が、朝には国境へ到達する。
時間がない。
あまりにも。
時間がなかった。
アルティシアは震える指で駒を動かす。
敵軍。
味方軍。
補給線。
退路。
全てを組み直す。
考える。
崩す。
また組み直す。
「兵力差は埋まりませんわ……」
駒を動かす。
「こちらへ誘導しても……」
崩す。
「駄目……」
また崩す。
「足りない……」
カナンは見ていられなかった。
兵棋台の周囲には無数の配置案が散らばっている。
どれも失敗したものだ。
どれも勝てなかったものだ。
どれも国を救えなかったものだ。
アルティシアは必死だった。
王女だからではない。
誰かがやらなければならないからだ。
そして今。
それが自分しかいないと思っている。
カナンは思わずアルティシアの肩を抱き寄せた。
「もうお休みください……」
アルティシアは首を振る。
「できませんわ」
即答だった。
「殿下!」
「できませんの」
アルティシアの声が少しだけ強くなる。
その瞳には焦燥が宿っていた。
「朝には敵が来るのです」
震える手で駒を握る。
「作戦がなければ国境軍は崩れます」
駒を置く。
「国境軍が崩れれば村が燃えます」
また置く。
「街が燃えます」
もう一つ。
「民が死にます」
そして。
その手が止まった。
アルティシアは兵棋台を見つめたまま呟く。
「だから……」
声が震える。
「だから私が考えなければ……」
その言葉は誰へ向けたものでもなかった。
自分自身へ言い聞かせるような声だった。
部屋の中には兵棋台の灯りだけが揺れている。
夜はまだ深い。
だがアルティシアにとっては、もう残された時間などほとんどなかった。
カナンはアルティシアの肩を抱いたまま、小さく首を振った。
涙が滲んでいる。
「なぜ……陛下お一人がそこまで……」
その言葉に。
アルティシアは兵棋台から目を離さず答えた。
「一人では、ありません」
静かな声だった。
駒を一つ動かす。
敵軍が進む。
味方軍が崩れる。
また崩す。
「父も」
駒を置く。
「宰相も」
さらに置く。
「兵も」
また一つ。
「家臣達の誰もがすでに戦いに備えています」
アルティシアの声は穏やかだった。
不思議なほどに。
「皆、それぞれの戦場におりますの」
兵棋台を見つめる瞳は真っ直ぐだった。
「父は国を支え」
「兵達は剣を取り」
「家臣達は民を守るため奔走している」
カナンは何も言えない。
アルティシアは震える指先で駒を動かした。
そして小さく微笑む。
どこか寂しげな笑みだった。
「剣を振るえない私には……」
声が少しだけ掠れる。
「これくらいしかできることが……ないのですわ」
駒を置く。
考える。
止まる。
また崩す。
何度目かも分からない。
だがアルティシアは諦めない。
「もし一つでも良い案が見つかれば」
兵棋台を見つめたまま呟く。
「百人助かるかもしれません」
駒を置く。
「千人助かるかもしれません」
また置く。
「でしたら」
その指が震える。
「私は考え続けなければなりません」
カナンの胸が締め付けられる。
目の前にいるのは王女だ。
十五歳の少女だ。
本来なら誰かに守られる側の人間だ。
それなのに。
今は誰よりも多くの命を背負っている。
アルティシアは再び駒へ手を伸ばした。
しかし途中で力が抜ける。
腕が兵棋台の縁へ落ちた。
それでも視線だけは離れない。
「あと少しなのです……」
熱に浮かされたような声だった。
「あと少しで……何か見つかる気がするのですわ……」
月明かりの差し込む部屋で。
王女はなおも兵棋台を見つめ続けていた。
カナンは涙を拭いながら顔を上げた。
まだ諦めきれない。
何か。
何か方法があるはずだ。
「そうです!」
声を上げる。
「中央教会や……大陸警察にご助力を願い出ては? きっとお力に――」
だが。
アルティシアは静かに首を横へ振った。
「なりません」
即答だった。
カナンが言葉を失う。
アルティシアは兵棋台を見つめたまま続ける。
「教会や警察が、国家間の争いに関わることはいけません」
小さな駒を指先で動かす。
「根元が変わってしまいます」
その声は穏やかだった。
けれど揺るがない。
「中央教会は世界の平和ために」
「大陸警察は世界の安全のために」
アルティシアは小さく息を吐く。
「だからこそ信頼されているのですわ」
カナンは唇を噛む。
「でも……」
アルティシアはようやく顔を上げた。
少しだけ。
本当に少しだけ微笑む。
「中央教会のアンジュ様や、大陸警察のマリーナ警部からも連絡はいただいております」
カナンが目を見開く。
アルティシアは頷いた。
「お二人共……力になれないことを悔いて下さいました」
その言葉を思い出したのだろう。
疲れ切った顔に、僅かな温かさが宿る。
「それだけで、お気持ちは十分に」
そう言って再び兵棋台へ視線を落とす。
「皆様、それぞれ立場も信念もありますもの」
静かな声だった。
「その立場や信念を捨ててまで私を助けてくださいなど」
首を横へ振る。
「そのようなことは望めませんわ」
月明かりが差し込む。
青白い横顔を照らしていた。
アルティシアは再び駒を置く。
そして。
また崩した。
「……駄目ですわね」
小さく呟く。
焦りが隠せない。
朝は確実に近付いている。
敵軍も。
同じように。
確実に近付いていた。




