アルティシアの苦悩ー
ルグレシア王国第2王女アルティシアは自室で頭を抱えていた。
目の前のテーブルの上には、魔導王国サナトリアからの抗議文書。
週に一度のペースで届き続け、その数は既に十通を超えている。
そして本日届けられた書面の内容に、アルティシアは意識を失いそうになっていた。
侍女たちが心配そうに左右から華奢な身体を支える。
王女とはいえ、まだ十五歳。
才徳兼備と名高い彼女であっても、この問題だけは手に余った。
震える手で文書を持ち上げる。
何度読み返しても内容は変わらない。
むしろ読むたびに胃が痛くなる。
そこには極めて丁寧な文体で、しかし一切の妥協なく要求が記されていた。
――聖女返還要求。
――聖女の安否確認要求。
――現状説明要求。
――交渉再開要求。
そして最後に。
サナトリア国王印と外務大臣印が並ぶ正式文書。
アルティシアはゆっくりと目を閉じた。
これまでルグレシアは出来る限りの対応を行ってきた。
国王も。
宰相も。
外務省も。
何度も協議を重ね。
何度も返答を送り。
何度も事態の沈静化を試みた。
それでも文書は届き続けた。
要求は少しずつ重くなり。
文面は少しずつ厳しくなっていく。
そして今日。
ついに恐れていた一文が記された。
「やはり……こうなってしまいましたか……」
力なく漏れた声に、侍女たちは何も答えられない。
王女の視線は文書の末尾に固定されていた。
『聖女返還交渉に進展が見られない場合、サナトリア王国は国家として必要な措置を検討する』
短い一文だった。
しかし国家間の文書として読むなら十分だった。
これ以上の停滞は許容しない。
その意思表示である。
窓の外では穏やかな陽光が王都を照らしていた。
だがアルティシアの胸中には、重く暗い予感だけが広がっていた。
隣に立つアイザックが静かに問いかけた。
「殿下。いかがいたしましょう」
アルティシアは返事をしなかった。
机の上に置かれた文書を見つめたまま、細い指で額を押さえる。
返還を求める声は日を追うごとに強くなっていた。
だが簡単に答えを出せる問題ではない。
国王も。
宰相も。
外務省も。
誰もが頭を悩ませ続けている。
それでも返答は必要だった。
期限は待ってくれない。
「……どうすればよいのか……でも早く回答しなければ……なりますまい」
小さく漏れた声は、まるで自分自身へ向けた問いだった。
部屋の中に重い沈黙が落ちる。
アイザックも答えを持ってはいない。
ただ主君の傍らに立ち続ける。
それだけだった。
アルティシアは再び文書へ視線を落とした。
整然と並ぶ文字列が、今はまるで判決文のように見えていた。
アルティシアは唇を噛み締めた。
細い肩が小さく震える。
机の上に置かれた両手へ視線を落とし、絞り出すように言った。
「ごめんなさい…私の判断が…皆の、この国の存亡を危うくしてしまいましたわ…本当にごめんなさい」
部屋の空気が静まり返る。
誰も責める言葉を口にしない。
その沈黙の中で、アイザックだけが僅かに口元を緩めた。
「それでも殿下は、後悔はしておられないのでしょう?」
アルティシアは顔を上げた。
潤んでいた瞳に力が戻る。
そして真っ直ぐにアイザックを見返した。
「当然ですわ。私は自分の判断が間違っていたとは思いません」
即答だった。
迷いはない。
その言葉にアイザックは満足そうに頷く。
侍女たちもまた静かに頷いた。
誰一人として異論はなかった。
あの日。
あの決断を下したのはアルティシアだ。
だが、王族や騎士、貴族たち、そして国民のすべて。気持ちは全員同じだった。
アルティシアは周囲を見渡した。
誰も俯いていない。
誰も後悔していない。
その事実が少しだけ胸を軽くした。
重苦しかった空気の中に、わずかな温もりが戻っていた。
アイザックが満足そうに何度も頷いた。
そして背筋を伸ばし、深々と一礼する。
「それでこそ、それでこそ我らがルグレシア王国第二王女アルティシア殿下でございます」
その言葉に続くように、侍女たちも一斉に整列した。
誰一人迷うことなく頭を下げる。
王女へ向けられた絶対の信頼。
アルティシアはその姿を静かに見つめた。
先ほどまで震えていた肩はもう動いていない。
不安も恐怖も消えたわけではない。
だが、それに飲まれることはなかった。
ゆっくりと椅子から立ち上がる。
窓辺へ歩み寄り、王都を見下ろした。
穏やかな街並み。
人々の暮らし。
自分が守るべき国。
アルティシアは小さく息を吸った。
「サナトリアとの交渉…私のこの命を懸けてでも成し遂げてみせますわ」
決意に満ちた声だった。
その背中を見つめながら、アイザックは静かに口元を緩める。
誰も止めない。
誰も疑わない。
ルグレシア王国第二王女アルティシアは、再び前を向いていた。
昼下がりの柔らかな陽光が、王女の私室へ差し込んでいた。
アルティシアは窓辺に立ち、王都の街並みを見下ろしている。
長い金髪が風に揺れ、白い衣装の裾がわずかに踊った。
市場を行き交う人々。
遠くを進む馬車。
城下に満ちる穏やかな日常。
その全てを、アルティシアは静かに眺めていた。
部屋の後方にはアイザックが控えている。
年齢を感じさせる白髪を丁寧に整え、執事服を隙なく着こなした老執事は、今日も背筋を真っ直ぐ伸ばしていた。
両手を前で重ね、ただ静かに。
何も言わない。
王女が考え事をしている時、無理に言葉を挟むことはない。
必要な時だけ支える。
それが長年仕えてきた彼の流儀だった。
窓の外を見つめる小さな背中を、アイザックは穏やかな眼差しで見守る。
王都の未来を憂う時も。
誰かを想う時も。
アルティシアはいつもこうして窓辺に立つ。
だから老執事は知っていた。
今の主君が見ているのは、街並みだけではないことを。
扉が軽くノックされた。
侍女の一人が確認へ向かう。
しばらくして振り返った。
「殿下、ライン様がお戻りになられました」
アルティシアが窓辺から振り返る。
柔らかな笑みが浮かんだ。
「お通しして」
侍女は一礼し、扉を開く。
静かに部屋へ入ってきたのは騎士団隊長ライン。
長身の体躯は騎士らしく引き締まり、金髪と碧眼が陽光を受けて淡く輝く。
豪華さや華美さはない。
だが手入れの行き届いた騎士服と外套を纏う姿には、一目で分かる品格があった。
姿勢は真っ直ぐ。
歩みは静か。
それでいて部屋の空気が自然と引き締まる。
まさに騎士という言葉を形にしたような男だった。
ラインは部屋の中央まで進むと、アルティシアへ向けて膝をつき、恭しく頭を垂れた。
ラインは膝をついたまま頭を垂れる。
「殿下、ライン・バックス。ただいま帰還いたしました」
アルティシアは安堵したように微笑んだ。
「ライン…長期の遠征ご苦労様です。まずは休養していただきたいところですが..」
ラインは静かに首を横へ振る。
「お気遣いいたみいります。けれど今はー」
その先を言う前に、アルティシアが小さく頷いた。
表情から柔らかさが消える。
「当然、ご存知ですわね」
「はい。今は一刻の猶予もない状況かと」
短い会話だった。
だが互いに十分だった。
サナトリア。
聖女返還要求。
悪化し続ける外交関係。
今や王城でその話を知らぬ者はいない。
ラインは立ち上がる。
長旅の疲労を感じさせない姿勢だった。
しかし碧眼の奥には普段よりも強い緊張が宿っている。
遠征先にいた彼の耳にも、王都の状況は届いていた。
だからこそ帰還後真っ先にこの部屋へ足を運んだのだ。
アルティシアは窓辺から離れた。
先ほどまで王都を見つめていた瞳が、今は真っ直ぐラインへ向けられている。
王女としての顔だった。
「ライン。あなたの意見を聞かせてください」
部屋の空気がさらに引き締まる。
アイザックも侍女たちも静かに二人を見守っていた。




